六月のカエル 37


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 電車に乗り、国立日本美術館に着いた雅野は館前のみごとに整えられた庭も目に入らず足早に入口へと近づいたが、大きな建物の入り口が常設展の入り口だということに気がついてやっと雅野は立ち止った。

 常設展示の入り口には客と思われる人たちが何人かいたが、雅野は常設展を見に来たわけではない。それどころか国立日本美術館に来たのも初めてだったし、そもそも約束をして来たわけではない。アポなしもいいところで、どこから入ったらいいのかもわからない。
 でも、と雅野は顔を上げて日本美術館の建物を見上げた。
 ここまで来て引き返すことなどできない。あえてなにも考えず雅野は常設展示の受付へと向かった。

「学芸課の友永ですか? 失礼ですが……」
 予想した通り、日本美術館の受付の職員は怪訝そうに尋ねてきた。
 雅野はスーツで来たことを幸い、コートは腕に掛けて精一杯落ちついて北之原美術館の職員だと名乗った。
「本日、当館の副館長の北之原がこちらに来ております。すみませんが、急用なので友永さんに取り次ぎをお願いしたいのですが」
「こちらは常設展の受付ですので学芸員にご用のかたは、……少々、お待ちください」
 受付のふたりの女性職員がなにか小声で話し合っていたが、ひとりがバックヤードへと入っていった。受付の邪魔にならないように雅野が待っているとさっきの職員が出てきた。
「申し訳ありません、お約束いただいておりませんと学芸課にはご案内できません」
「あの、ですから急用なのです。取り次いでいただけないでしょうか」
 アポなしだということも、ここは常設展の会場だということも承知していたが、雅野はいつもと違って引かなかった。
「お願いします。友永さんか、当館の北之原か、取り次いでいただくだけでいいんです。お願いします」
 どうしても友永に会いたい。信大を取られることだけは嫌だ。その一心で雅野は必死に食い下がった。
「ですが、こちらでは」
 職員は困ったように言いかけたが、そのときバックヤードから黒いスーツの女性が出てきた。
「私がご案内します」
 受付の職員にそう言って雅野に向き直ったのは友永の部下の樋口だった。

 樋口に建物の別棟へと案内されたが、樋口の背中を追うように歩きながら雅野は考えていた。
 樋口は北之原美術館に来たときも雅野とは挨拶くらいしか話したことがなかった。樋口が客として、というよりも客のふりをして特別展に何度も来ていたのは友永に言われて来ていたとしか思えなかった。樋口は友永の部下であり、いつも友永に付き従う、いわば友永の側の人間だった。
 その樋口がなぜ案内してくれるのだろうと雅野は考えていたが、理由はわからなくとも樋口が案内してくれなかったら雅野は帰るしかなかった。

「樋口さん」
 樋口の後ろを歩きながら雅野は思い切って声をかけた。
「すみません、樋口さんがいてくださって助かりました。ありがとうございます」
 礼くらいは言わなければと思った雅野だったが、立ち止った樋口にゆっくりと振り返られて怖気づいてしまいそうになったのをなんとか気負けせずに礼を言った。
「いいえ、私はちょうどあそこにいただけですから。友永にご用がおありだったのでしょう?」
「はい。どうしても友永さんとお話ししたいんです」
 はっきりと言った雅野に樋口はにこりともせずに問い返した。
「北之原さんのことですか」
「はい、……そうです。すみません、樋口さんにもご迷惑かけて」
 部下の樋口が案内したことを友永はどう思うだろうか。それに思いついて雅野は樋口に謝った。
「迷惑というか……、それを言うなら友永のほうですから」
 立ち止ったまま樋口は少し困惑しているようだった。
「いくら仕事のためとはいえ北之原さんに対する友永は少し変ですね。友永が北之原さんの奥さんだったにしてもこの前のようなことを言うのは感情的すぎて、ちょっと」
 この前のようなことというのは友永が『彼、性欲が強いから』と言ったことだろうか。樋口はあの時、友永の後ろで雅野から目を逸らしていた。
 樋口の思わぬ言葉に雅野はなにも言えずに樋口の顔を見ていたが、樋口はあたりに人がいないかどうか視線を巡らしてから口を開いた。
「友永さん、主任になられてから思うように実績を上げられなくて焦っていたのかもしれません。女性の研究者が増えてきたとはいえ、ここには男性社会が残っていないとは言いきれません。男女関係なく仕事をしていくために確かな実績が欲しいと友永さんが考えたんだと思います」
 そこまで言うと樋口は何事もなかったかのようにまた歩き始めた。

 樋口の微妙な言いかたに雅野はなんとも答えようがなく、樋口の後をついていくしかなかった。
 樋口は友永にも理由があると言いたかったのかもしれないが、それでは仕事のためなら北之原美術館を、信大を利用していいのか。そんなわけない、と雅野は心の中で反論した。そんな友永に信大を取られるのは嫌だ。絶対に嫌だ。
 その思いが消えないように雅野はまっすぐに前を見て樋口が開けるドアの向こうを見ていた。
 
