白 椿 11


白 椿

目次


11


 いつも夜遅くかかってくる久乃からの電話を礼郷は待つようになっていた。礼郷が僕から電話しようかと言ったが、久乃は電話できる時ばかりではないからわたしから電話すると言う。それでも何度か電話で話すうちに久乃の話し方が前よりもずっと親しいものへ変わっていた。5月には3歳になる和史が4月から保育園へ入園することも話してくれた。
『そしたらわたしももっと家の仕事を手伝うつもり。一応社員だし』
「そうか、大変だね」
『ネット販売を本格的にしたくていろいろ勉強中なの。運送会社さんとも交渉したりしているんだよ』
「すごいな。でも無理しちゃだめだよ」
『うん、大丈夫。礼郷さんこそ仕事忙しい?』
「デスクワークだから時々煮詰まって、そんな時は家で『宮原』飲んでるよ」

 ふふっと笑う電話の向こうの笑い声。
 できるなら電話ではなく久乃の顔を見たい。笑っている久乃を……。


 4月になって礼郷は会社の上司からアメリカでの研修勤務を打診されていた。礼郷の勤める会社は飛行機部品などの設計をしていてアメリカに本社があるため、設計部の社員は何年かアメリカ本社での研修勤務をすることになっている。礼郷もすでに入社して2年目に半年間アメリカで研修を受けていた。
「以前から話しはしてあったが、そろそろ2度目のアメリカ勤務をしてもらいたいと思うんだが、お父さんの具合はどうなんだね?」
 上司の部長には父の病気のことも話してある。
「今は落ち着いていますが、父の場合は治る見込みはないので、あと何年保つか……」
「そんなに悪いのかね」
 部長はそう言ってくれたが礼郷にも父の病気の先行きははっきりとはわからなかった。もちろんこのまま悪化することなくいて欲しい。アメリカ勤務は1、2年のはずだが姉の一家が同居してくれているから礼郷がアメリカへ行ってしまってもさしあたり困ることはないだろう。
 しかし久乃のことは……。
 たまに会うだけでもいいと言ったのは自分だったのに。まだ小さな和史がいる久乃は時沢から離れられないことはわかっていたのに。

「礼郷さん?」
 電話をしながら黙り込んでしまった礼郷に久乃はちょっと心配そうに尋ねた。
『あ、……いや、何でもないよ』
「疲れた?」
『そんなことはないよ。ただ、ちょっと……会いたいなと思って』
「……ごめんなさい」
『久乃が謝ることないんだ。ああ、やっぱり疲れているのかな。このところ仕事が忙しかったから。今度、和くんも一緒にどこかへ出かけよう。どこがいいか考えておいて』
「うん……」

 また電話してと礼郷が言って久乃は携帯電話を閉じた。
「ひさのー、和史がお風呂あがったわよー」
「はーい、いま行きます」
 和史のパジャマを持ち2階から降りていく。久乃の父と一緒に風呂から上がった和史の体をバスタオルで拭いて肌着とパジャマを着せてやる。
「湯冷めさせたらダメよ。まだ夜は寒いんだから」
「うん」
 母が心配するので和史へベストを着せかけてやる。

 夜10時を過ぎて暗くした部屋の中で久乃は和史のとなりに横になってうとうとしていた。ふいにジーンズのポケットへ入れておいた携帯電話が振動する。

 あ……?
 礼郷の名の表示。

「はい……」
 小さな声で答えると。
『今、時沢に来ているんだ。駅の近くから電話している』
「え!」
『あれから車飛ばしてきた。……会えない? 顔を見るだけでも』

 和史は眠っている。もう寝着いてから1時間ほど経っているから起きることはないだろう。和史の眠る部屋の中で久乃は上着を着た。財布や車のキーを持つと茶の間でテレビを見ている母へ声をかけた。
「お母さん、和史寝たからちょっとコンビニ行ってくる」
「なあに、こんなに遅く」
「化粧水きれちゃって。お菓子も買いたいし。お母さんもアイスか何か食べる?」
「いやねえ、夜に。すぐに帰ってくるんでしょ?」
「うん、車でちょっと行ってくるだけだよ」

 駅の近くにある駐車場で礼郷は待っていた。
「久乃」
「どうしたの……」
 久乃の問おうとする言葉が消された。礼郷に抱きしめられている。
「電話を切ったらなんだか会いたくなって、いてもたってもいられなくなったんだ。急にびっくりさせたね」
「ううん……」
「会いたかったんだ……」

 礼郷の顔が少し下げられて久乃の顔をのぞきこんだ。
「久乃、キスさせて」
 礼郷の唇が触れた。柔らかく押しつけて離れた唇。

 礼郷が自分の車の後部座席のドアを開けて久乃を座らせた。体に腕を回されたまま今度はかぶさるようにしてきた礼郷の唇。自然に唇が開いて舌が触れあう。
「会いたかった……」
 礼郷がそう言うとまた角度を変えてキスをしてきた。

 ……くらりと理性が溶けていくような感覚。
 夫だった圭吾のキスしか知らない。照れ屋であまりキスなどしない圭吾だったけれど、それでもわたしはあの人のキスしか知らなかった……。

「ん……」
 礼郷の舌が久乃の舌へ絡む。強く吸われて息がもつれる。
 抱きしめられながら礼郷の手が服の上から胸へ触れたのを感じた。引くように顔を離した久乃を礼郷が見ていた。礼郷の目の中にある光。

 礼郷の思いを知りながら彼を見ているわたし。
 わたしは今、どんな顔をしているのだろう。わたしは……。

「ごめん、すぐ帰らなきゃいけないんだろう?」
 体を離した礼郷がすまなそうにそう言った。

 どうして謝るの……
 どうしてそんなに待っていてくれるの……

 泣いてしまいたかった。礼郷の手で。

 それは礼郷が好きだから?
 それとも……彼がやさしいから……?
 


2009.03.26

目次    前頁 / 次頁

Copyright(c) 2009 Minari all rights reserved.