樹下に咲く 3
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事務所を出ると母屋の反対側へと向かう泉の後ろ姿が見え、邦哉と敬が追いついたときは離れの前に着いていた。
離れといわれた建物は古い木造の建物で、大きくはなかったが庭に面した入り口に格子戸のはまった渋い造りだった。そして庭には石が敷かれており、そこに大きな壺が置かれていた。
「泉さん、手伝わせてください」
梅の木の乗った台車を止めた泉に敬が言うと、泉は小さく頷いて台車の向こう側へ回った。そして敬と手分けをしながら梅の木を木枠に固定している縄をはずすと、泉が梅の木の下側の幹に手をかけた。泉がひとりで持っているのにもかかわらず、梅の木はぐらつきもせずに持ち上げられた。
敬が手を貸す必要など全くなく、軽々というか平静にというか、なんの苦もなく梅の木を持ち上げた泉に邦哉は目を見張った。背の高さも普通くらいで厚いジャケットを着ていても細い体つきだということがわかる泉が軽々と梅の木を持ち上げたのは驚きだった。
そして梅の木を持ったままの泉が促すように敬を見ると敬はすぐに泉の反対側を支えて梅の木を大きな壺の中へと活けた。
信楽(しがらき)と思われる黒っぽい肌の壺に梅の幹は難なく入り、泉がすっと手を離すと木の重心が敬へ移り、敬が支えながら壺の縁(ふち)へと幹を落ち着かせた。
邦哉はこれまで敬がホテルのロビーやイベント会場に大がかりな木や花を活けるのを何度も見てきたが、枝のある大ぶりな木がこんなにも簡単に活けられたのを見たのは初めてだった。しかも咲き始めの梅の花は花びら一枚散らしていなかった。
「すごい。いい木だ」
梅の木から慎重に手を離した敬が後ろへ下がりながら感嘆して言った。
壺に活けられた梅の木は枝振りも良く、たくさんのつぼみがついているのも瑞々しさが感じられたが、さほど太くはない幹ではあるものの灰緑色の苔(こけ)がついていて老木の風合いさえある。邦哉から見ても昨年の正月にホテルのロビーに敬が活けた梅の木よりもこの壺に活けられた木のほうが小さくとも風格があり、つぼみを付けた枝に美しさがあった。
「この木はこちらで育てたられたのですか」
邦哉が横に立った佐藤老人に尋ねた。
「もちろん。うちの木はどれも私が手塩にかけたものだからな」
佐藤老人が答えた。
樹木は育つのに何年もかかる。何年、何十年もかけて世話をして育てなければならないだけに、良質の木に巡り会えることは貴重だった。
「すばらしい。ここの木を使いたい。どうだろう、邦哉」
敬が梅の木の前で振り返って言った。
「使うって、来年の年始用にか?」
梅は松などと組み合わせて年始飾りの定番だ。今は二月の初めだから来年用かと邦哉は思ってそう聞いたのだが、敬は梅の木に向かって両腕を開いてから邦哉に向き直った。
「違う、今月だよ。梅の花といえば二月じゃないか!」
敬の言うことは解るが、と邦哉は考え込んだ。二月といえばバレンタインデーでホテルのレストランのチョコスイーツのイベントもある。ホテル内にはすでに花も含めてバレンタインデー関連のディスプレイがされていた。
考えている邦哉に敬はもう一押ししてきた。
「バレンタインはバレンタインでいいけどさ。その後だよ。短いけれど二月、如月(きさらぎ)、梅の花で思い切り古風な日本の早春を演出したいんだ」
敬にしては珍しく熱心な言い方だった。
ホテル内の年間の花装飾はあらかじめ邦哉と敬との間で打ち合わせて決めてある。ロビーやホールの中心となる花装飾と、イベントなどの企画に合わせて飾る花が主なものだったが、敬の言うとおりバレンタインデーの後は三月まで大きな企画はなかった。もともと和モダンをコンセプトにデザインされたホテルの内部だったから、ここで和の飾り付けをするのも三月までの繋ぎになる。
「わかった。いいよ」
邦哉は簡潔に答えた。もとより必要な花材はすべて敬に任せてある。
「佐藤さん、お願いします。ぜひここの梅の木を使わせてください」
敬が佐藤老人に向かって深々と頭を下げたが、老人はすぐには答えず梅の木を見ていた。
「お願いします」
敬はさらに頼み込んだ。
敬は祖父の代から続く花屋の息子だったが、中学生の頃から華道の稽古と修行を積んで師範の資格も持っている。芸能人風の見た目だけではなく実力のあるフラワーアーティストだからこそ人気があるのだ。その敬がここまで佐藤園の梅を熱望するのならと邦哉も一緒に頭を下げた。
「急なお願いだということはわかっていますが、花の時期は短いものです。お願いします」
邦哉が言うと佐藤老人はおやと言うように表情を変えて邦哉を見た。
「そうか、そうですな」
老人はにこりともしなかったが敬の申し出を了承したらしかった。
「では折原さんにうちの梅をお任せしよう」
「ありがとうございます!」
敬の勢い込んだ返事に邦哉は笑いそうになったのを我慢したが敬はすぐにこれからの予定の話を始めていた。邦哉がふと気がつくと佐藤老人の背後で泉が黙ってふたりの話を聞いていた。その場にいるのだから泉が話を聞いているのはよいのだが、聞くばかりでまったくなにも言わす表情も変えない。
「それじゃあ下の梅林を見に行きますか」
佐藤老人が敬にそう言うと、泉が老人の後ろからすっと出て無言で車のほうへと向かった。音もなく事務所の前に止めている軽トラックへ向かって走って行く作業着の後ろ姿は男のように見えたが背中ではひとつに結わえた黒いまっすぐな髪が揺れていた。
――作業着姿の妖精かな。
泉の後ろ姿を見ながら邦哉も自分の車へと向かったが、ほとんどしゃべらず静かなのに行動が素早い泉がなんとなく現実の世界から離れているように見えていた。
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