白 椿 12
白 椿
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「横浜で日本酒蔵元フェアというのがあるんだけど」
と声をかけてくれたのは隣市の付き合いのある酒の卸問屋だった。この問屋は圭吾のことも知っていて久乃が仕事を手伝いだしたことを知って声をかけてくれたらしかった。
「関東、中部の蔵元が集まって毎年やっているんだよ。ひとつ宮原さんもどうかと思って。宮原さんの酒ならどこへ出しても大丈夫だよ」
誘ってくれた卸問屋もそう言ってくれた。
宮原酒造は地元や近隣での産業フェアや酒造組合主催の即売会などへは出たことがあったが首都圏でのフェアなどへは今まで出店したことはなかった。
「工場の人にもひとり行ってもらって、販売は香織ちゃんに手伝ってもらおうと思うんだけど。お父さん、お母さん、和史をお願い。1泊だけだから」
「問屋さんも声をかけてくれたんだし、香織ちゃんと泊まるならいいじゃないの、お父さん」
「そうそう、おじさん、たまにゃー久乃ちゃんに外の空気を吸わせてやんなよ」
香織は近くに住んでいる久乃の母方のいとこで久乃より2歳年上、以前は県内でも一番大きなイベント会社に勤めていたが今はフリーターをしていた。独身の香織は身軽で親戚から手伝いを頼まれると何でも気さくに応じてくれる。久乃の家にもよく遊びに来る。
「でもおじさん、おばさんたちはあたしの顔見ると早く嫁に行けって、そういうことばっかり言うんだよねー」
そう言う香織だったが販売やこういったイベントの要領はわかっている。手伝いにはうってつけだった。香織や母に言われて父も承知してくれた。
『6月にね、日本酒蔵元フェアっていうのが横浜であるんです。それにうちの会社も出るんです』
「横浜で? 僕も見に行っていいかな」
『うん。会場ではわたしとあと手伝ってくれる人と3人だから』
「会えるの楽しみだな」
礼郷がそう言うと久乃の声がさらに小さくなったが確かにその声は聞き取れた。
『わたしも……』
「どうぞ、ご試飲下さい」
久乃と香織が小さな紙コップへ少しずつ酒を入れたものを客たちへ差し出す。
こういったイベントでは人出があっても知名度のない酒はただ並べて置いているだけでは近寄って見てくれる客がいてもそれだけではなかなか売れない。その点は久乃も考えていて試飲を用意していた。ただ試飲目当ての一般客もいるので酒ということもあり、むやみに試飲を勧めないように加減がいるからねと香織もアドバイスしてくれていた。
2日間だけのイベントではいかに多く売るかということだけが目的ではなく、卸しや酒の販売店へ少しでも宮原の酒を知ってもらいたいというのが久乃の気持ちだった。
話をして宮原の酒に興味のありそうな客や買ってくれそうな客たちへ試飲を勧める。試飲をして気に入ったら買い求めてくれて勘定のほうも忙しい。名刺を置いていってくれる酒屋なども あった。それでも人出は割と落ち着いていた。
昼は香織に先に控室へ行って弁当を食べてもらい、交替で久乃も弁当を食べようと思っていた。その時間を利用して会場をひとまわりして他の蔵元のブースの様子も見てみたい。やがて香織が戻ってくると久乃にもお昼を食べるように言ってくれたが、客が途切れたら行くからと言いながら久乃はレジ役を続けていた。ブースへ寄って酒を見てくれる人たちへ香織がまた紙 コップを載せた盆を差し出していた。
「ご試飲どうぞ。お車でなければ……」
「いや、車だから」
手で断るしぐさをして、その顔が笑っている。
「礼郷さん……」
「その箱入りのお酒を2本もらえる?」
「はい。ありがとうございます」
紙袋へ酒の箱を入れている久乃へ香織が小さな声で話しかけた。
「知っている人?」
「うん、ちょっと」
久乃があわてたように礼郷から目をそらす。香織はそれに気がついた。
「ひさちゃん、お昼食べておいでよ。こっちは大丈夫だからさ」
「あ……うん。それじゃ、そうしようかな」
久乃へ代金を払っている礼郷を香織はさりげなく見ていた。白いカジュアルっぽいシャツにブロンズブラウン色の薄手のコート風のジャケット。細身のストレートパンツで都会の男らしくさっぱりと洗練されている。
こりゃ、いい男だわ。ひさちゃんの彼? いつのまにぃ?
