六月のカエル 36


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 特別展の最終日は無事に終わった。
 駆け込みというほどではなかったが、閉館時間の20分前頃に何人もの客が続けて入場してきて少しの慌ただしさが漂ったが、閉館時間になると客たちは波が引くように出ていった。雅野たちは受付でお辞儀をしながら最後の客が出ていくのを見送り、信大の手によって入口のドアが閉じられると館内が静かになった。

 終わった。ともかく最終日を終えることができた。
 雅野にとっては友永のことで直前に波風が立ってしまったが、表面上は今日一日を無事に終えることができた。

 次の日、美術館は休館に入っていたが信大以下全員が出勤して昼までに事務方の仕事の片付けと締めを行った。展示品の収納や片付けはもとより一日でできるものではなく、展示室はそのままだったがこれで事務のほうは仕事を終えることができる。佐倉と小泉がひと足早く帰り、そして雅野が通用口から出て信大がセキュリティのセットを済ませて出てくるのを待った。
「僕は電車で行きますが、雅野さんはこの後どうしますか」
「……家に帰ってから、あとで買い物へ出かけようと思っています」
 電車で行ける百貨店の入った駅ビルまで、と雅野が付け加えると信大はにこりと笑った。
「そうですか。じゃあ気をつけて」
 信大は友永に会いに行くとも国立日本美術館へ行くとも言わなかったが、素直に答えた雅野に信大は「行ってきます」と言って雅野の手に触れた。美術館の外だったにしろ、雅野は手を取られても力なく、信大は反応の薄い雅野を少し怪訝に思ったものの手を離して雅野と別れた。

 美術館を出たところで信大を見送ると雅野はいったん信大の家の前まで帰った。着替えをして行こうかと思ったが約束の時間までそれほど余裕はなく、スマートフォンを取り出してこの後に行くところを確認すると雅野は信大が向かって行った駅へと歩き出した。




 前日、特別展の最終日のわずかな休憩時間に雅野は北之原敬輔にメールを送っていた。
 名刺には敬輔の手書きで携帯電話の番号とメールアドレスが書かれていたが、美術館の中から電話するわけにはいかないのでメールにしたが、返事はすぐに帰ってきた。

『雅野ちゃんから会いたいって言われるとは思っていなかったなあ。明日は休みだからいいけど。じゃあ場所はまかせてくれる?』

 友達との会話のような返事が来て、敬輔が北之原美術館からわずかふた駅先の駅前で待っていると連絡してきた。

 雅野が待ち合わせの駅の外に出ると敬輔が私服にカジュアルなダウンのコートを着て待っていた。気がついた雅野が敬輔のほうに向かうあいだ、仕事用のスーツにコートを着た雅野を敬輔はおもしろそうにじろじろと見ていた。
「ふーん、雅野ちゃん、相変わらず胸とかスタイル抜群だね」
「急なお願いをしてしまって申し訳ありません。でも……」
 セクハラな発言をした敬輔を雅野は挨拶でかわそうとしたが、敬輔はくすっと笑った。
「雅野ちゃんの頼みならしかたないけどね。話しをするのはあそこでいい?」
 敬輔が手で指したのは駅から見える真新しい高層マンションだった。カフェかどこかで話ができたらと思っていた雅野は慌てて聞き返した。
「え、あそこですか」
「そう。俺が住んでいるところだけどね」
 それじゃもっと悪い。電車の駅で待ち合わせと言われて、まさかその近くに敬輔が住んでいるとは思わなかったが、いくらなんでも敬輔の部屋へ行くわけにはいかない。
「すみません、どこか別の場所で。あの、カフェとか」
「でもカフェで話せるようなことじゃないでしょ。雅野ちゃんが聞きたいことは」
 敬輔は困ってしまった雅野を面白がるように見ている。

