白 椿 10


白 椿

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10


 和泉屋のすぐ近くにある小さな稲荷神社の祭礼が3月に行われるにあたって「おこもり」という行事が和泉屋で行われるという知らせが街道保存会から礼郷へ届いていた。
 まもなく久乃からも電話があり、今日は和泉屋さんでのおこもりのことで電話しました、と久乃が言った。
「会長さんからも聞いているよ。でも父じゃなくて僕でいいのかなあ」
『若い人に集まってもらいたいそうなんです。だから礼郷さんに来てもらったほうが、わたしも』
 もう久乃の表向きの要件を話す感じが消えていた。それを感じて礼郷が久乃の言葉の続きを待つ。
『わたしも礼郷さんに来て欲しい』

 おこもりというのは神社の祭礼の日に土地の人たちが集まって五穀豊穣や大漁を願い一晩、社(やしろ)にこもるという昔の行事で、時沢でも昭和の中ごろまでは行事としても行われていたが今はもう絶えて久しいと聞いた。
「今は一晩中なんてことないです」
 当日、和泉屋で待っていた久乃が礼郷にそう言った。
「夕方から2、3時間くらい。ろうそくを灯して昔風にやるんですって」
 和泉屋では久乃はいつか見たようなかっぽう着のようなエプロンをしていた。座敷の床の間には素朴な祭壇のようなものが作られていてお供えの酒や果物が並べられていた。そうするうちに街道保存会の会長や神社の世話役、そして町の若い人たちが集まってきていた。若いといっても皆30、40代くらいの男たちが10人ほど。同じ年頃の女性たちは先に来ていて久乃もその中に混じり奥の台所で酒やお茶の用意をしている。
 礼郷はこの日、久乃から普段着で来て下さいと言われていたのでコートの中はダンガリーのシャツにセーターとジーンズで来ていた。雪が時々しか降らない時沢は東京とあまり寒さが変わらなかったので町の男たちも皆、ジャンパーやトレーナーなどの普段着だった。
 ほんとうならこの「おこもり」の行事は稲荷の社で行うのだけれど、礼郷が案内してもらったその稲荷神社の建物は山の斜面に建てられた小さいもので、神社のまわりも狭かった。だから近くの和泉屋を場所にして行われることになったと街道保存会の会長は言っていた。
 和泉屋では礼郷はこの家の当主の息子だからと会長から皆へ紹介されると祭壇の前で会長の後ろへ座らされた。神社の世話役が祭壇へろうそくを灯すと電気の明りが落とされて簡単な五穀豊穣の祈りが上げられた。うしろの若い人たちは男も女も並んで座り神妙に聞いている。それが終わると青年団の会長という男が立ち上がって挨拶をした。どうやらこれは若い世代に伝統行事に親しんでもらう目的も兼ねているらしかった。
「さあ久保田さん、どうぞ」
 皆が座敷に並んで酒やお茶を酌み交わし始めると青年団の会長や街道保存会の会長が礼郷へ酒を勧めてくれた。どちらかといえば30代の人たちの多い顔ぶれと古風で簡素な集まりに礼郷は勧められるままに酒を飲んだ。酒は宮原の酒で、少し離れたところでは久乃が皆に混
じって話をしている。
 顔見知りの人たちと話をする久乃は楽しそうだった。笑ったり何かを言われて快活に答える。お茶の急須を持ってきたり、となりの女性と菓子を配ったりしている。一度礼郷と目の合った久乃がかすかにほほ笑んだ。男たちも飲むばかりではなく、仕事のことや町のことなどを話していてにぎやかだ。礼郷が子どもの頃、時沢へ来たときに父が沢でハヤという小魚を獲ってくれたことを話すと皆がそこはどこだとか、今は獲れなくなってしまったとかひとしきり話が沸く。

「すみません、僕は宿を取ってなかったのでこのまま一晩ここへ泊めてもらえませんか?」
「ああ、それはかまいませんが、泊まるならうちへ泊ってくださいよ」
 礼郷が車で来ていることを知っている街道保存会の会長がそう言ってくれた。
「いえ、急にご迷惑でしょうし、子どもの頃を思い出して泊ってみたくなったんです。布団さえお借りできれば他はなにも要りませんから」
「そうですか? まあ、ここの押し入れに布団はあるし、電気も水道も使えますから」
「すみません」
「いやいや、ここはあんたの家なんだから」

 酒が入って話しがはずみ、終わったのは10時過ぎだった。それでも街道保存会の会長が仕切っているためか、行儀良くすんなりとお開きになった。飲み足りない奴は他で飲んでくれよと会長に言われて皆も笑っている。礼郷も誘われたがそれは遠慮して今晩は和泉屋へ泊ることにした。この家は古かったが一晩だけなら不自由することはないだろう。
 女性たちが手早く片づけを終え、久乃もほかの女性たちと一緒に帰ってしまった。礼郷は久乃とゆっくり話すこともできなかったがそれは仕方がないだろう。

 静かになった家の中で奥の縁側へ出る障子を開ける。縁側には庭に面してガラス戸があって小さな暗い裏庭。しばらく暗い庭を眺めていたが後ろで物音がして「久保田さん」という小さな声がした。冷えた暗い縁側にあぐらをかいたまま礼郷は振り返った。
「ここ」
「あ、そこは寒くないですか?」
 久乃が男物の浴衣や歯ブラシやタオルなどを持ってきていた。
「浴衣は父のものですけど使ってください。ここのお風呂が使えなくて申し訳ないけれど」
「いや、かまわないよ。一晩だけだから。ありがとう」
「今日はわざわざ来ていただいてありがとうございました。こんな集まりなんて初めてでしょう?」
「うん。でも楽しかった。父が時沢がいいって言うのがわかる気がする。若い人もこういうことに熱心なんだ」
「そうでもないの。若い人はどんどん減っているんです」
「そうなんだ」

「でも、僕は久乃さんがいるから」
 礼郷がまた振り返って久乃を見た。 
「だから時沢がいいって思えるんだ」
 久乃はもう視線をはずさなかった。穏やかな顔つき。

 縁側に座っている礼郷。そのうしろに久乃も座っている。暗い庭を見ているかのようなふたり。
 おこもりの集まりのときは久乃とはあまり話もできなかったが今はこうして黙って礼郷のそばにいる。
「和くん、もう寝ているの?」
「はい。今日は母が寝かしつけてくれたから」
「そう……」

「礼郷さん」
「うん?」
「来てくれて……会えてうれしかった」

 礼郷が手を伸ばして久乃の手を取っても久乃はそのままだった。手を引けば久乃の正座していた膝が崩れて礼郷に引き寄せられる。
「少し……こうしていてもいい? 今だけ」
 礼郷の腕の中で久乃がかすかにうなずく。ふわりと伝わる久乃の体温。

 静かに降り積もっていくような思い。
 言葉には出さないけれど……。

「わたし……もう戻らなきゃ」
「うん、そうだね……」
 久乃がこのままここにいられるわけもない。

「さっきの久乃さんは楽しそうだった。来てよかったよ」
「え、そうですか?」
 別れ際に礼郷が言うと久乃が笑った。おこもりのときに見た明るい顔に戻っていた。
 


2009.03.19

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