樹下に咲く 2


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「運転代わろうか?」
 敬(けい)の声に邦哉ははっと我に返った。
 車の外に立った邦哉は広々と広がった陽の光に明るく照らされた里に見惚れていた。いままでホテルの建設予定地や候補地を何度も回ったことがある。すばらしいロケーションを何度も見たことがあるのに、ここの風景に見とれていた。
 人の手で手入れがされた道や雑木林や畑などがこんなに美しいものだとは知らなかった。同じ人の手が入ったものでも公園や観光地の庭などとは全く違う。敬が言ったとおり、こんなところがあったのかというのは邦哉も同じ思いだった。
「ああ、そうだな」
 まだ目の前の風景を信じられないという視線で見ながらも邦哉は答えた。敬は何も言わず運転席側へまわり邦哉のレンジローバーに乗ったが、邦哉は車のドアを開けながら青い空の下に広がる土地をもう一度眺めた。

 向かう先に何軒かの家々が見えてきていた。最初は何軒かの家に見えたが、近づくにつれてそれが母屋とそのまわりにある納屋などのいくつかの建物だということが邦哉にも見て取れた。
 石垣と生け垣のある道から農家風の広い敷地へと車を入れて止めると敬がすぐに車を降りた。邦哉も降りると一番奥の母屋の横に大きな納屋と思われる建物があり、さらにそのとなりには事務所のような建物があるのが見えた。その前に1台の軽トラックが止められているのは誰かがいる証拠で、敬は迷いなく事務所の入り口の引き戸を開けて中へ声をかけた。
「ごめんください。花屋の折原です」
「折原さんか」
 すぐに出てきた人物は作業服を着た老人で、八十歳近いだろうか、陽に焼けた顔はしわが深かったが細い体はまっすぐで足取りも確かだった。敬が老人に挨拶をすると邦哉も自分から名乗って挨拶をした。
「初めまして、北嶋リゾート企画の北嶋邦哉です」
 丁寧に頭を下げて名刺を差し出した。気むずかしいと聞いていた老人へ礼をつくすのは敬のためでもあった。
「あんたが折原さんの上役かね」
 名刺を見た佐藤老人がにこりともせずに邦哉に尋ねた。
「折原も自分の会社を持っていますが、現在は北嶋リゾート企画と専属の契約をしています。私の部下という訳ではありませんが、一緒に仕事をするうえでかかせない人物です」
「ほう、人物」
 邦哉が老人には馴染みのないだろうアーティストなどという言葉を使わないように気をつけて言うと佐藤老人はふんふんと言いながら名刺をポケットにしまった。
「ホテル経営の人間なんて折原さんと同じようなちゃらちゃらした人が来るかと思っていたがそうではないらしい。私は名刺を持っておらんのでな、すまんが」
 ちゃらちゃらと言われた敬を邦哉は見たが、敬は平気な顔をしていた。いつもはスーツの邦哉も今日は黒いハイネックのセーターに黒いダウンジャケットという服装だったが、敬の癖のある長い髪を首の後ろでくくり、黒っぽい羽織り風の長いコートに細身のパンツといういでたちに比べたら普通に見えるらしい。

「まあ入りなさい」
 佐藤老人に言われてふたりが入った事務所の中ではどっしりとした薪ストーブが焚かれていた。ここは山の中で天気は良かったが、かなり寒さがきびしい。
「もうすぐ孫が来ると思うから、ちょっと待ってもらおうか」
「お孫さんですか」
 邦哉が尋ねると敬が代わって答えた。
「佐藤さんのお孫さんが仕事を手伝っているんだ。ここの五代目になるんですよね」
 敬が言ったのが聞こえているはずなのに、老人はなにも言わず事務机に向かっていた。機嫌が悪くなった訳ではなさそうだが、答える必要のないことには聞こえないふりをしているのかもしれない。
 敬が事前に言っていたようにこの老人はかなり気難しいらしい。俺のことが気に入らないわけではないらしいが、と邦哉が考えていると事務所の外で物音がして静かに入り口の戸が開いた。
「泉さん、こんにちは。お世話になります」
 すぐに敬が立ち上がって入り口へ向いたので邦哉も立ち上がったが、事務所の開かれた戸の向こうにはみごとな梅の木があった。

 梅の木は大きな台車の上に支えの木枠を置いたところにまるで自然に生えているかのように置かれていた。梅の幹は太くはなかったが、曲がり、立ち上がるように枝を伸ばす梅の木だった。咲き初めの白い花がいくつかと、丸く膨らんだつぼみをたくさんつけた梅はこの一本だけで絵になるような雰囲気があった。そして、梅の木のむこうに若い女性が立っていた。かぐわしい梅の花の香りが外の冷たい空気と共に、開けた事務所の入り口から流れ込んできている。
 いつのまにか邦哉は梅の木へ近づいていた。梅の木と女性は事務所の入り口の外に立っていたが、言葉にならない驚きで邦哉はまじまじと梅の枝と、その向こうにいる女性を見た。
「これはすばらしい梅ですね」
 敬の声に邦哉は自分が事務所の入り口を塞ぐように立っていたと気がついて入口の脇へそれたが、目は女性を見たままだった。
「いいえ、中へは入りませんから」
 女性がごく小さな声で言って邦哉から顔をそらした。
「中はストーブがついているだろ。だから梅の木を持ち込めないんだよ」
 後ろで敬がそう言ったが、女性は邦哉と視線も合わせていない。女性は作業着に防寒の厚いジャケットという格好でキャップ帽をかぶっていたので顔がよく見えなかったが、小さな声と、目をそらしてうつむいた様子から若い女性だということが邦哉にはわかった。

「孫の泉だ。泉、離れのほうに持って行きなさい」
「はい」
 佐藤老人に言われて泉が聞き取れないくらい小さな声で答えると、すっと梅の木が入口から見えなくなった。あ、と邦哉が言いそうになったときには佐藤老人が立ち上がって邦哉と敬の後ろに立っていた。
「おふたりさんも向こうへどうぞ。今年最初の梅の花をお目にかけよう」



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