 信大のことで聞きたいことがあるからとメールしたのは雅野のほうだ。以前に敬輔からは嫌なことを言われたものの思ったほど悪意がなかったのだが、それはそれとして敬輔は男だ。敬輔とふたりで会うことにしてしまった雅野はいまさらながら後悔しかけた。
「すみません、わたし、信大さんのことがどうしても聞きたくて……、北之原さんなら知っているかもしれないと思ったらそこまで考えられなくて……」
 もごもごと言い訳を口ごもった雅野を敬輔はしょうがないなというように鼻で笑った。
「あんた、抜けているっていうか、そういう突っ込まれやすいところ変わってないね。でもまあ安心しなよ。あそこのマンション、俺がひとりで住んでいるんじゃないの。嫁もいるから」

「えっ、嫁……」
 雅野はぎょっとしてしまった。敬輔が結婚しているなんて初耳だ。
 北之原敬輔は女性に手が早いからと佐倉に言われ、若いのに北興商事の専務という華やかな地位で選りどり見どりで女たちと遊んでいるかと思っていたのに。
「嫁さんにはあんたが来ること言ってあるから。紹介するからとにかく来なよ。時間がもったいない」
 ばっさりと切り捨てるように時間がもったいないと言われて雅野は慌てて歩き出していた敬輔の後を追った。

 敬輔の住んでいる高層マンションは新しいうえにグレードが高く、敬輔の父の北之原正範の住まいほどではなかったものの高級マンションだった。各戸も広そうで、感心しながらも雅野は自宅で出迎えてくれた敬輔の妻を見て正直驚いてしまった。
 敬輔の妻はなんというかとても若く見える人で、ショートボブの髪に化粧の薄い顔がまるで高校生のような感じだった。しかもセーターの上に着たオーバーオールのお腹のところがはっきりと丸く膨らんでいた。
「嫁の美菜(みな)。こう見えて三十歳だよ」
 敬輔のこう見えてというのも失礼な言い方だが、美菜はおとなしやかに笑って挨拶した。
「初めまして。敬輔のいとこの北之原信大さんの婚約者さんですね。美菜です。どうぞおあがりになってください」
 見かけとは違ってしっかりした言いかたで美菜は雅野を迎えてくれた。
「すみません、わたし、奥様がおめでたと知らなくてお邪魔してしまって。申し訳ありません」
 雅野は婚約者と言われたことにも気がつかず、敬輔に言われるままに来てしまったことを後悔しながら美菜に言った。
「いいのよ、気にしないで。結婚したことは北之原信大さんには言ってないそうだから。ね、敬輔」
「そんなこと、いちいち言えねえって」
 笑っている美菜に敬輔はぶっきらぼうに言って奥へと入っていった。

 広いリビングのソファーへ座らされた雅野に美菜はすぐにお茶を持ってきたが、一緒には座らずリビングの奥の部屋に置かれたふたり掛けのソファーに座った。スマートフォンを手に腰を下ろした美菜は話には加わらないものの声は聞こえる位置にいるつもりらしい。美菜がいることで敬輔とふたりきりにならずに済んだ雅野にはそのほうが良かった。
 
「で、聞きたいことってなに」
 低いセンターテーブルを挟んで向かい合って座った敬輔に相変わらず遠慮なく尋ねられて雅野は膝の上で無意識に手を握り締めた。
「あの……、北之原さんは友永有理(ゆうり)さんをご存知ですか」
「ああ、知ってるけど。信大の元妻だろ。特別展に来たんだって?」
「え、それも知ってらしたんですか」
 敬輔は友永が北之原美術館に来たことも知っていた。
「親父のところになんか情報がきていたよ。信大と友永が客たちのいる前で痴話喧嘩したって」
 痴話喧嘩なんかじゃない。雅野はそう言いかけたが言えなかった。
 信大が友永との約束をキャンセルしたことが一因だったし、それは自分のせいだと雅野は思っていた。館長である北之原正範から信大は注意まで受けていて、敬輔一流の皮肉に対抗するほどの余裕は雅野にはなかった。
「そういうことがあったのは事実なんだろ。で?」
 うつむいてしまった雅野を気にせずに敬輔は先を促した。

