白 椿 紅白椿


紅白椿

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 母に恋人がいるらしいと気がついたのはいつのことだったろうか。
 それは僕が大学生の時だったと思う。

 大学を受験しようと思っていた僕は教育学部を受験したいんだと言った時に母がすんなり賛成してくれるとは思っていなかった。小さいけれど古くから続く地酒の蔵元の家に生まれた僕は幼い頃から祖父や祖母からおとなになったらこの仕事を継ぐのだと言われながら育ってきた。 父は僕が赤ん坊の時に交通事故で亡くなっていたから、祖父からおまえが跡取りだよ、と言われて子どもだったからあまり深い意味もわからずにそうなんだと自然に納得していた。祖父は酒造工場の中庭で僕を遊ばせてくれて、開いた扉から中に見える並んだタンクや設備をよく見せてくれた。大きな容器やホースなどを洗っている工場の人たちは僕をいつもかわいがってくれて、休み時間にはいっしょにキャッチボールをしたり工場も酒造りとそれに関わる人たちも僕にとってはいつも親しいものだった。
 あとから考えると祖父は僕に後を継がせるために子どもの頃から酒造りや工場に慣れ親ませようとしていたのかもしれない。家業としての蔵元を継がせるのだから子どもの頃から親しませて跡継ぎとしての自覚を持たせる。これはとてもいいやり方だと思う。僕も中学生くらいまでは将来はこの蔵元を継ぐのだと思っていたのだから。

 僕が小学生の頃から続けていた野球に夢中になって中学から高校野球の強豪校へ進む頃には良い監督や先生に恵まれてプロになるのは無理でも野球を続けたい、大学へ行っても野球をしたいと考えるようになっていた。祖父からは高校卒業後は大学へ行っても行かなくても、酒造りに関する勉強を家でしてほしいと言われていた。醸造学などの学科のある大学は少ないし、そういうところへ進学して僕が蔵元の跡継ぎだけにうっかり研究者にでもなりたいと言い出したりすることのほうが祖父には心配だったらしい。
 けれども僕は大学へ行って野球もしたかったが、将来は教師になって野球の指導をしたいと考えるようになってしまった。

 東京の大学を受験したいと言った僕に母は少し困った顔をした。
「お母さんが反対しても、おじいちゃんが反対しても気は変わらないと思うよ」
 僕はそう言ったが、母よりも祖父の反対のほうがすさまじかった。教師になりたいのならこの家から出て行けとそこまで言われた。祖父は大学へ行ってもかまわないと言っていたのに。母は祖父の言いなりだろう。

 でも祖父の言う通りにする気はなかった。今時、家業を継がなければならないなんて。家業といっても会社だ。経営も工場もふさわしい人にやってもらえばいい。家の人間が継いだからってうまくいくとは限らない。僕は自分の考えのほうが正論だと思った。

 僕と祖父とはすっかり冷戦状態になってしまったが僕は考えを変える気はなかった。受験も
迫ったある日、母から「和史、あなたの行きたい学部へ行きなさい。あなたのなりたいと思っている仕事を選びなさい」と言われた時は正直言って驚いた。いつも物静かな、祖父に逆らわない人だと思っていた母がそう言ったのだ。母はそう言うとちょっと茶目っぽく「ふふっ」と笑った。その笑いも意外だった。
 母がそんな感じの人だったとは、そういう事を言って笑える面を持っている人だとは息子の僕も気がつかなかった。

 僕は東京の大学を受験して合格した。
 祖父の反対する道を選んでしまった僕は家を出て大学生活を送ることになったが、そのことについて母は心配するなと言っただけだった。母は祖父に内緒にして仕送りをしてくれたからむろん僕もできる限りアルバイトをした。家庭教師や予備校のバイト、そのほかにもいろいろ。母の負担を少しでも軽くしたかった。
 僕が東京の大学にいる間、年に2、3回くらい母が東京へ出てくることがあった。バイトと野球と勉強で目の回るほど忙しい僕へ美味しいものでも食べにいきましょう、と母はご馳走してくれた。
 大学1年の冬だったか、そんなふうに母と食事をしてからその後で帰るという母と東京駅で別れた時だった。バイト先での用事を思い出して行き先を変えて地下鉄へ乗ろうとした僕はなにげなくホームを見て気がついた。
 地下鉄のホームに立っている母。帰ったんじゃないのか。どうしてこんなところに……?
 その時ひとりの男がすっと母へ近寄った。母と同じくらいの年齢の、でもあいさつするでもなく、ひと言ふた言その男と言葉を交わす母。