礼郷は少し離れたむこうで待っている。バッグを持ってブースを出ていく久乃がちらっと振り返ると香織がぶんぶんと手を振ってみせた。
「楽しそうな人だね」
「いとこの香織ちゃん。すごいツワモノなの。前にイベント会社に勤めていたから販売とかもできて頼もしいんだよ」
「ここは何時まで?」
「えと、6時まで。明日は5時までだけど」
「明日は終わったら時沢へ帰るの」
「うん。今夜は香織ちゃんと一緒に泊って明日、終わったら帰ります」
「そうか……」
礼郷がちょっと歩くのをやめた。
「ゆっくり会いたかったけど。またにしよう」
そう言って礼郷が笑った。礼郷の笑顔は少し残念というふうに久乃を見ている。
次の機会なんていつ来るか、わたしにだってわからないのに……。
「あの」
息を吸い込んで次の言葉にする。
「今夜……会える? 会いたいの……」
フェアの1日目が終わり、香織と一緒に予約してあったホテルへ向かった。夕方には時沢の父へ報告も兼ねて今日の仕事が終わったことを電話しておいた。工場の社員も一緒に3人で夕食を済ませてホテルへ着いた時には9時少し前だった。
「あー、疲れた。ひさちゃんもお疲れさまー」
バッグを投げ出してベッドの上へぼんと香織が倒れこむ。
「お疲れさま。香織ちゃん、お風呂入ったら。着替えるついでに」
「うん、そうする。ね、あとでビール飲む?」
「じゃ、わたし買っておくよ」
「おつまみもお願いー」
そう言って香織がバスルームへ入ると久乃は部屋を出て自動販売機コーナーへ行ってビールを買うと携帯電話を開いた。
「お母さん? 今、ホテルに着いたところ。和史はもう寝た?」
『さっき寝たところよ。今日はおじいちゃんにたくさん遊んでもらったからすぐに寝たわよ』
「そう、よかった」
『そっちは大丈夫?』
「うん、香織ちゃんもいるから明日も1日がんばるよ。なにかあったらわたしの携帯へ電話してね」
家への電話を切ると今度は別のところへ電話をする。
「お待たせー、ひさちゃんもお風呂どうぞ……って、あれ? ひさちゃん」
香織が出てくると久乃は着替えもせずにボストンバッグを足元に置いて待っていた。
「どうしたの? なんか……」
「香織ちゃん、わたし、ちょっと出かけていいかな」
「え? 出かけるってどこへ……あ」
久乃の足元のボストンバッグを見て香織は思いついた。
「昼間の人? もしかして」
「うん」
「その人と……ってこと?」
「うん」
「昼間の人か……」
香織はもう一度言うと、ふうっと大きな息をついた。
「わかった。明日は会場で落ち合おう。9時にね。携帯は繋いでおいてね。なんかあったら困るから」
「うん」
「あーあ、明日はひさちゃんとこのホテルの朝食ビュッフェが食べられると思っていたのに。ここのワッフル、超美味しいんだってよ。ま、いいか」
「ごめんね、香織ちゃん」
香織は濡れた髪のままドアのところで小さく手を振って久乃を送り出してくれた。久乃は襟元を押さえながら走るようにエレベーターへと向かって行った。ボタンを押しあっという間に1階へ着いてしまう。心臓の鼓動が胸にいっぱいになって、ロビーの向こうに立つ彼が振り向いて……。
このホテルを出ていったら……忘れられるかな。何もかも。ひと時だけでも……。
忘れられないけれど、でも、ありがとう、香織ちゃん、ごめんね……。
「礼郷さん」
車のドアが閉められると同時に礼郷の手が久乃の手を握った。
「連れていくよ。いい?」
「うん」
「久乃」
「うん」
「愛している」
2009.04.15
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