「……友永さんは国立日本美術館との共同研究の話を持って来られていたのですが、信大さんはその話を断ったんです。それで友永さんが怒ってうちに来て……今日、信大さんは友永さんのところにお詫びに行っているんです」
「はあ? 信大が詫びにって、それ確か?」
 急に声をあげて敬輔が聞き返した。
「信大さんはほかの美術館との仕事のほうがしたくて、そのためなら仕方ないって言ってましたから、そうだと思います……」
 敬輔の問いに雅野は自信なく答えた。
「ふーん……、そりゃ雅野ちゃんにしたらいい気持ちはしないよね」

 敬輔に信大が友永に会ってほしくない気持ちを言い当てられて雅野はもっとうなだれてしまった。信大が友永に会っていると思うだけでも嫌なのだ。胸が痛くなる。
「仕事のためかもしれないけれど、友永さんが強引っていうか、失礼なことまで言われたのに信大さんが国立へ行かなきゃならないのがわからなくて……」
「仕事のためねえ」
 敬輔はどこか馬鹿にしたような口調でそう言った。
「なんで信大が詫びに行くのか俺にはわかんないけど、どうしてあいつは最初から断らないんだ。共同研究だかなんだか、どうせ友永から美味い話でも持ちかけられたんだろうけど、あんな女と仕事する馬鹿がいるか。ったく、利口馬鹿つうか、五年もヒッキーしていたのにあいつはまだわかっちゃいなかったのか」
 敬輔の信大を馬鹿にするような言いかたを聞いて思わず雅野は顔を上げた。敬輔は信大を悪く言っているが、友永のことも容赦なく言っている。あんな女って……。

「あの、それは、信大さんと友永さんが離婚した理由と関係あるんでしょうか」
「なんだ、信大から聞いてないの」
 佐倉と同じことを言われて雅野はバツ悪く頷いた。
「信大さんに聞いたんですけど、言いたくないって……。あの、信大さんと友永さんが離婚した理由ってなんなのでしょうか。それがわからないでいると、わたし……」
 やっと雅野が聞きたかったことが言えて、でもそれを聞くのは怖い気もする。敬輔なら知っているはずだと思ったからここへ来たのに。
「まあ、信大が言いたくない気持ちは俺にはわかるけどね。でも言わなかったら雅野ちゃんが混乱するだけでしょ。信大はわかってないな」
 敬輔は美菜の置いた茶に口をつけてから、しようがねえなと言って話を続けた。

「信大の父親がアメリカにいるのは知ってるよね」
 敬輔に聞かれて雅野は頷いた。
「はい、飛行機の技術者をされているって聞きました」
「本来なら信大の父親が長男でうちの親父が次男だから、北之原の家は信大の父親が継ぐはずだったんだけど、信大の父親はそれを嫌ってアメリカで技術者になってしまったんだ。かわりに家を継いだのが俺の親父だけど、それはいいよ。長男が家を継がなきゃならないなんて決まっているわけじゃないし、俺の親父のほうがビジネスには向いていたし、親父も納得してそうなったんだから。でも、そういういきさつを知らない連中とか、まったく関係ないやつらから見たら信大はやっぱり北之原の長男の息子なんだよ」

「まあ、それを言うなら俺だって跡取りの息子なんだけどね。子どもの頃から周りからはいつもそういう目で見られていたよ。北之原の跡継ぎ、将来は会社と資産を継ぐってね。なまじ金を持っている家だからそういう意味で寄ってくる人間も多かった」
 それはお金目当てってことだろうか、と雅野にもわかった。
「俺は跡継ぐ気だったからいいけどさ、信大の親父さんは相続放棄もして信大は長男の息子であっても跡継ぎではないのに北之原の御曹司だって誤解されるのを嫌がってたね」
 そういえば信大が初めて会ったとき、ときどき北之原家の跡取りと誤解されて女性に突撃されたりすると言っていたのを雅野は思い出した。

「男女関係なく近寄って来られて、俺なんか適当に遊んでいたからいいけど、信大は真面目で堅いから勉強ばかりしてあの通りさ。東大の大学院で知り合った友永とつきあって結婚するって聞いたときにはこっちが驚いたけど」