 
「雅野さん」
 案内された部屋の中へ雅野が入ると応接テーブルの前に座っていた信大が驚いて立ち上がった。テーブルの向かい側には友永がいた。
「どうしたのですか。なにか」
「すみません、勝手に……来てしまいました」
 信大の言葉を遮るように雅野は急いで言った。
「無断で来てしまって、ここにわたしが来るべきではないこともわかっています。でもどうしても聞きたいんです。もう共同研究は受けてしまわれたのですか。友永さんにそのことを話されてしまったのですか」
「いや、僕は真野先生のところに寄ってからここへ来たので、その話はこれからするところです」
 信大が驚きながらもそう言った。
「じゃあ、まだ話してないんですね」
 良かったと思う反面、友永さんになにか言われる前に言わなくてはと雅野は必死に言った。
「共同研究の話を受けないでください。桐凰(とうおう)美術館さんと仕事をするためには共同研究を受けるしかないのかもしれませんが、でも信大さんの望まない仕事はしないでください」
 信大の顔が驚きから引き締められた表情に変わっていくのに気付いたが、それでも雅野は一気に言った。
「お願いです……」
 最後には雅野の声が震えてしまっていた。
 友永さんと仕事をしてほしくない。でも、それ以上に信大が思うような仕事ができないことも嫌だ。仕事のことで友永さんに頭を下げたりしないで――。
 そう言いたい気持ちを抑えて雅野は信大を見つめた。

「あきれた」
 信大の向こうで友永が言った。
「急に来てなにを言うかと思ったら研究のことにまで口出しするなんて。自分がどんなに失礼な事をしているのかわかっているのですか」
「わかっています。でも……失礼なのは友永さんです」
 振り返って雅野は声を絞り出した。
「友永さんこそ仕事の事に見せかけて失礼なことを言っています。わたしだけでなく信大さんにも失礼なことを言っています。私たちのプライベートなことは友永さんには関係ないはずです」
「プライベートが仕事に悪影響していないのならそう言えるでしょうけど、信大がこの前の約束をキャンセルしたのはあなたが原因でしょう。それにあなたが今、私たちの仕事に口を出そうとしているのはどうなの。あなたは信大とつきあっているからなんでも言えば聞いてくれるとでも思っているんじゃないでしょうね」
 友永の決めつけ口調もさることながら、信大と呼び捨てにするのが雅野の心にちくちくと刺さる。学生の頃からの付き合いで元妻だったのだと雅野に否応なく思わせる呼び方だった。

「わたしは信大さんには自分のしたい研究をしてほしいんです。そう思っているだけです」
 いつになく強い声で言った雅野に友永は仕方がないわねとでも言いたげに肩をすくめた。
「信大のやりたい研究だからこそ私が共同研究を申し出たのよ。あなたにはわからないだろうけど、北之原美術館にある天青(てんせい)、あれはたいへんな物なのよ。信大がひとりで研究していたらいつ陽の目を見るかわからないでしょう。あれに限らず美術館に収蔵されていても研究が追いつかずにただ収蔵されているだけの品物がいかに多いか。天青がそうならないようにすることのどこが悪いの」
「でも……!」
 雅野は言いかけて言葉を飲み込んだ。

 友永が「天青」と呼ぶ焼き物。それが青磁の最高峰と言われる焼き物なのだと雅野もおぼろげに知っている。それを共同研究で本物と確定できたらさぞ評価されるだろう。でも、それが研究者としての仕事だと言われてしまえばその通りなのだ。
 黒いスーツに身を包み冷静な顔で雅野を見ている友永は、研究者というよりは若手の官僚のようだった。樋口は友永が実績を上げることに焦っていたと言っていたが、とてもそんなふうには見えない。この人にはかなわないかもしれない、そんな思いが頭をかすめて雅野は言い返す言葉を失っていた。

「雅野さん」
 不意に聞こえてきた信大の声に雅野は思わず振り返った。友永に対峙することに必死で信大のほうを見る余裕などなかったが、雅野には自分が常識外れな事をしている自覚はあった。
「す、すみません……、わたし……」
 思わず謝ってしまったが、信大は雅野と友永の間に入って雅野を見た。
「雅野さんが謝ることじゃない。ですが、仕事のことは僕に話させてもらえませんか」
「でも……」
 信大の言うことはもっともだったが、雅野は声を上げかけた。
 北之原敬輔に話を聞いてそれから勢いだけでここに来てしまったが、非常識だとわかっていても信大が友永と仕事をして欲しくなかった。

「でも、でも。さっきからそればかりね」
 信大の向こうで友永が言った。
「あなたのような人が私たちの仕事に口出しするべきじゃないわね」
 声は平静だったが、友永の目はじっと雅野を見ていた。
「仕事のことを持ち出すようなことをしないで正直に言ったら。わたしに信大との仲を邪魔されてむかつくって。でも自分に自信がないから言えないんでしょう。若くてかわいくて胸が大きいからって、あなたみたいに男からやさしくされるのを待っているだけの女って見ているだけで苛つく。そういう女がいるから男はいつまでたってもつけ上がっているのよ」