 ……誰だ?
 ホームへ着いた地下鉄から降りてくる人波でふたりの姿が見えなくなった。電車が出て行った後にはもうホームにはふたりの姿はなかった。

 知り合いだろう。その時はそう思った。
 けれども僕が大学2年になったばかりの時、東京へ来た母がいつものように東京駅で別れようとした時だった。
「お母さんはこれから会う人がいるから。よかったら和史も一緒に来る?」
「会う人って誰? お母さんの知り合い?」
「時沢の和泉屋さんのご当主よ。東京に住んでいらっしゃるの」
「時沢の? なんだ、それなら僕が会う必要ないじゃないか」
「……そうね」

 母が時沢で「街道保存会」という活動をしていることは知っていたので、その関係の人だと
思って僕は内心ほっとして言った。
 けれども車で母を迎えにきたという人、それはいつか地下鉄のホームで見たあの男だった。その人は車を降りて僕の前へ立つと
「和史君、成人おめでとう。お母さんも君の成長を喜んでいるよ」
 と言った。
 今日の母は僕の二十歳の誕生日を祝ってくれるために来ていた。でもなんでこの人がそう言うんだ?

 よくわからなくて僕は曖昧に礼を言ったが、その時気がついた。
 その人にすっと自然に寄り添って立つ母。見覚えのある服装、いつもの母の顔。けれどもその時の母は僕の知らない母だった。美しくて、そして僕の知らない母だった。


 その後、僕が大学にいる間にその人とは母と一緒に二度ほど会った。一緒に食事をしている僕たちは知らない人から見れば息子の僕を交えた親子三人に見えただろう。そのくらい母とその人は自然だった。母は食事が終わると僕と別れて帰っていったが、僕が東京にいる間、母が僕のところに泊まることは一度もなかった。

 母と別れて帰る僕は一度だけ見てしまったことがある。
 その人と母のつながれた手。
 そして、つないだ手を引き寄せられている目を伏せた母の顔。
 あれは……。


 祖父が歳をとってからは祖父に代わって会社の経営を続けていた母だったが、祖父の死後数年すると会社をたたんだ。親戚や町の人たちからもどうしてやめるのか、これまで続けてきたのだから後は誰か後継の人を見つけて……と言われたが、母は宮原の酒は所詮は家業だから会社として存続させる気はないと言った。母自身が杜氏(とうじ)ではなかったこともあるらしい。 祖父が生きていた頃から長年酒の仕込みの現場にも立ち会い、酒造りに直接手を出すことはなかったが品質の管理に関しては母は一流だったにもかかわらず。
 祖父が女である母を杜氏としてではなくとも酒造りの場に入れたことは祖父にはずいぶんと思いきったことだったと思う。頑固な職人だった祖父はそのころは女性杜氏もいた時代だったとしてもまだまだ酒造りは男の仕事だという考えが強くあったはずだ。それでも母を立ちあわせた祖父の真意はどんなものだったのだろう。

 母は僕が蔵元を継がなかったことをひと言も責めなかった。

 僕が教師になって他県に住み、やがて結婚する頃には母はそれとなく僕と祖父との関係を修復してくれた。祖父もその頃は亡くなる前で気弱になっていたのかもしれない。
 その祖父も今は亡き人だ。そして……。



 母は強い、とても強い人だった。

 僕が一歳になる前に死んでしまったという父。
 夫を失い、幼い僕が成長するまで家業を支えながら生きてきた母。母にとって父はどんな人だったのだろう。父が亡くなったとき母はどんな思いでいたのだろう。そして東京で母が会っていたあの人は……。
 その人とは父の死後出会ったのだろうか。それとも……。

 母は……幸せだったのだろうか。
 そう考えられるようになったのは母が亡くなった後のことだった。

 人づてに聞いたことだったが、その人……おそらくは母の恋人だったその人は生涯独身だったのだと。母もその人もお互いをただひとりの人として、それを貫いたのだろうか。

 なぜ、母はその人と再婚しなかったのだろう。
 なぜ、ふたりは結婚しなかったのだろう。



 愛する人。心から求める人。

 それは運命だったのか……。
 その人も亡くなってしまった今はもう誰に聞くこともできない。

 和泉屋の裏庭に咲く白い椿。紅い椿。
 僕はその花を母の墓前に供える。



 運命でも。
 咲いて落ちるのが運命でも花は咲く。

 ただ愛する人のために。

(紅白椿 了)
終わり  


2009.06.22
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