「同じ仕事をする者同士で、それはそれでいいんだろうと俺の親父は言ってたけどね。ゆくゆくは北之原美術館でふたりで働くのもいいし、信大もそのつもりだったと思う。でも、信大が結婚してすぐに祖父(じい)さんが亡くなったんだ」
 それは雅野も知っていた。信大と敬輔の祖父、北之原謙二郎が亡くなったことで個人所有していたコレクションが北之原美術館に寄贈されて今回の特別展の基になったのだ。

「祖父さんも信大の父親が跡を継がないことは納得していた。というかあきらめていたんだな、きっと。信大の父親は二十歳で日本を飛び出して戻って来なかったから。でも信大は大学は日本に来たし、祖父さんにも会っていて、それなりにかわいがられていたよ。だからだろうけど、遺言で信大に祖父さんの持っていた骨董のいくつかを譲るようにしてあったんだ」

「うちの親父もむろん遺言通りにした。いや、そうしようとしたんだけど、信大はとうとうその遺言の品物を受け取ろうとしなかった。結局すべて北之原美術館に寄贈ということになったんだ」
 そこまで言って敬輔は話すのを止めた。つられるように雅野が目を上げるとじっと見ている敬輔と目があった。
「それが友永には気に入らなかったということだよ。結婚した意味がないって言ったそうだ」

 えっと雅野は心の中で息を飲んだ。
 それは、財産が目当てだということだろうか。美術品目当てに結婚したということだろうか……。

「それ以上は信大は俺にもなにも言わなかった。でも俺は、友永がそれこそ大学院から信大とつき合ったのは北之原の骨董品が目的だったと思っている。離婚話になったときに友永が信大に許せないって言ったらしいけど、どっちが許せないんだか。まあ、あの女らしいっちゃらしいけど、見抜けなかった信大も馬鹿だ」

 許せない……。
 では信大が言っていたのはこのことだったのか。
 でも、友永の言い分はあまりに一方的すぎる。

「それなのに信大が友永に謝りに行くって、わかんねえな。信大に謝らせて共同研究を上手くやろうって魂胆が見え見えだろうが。それだけ今回の特別展が良かったんだろうけど、雅野ちゃんはそれでもいいの?」
 やはり敬輔は信大には厳しい。だが、それでもいいのかと聞かれて雅野は思わず声を上げた。
「……嫌です。友永さんは仕事のことだけじゃなくて、いえ、仕事のことがあるからかもしれないけど、信大さんと復縁したいって言ったんです。それなのに信大さんが行ったら……」
 友永に取られてしまう。あの友永に。自分では対抗しようのない友永に。
「このままじゃ信大さんを取られてしまう……」
 雅野が自分でも言えなかった本心がこぼれて出ていく。
 自分が逆立ちしてもかなわないキャリアの、知識もかなわない友永に信大を取られてしまう。
「でも、それだけは絶対に嫌。嫌です」
 
「だったらあんたが話すべき相手は信大と友永だよ。事情はわかっただろう。ぐずぐずしている場合じゃない。はっきり言ってあんたが俺に会いに来ること自体馬鹿らしく思うよ。話すべき相手を間違えている」
 きつい言葉だった。
 真正面から敬輔に言われて雅野はびりびりとした敬輔の気迫に震えた。さすがに伊達で北興商事の専務ではない。それでも雅野は震える手で脇に置いてあったバッグをつかんだ。
「……ありがとうございました」
 小さな声だったが雅野は礼を言うと立ち上がった。ふらともせずに敬輔の家の玄関へと向かう。

「信大に言ってやれ。あいつは真面目でやさしいけれど、やさしすぎるってやつだよ。友永にも、雅野ちゃんに対しても。はっきりしろってな」
 敬輔が玄関内にあるセキュリティのパネルをタッチしながら言ったが、雅野はなにも言わずただ頭を下げて敬輔の家を辞した。



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