 あまりの言葉に雅野は血の気が引く思いだった。
 胸の大きいことを言われたことにも腹が立ったが、自信がないとか、待っているだけの女と言われるなんて。友永にそんなふうに思われていたなんて、いくらなんでもひどすぎる。
「待ってなんかいないし、信大さんもつけ上がってなんていません」
 精一杯の声で雅野は言った。
 自分の事はともかく、友永がどうして信大の事を悪く言えるのか、そのことのほうがわからない。好きな人のことを悪く言うなんて信じられない、そう言いたかった。

「仕事を持ち出して難癖つけているのは友永さんのほうです。信大さんのやりたい研究というのなら、どうして桐凰美術館さんとの研究をできないようにするんですか。友永さんは信大さんとやり直したいと言っていたのに信大さんを困らせるようなことをしていますけど、信大さんが好きなのか、それとも嫌いなのか、いったいどっちなんですか」
 雅野が疑問に思っていたことだった。一気に言って友永をうかがうと、意外にも友永は平静に見えた。雅野を見る目はやさしくはなかったが、怒っているようにも見えず、ふっと視線をはずして言った。
「そうね、たぶん両方」

 友永らしくない言葉だった。反撃をくらうとばかり思っていた雅野は一瞬あっけにとられた。自分の弱みになるようなことは見せない人だと思っていた友永らしくない言葉だった。
「両方って、どういうことですか。好きだけど嫌いっていうことですか……」
 それとも嫌いだけど好き? と、雅野はよくわからないまま問い返した。雅野の問いかけに友永は無言だったが、目は雅野ではなく信大を見ていた。雅野の前で信大を見る友永の視線は真剣で真っ直ぐな視線だった。

「雅野さん」
 それまで友永に向いていた信大が急に雅野へ振り返った。
「帰りましょう。こんな話を聞かされる気はない」
 信大からドアのほうへ行くように手で促されたが、急にそう言われても雅野のほうが動けなかった。
「えっ、でも、まだ」
 話しの途中だと言いかけたが、信大は椅子に置いてあった自分のカバンを持ち上げると雅野の背を押した。押されながらも迷った雅野が友永を見ると、友永はあきれたような視線で信大を見ていた。
「自分に都合の悪い話だと逃げるのね」
 ため息混じりの友永のひと言で信大の足が止まった。
「仕事の話でないのなら聞く必要はないだけです。それにあなたから逃げると言われる筋合いはない」
 信大の言葉は冷たいものだったが、信大を見る友永の目つきも暗くなった。信大をじっと見る友永に雅野のほうが動けなかった。

「じゃあ、なに。逃げるのでなかったら、その子に聞かせたくない話だっていうの? やっぱりその子に話してないのね、私たちが離婚した理由」
 友永の言葉に立ち止った信大の表情がより厳しく眉が寄せられた。
「離婚調停でEDだって言ったの、やっぱり嘘だったのね。そうよね、そんな若い子と結婚しようとしているんだから。それを聞いた私の気持ちなんてわからないでしょうね」
 そう言った友永はどこか哀しそうで雅野は内心びくっとした。こんな友永は初めてだった。

「結婚して三か月もしないうちに離婚したいと言ったのはあなたのほうよ。それなのに何度理由を聞いてもあなたは言わなかった。あげくのはてにEDだって言ったのよ。ずっと付き合って結婚したのにそんなこと言われても信じられるわけがない。あなたは嘘をついてまで離婚しようとしたのよ」
 嘘という言葉にぴくりと信大の肩が動いたのを雅野は見てしまった。EDのことは雅野も知っていたが、信大は無言で友永を見ていた。
「そうやってあなたはいつもなにも言わない。まわりの人たちには私がごねて離婚調停になったと思われているかもしれないけど、あなたはEDを理由にしてただ離婚したいというばかりだったからよ。それっていったいどうしてなの? いまだに私はわからない。離婚には応じたけれど、聞いても答えないあなたにこっちは宙ぶらりんで放り出されたのと同然なのよ」

 激しくはないけれどもはっきりとそう言った友永の目はまだ信大を見ていた。
 宙ぶらりんで放り出されたと友永が言ったことは、雅野が信大に離婚した理由を聞いたときに拒否されたときと同じだ。あのときも信大は言おうとしなかった。なんでもいいから言って欲しい、雅野はそう願ったのに。
 あのときのもやもやとした気持ちは今も残っている。
「友永さん……」
 思わず雅野は言ってしまったが、それを遮るように手を出したのは信大だった。
「いまさら言ってもしかたのないことです。雅野さん、帰りましょう」
 そう言って雅野の手を取ろうとした信大を雅野は体を引いて避けてしまった。

――言わなければ通じないと言ったのは信大さんなのに。

「信大さんのヘタレ。どうして、どうして……」
 自分でも知らないうちに雅野は叫んでいた。



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