白 椿 紅椿 7


紅 椿

目次



「ひさちゃん、今週も東京?」
「うん、明日から」
 春の新酒シーズンから続く酒の出荷をしながら香織に尋ねられる。首都圏での販売のために久乃は毎週のように他の社員と一緒に東京へ出かけていた。隣市の酒の卸し業者に紹介してもらった販売店をきっかけに地方の蔵元の酒を数多く置く酒屋や店を地道に回っていた。しかしネット販売を続けてこられたのも、今までどうにか宮原酒造が保ったのも礼郷が貸してくれた金のおかげだった。
 近隣の酒屋での取扱いを断られてからは酒は宮原の家で売るだけになっていたが、人の噂も徐々に薄れていくと今までごく限られた人しか買いに来なかった酒も「やっぱり飲み慣れた酒がいいから」といって戻ってきてくれる客もいるから不思議だ。それもやはりじっと耐えるように宮原酒造が保てていたからだ。いい酒を造れば客はついてきてくれる、という父の言葉を信じて地道に販路を開拓するしかない。

 夏が過ぎ、秋が過ぎ、また巡って来た冬の季節。毎年繰り返される蔵元の仕事。 なんとか今年も冬の仕込みと醸造のシーズンを迎えることができた。父はこの時ばかりは寝食を忘れて杜氏たちと一緒に仕込みから醸造の一連の仕事へ取り組む。いい酒を造れば、そういう父の思いに久乃も応えたいと思っていた。
 今シーズンの仕込みも滞りなく済み、順調な醸造期間を迎えると久乃は礼郷の小切手の発行元である東京の銀行の支店を訪ねて礼郷の義兄の佑介に会うことができた。久乃がこれから少しずつ返していきたいと言うと佑介はそうですかと言ってから時沢と同じ県内にある地方銀行の知り合いだという人を紹介すると言ってくれた。宮原酒造がこれまで取引していた銀行とは別の銀行だった。

「礼郷とは会っていますか?」
「……いいえ、あれからは……」
「そうですか。もしこの銀行から融資が受けられることになったら、そしたらまた礼郷と会って
やってもらえませんか。礼郷は金のことなど気にしていませんけどね。それにしても礼郷は亡くなったお父さんが残してくれた物も自分の貯金も、貸すことのできるものはすべてあなたへ渡してしまったのだから」
「それで……あんな大金を」
「あなたが苦しんでいるのを見たくなかったのでしょう。それだけ礼郷はあなたを愛しているんでしょうね」

 礼郷は姉が相続した家を出て今はひとり暮らしをしているという。
「わたしのせいですね……」
「そんなふうに考えてはダメですよ。礼郷にはまだあなたが残されている。あ、あの時沢の和泉屋、あの家はまだ礼郷のものですよ。休みのときは時々あの家へ泊りに行っているらしい」



 和泉屋の奥の座敷。
 庭からの光に奥の障子が白く輝いている。しんと静まった家の中は物音もせず外の音だけがかすかに聞こえてくる。久乃は土間から座敷へ上がると静かに障子を開けた。
 午後の穏やかな日差しの中で縁側の上がり端へ座って礼郷が庭を眺めていた。今ではすっかり落ち着きをまとわせた彼の背中。モスグリーンのセーターが冬の日差しに柔らかく照らされている。

「久乃のおかげで僕は一生独身だ」
「礼郷……」
「でもそれは久乃を愛していないっていうことじゃない」

「おいで、久乃」
 差し出された礼郷の手の中へ自分の手を入れる。引き寄せられて礼郷の隣りへ寄り添う。
「礼郷……」
「椿の花がきれいだ」
「うん……」

 ほろりと落ちる紅い椿の花。

 そっと礼郷の肩へ頬を預ける。
 この時を永遠と……信じながら。


(紅椿 了)  


2009.06.18

目次    前頁 / 「紅白椿」へ

Copyright(c) 2009 Minari all rights reserved.