六月のカエル 35
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目次
桐凰(とうおう)美術館の武田は真冬にもかかわらず汗をかきそうな勢いで北之原美術館へと入ってくると受付で待っていた信大に挨拶もなしに話しかけた。
「友永さんから聞きましたが、共同研究を断ったというのは……」
「武田さん、奥の部屋で話しを伺います。どうぞ」
昨日のことがあったばかりの信大は受付で話すことなく武田を館長室へと案内して奥へ入っていった。
受付でふたりのやり取りを聞いていた雅野はやはり昨日のことだと思って館長室のほうを気にしてはみたが、ふたりの話し声が聞こえるわけもなかった。
夕方までかなりな時間が経ってやっとふたりが館長室から出てきたが、武田の表情はいまいちで受付まで来ると信大に「では国立(こくりつ)の件、よろしくお願いします」と言ったが、頭を下げた信大も苦い顔つきだった。
なにがよろしくなのだろう、と雅野は信大を目で追っていたが、信大は武田を見送ると事務室へ入ってしまった。佐倉が帰る前に信大が事務室へ入るのはいつものことなのだが、雅野は受付で仕事を続けるしかなかった。
「きょうは桐凰美術館さんが来て予定していた仕事ができなかったので残業していきます。遅くなるかもしれないけど雅野さんは先に休んでいてください」
やっと仕事が終わり、小泉が帰って自分たちも帰れると思ったのに信大に残業と言われて雅野は内心がっくりしてしまった。
「すみません、特別展も明日までなのでどうしてもやらなければならないことがあるのです」
「……はい、ではお先に失礼します」
聞きたいこともあったのだが、昨日は雅野が早退し、今日は桐凰美術館の武田が訪れてといろいろあって信大の仕事もずれ込んでいるようだった。ここで言っても仕方がないと思い雅野は先に帰ることにした。
信大のぶんも夕食の準備をしたが雅野はあまり食べる気になれず、少しだけ食べてから早めにベッドに入ったが、まだ信大は帰ってこなかった。
「信大さん、まだかな……」
遅くなるかもしれないと言われていてもこんなに遅いことはいままでなかった。
布団の中は暖かかったが、信大のいないベッドはやはり寂しい。
「信大さん、早く帰ってきて……」
ベッドに転がりながらもう一度声に出して言ってみた。上手く言えないが寂しいだけでなく胸の中に硬い塊がつかえている。
――やっぱり聞かなければよかったのだろうか。
信大が友永と離婚した理由、それを知らないからこんなにも不安になる。
でも信大は話したくないと言った。信大が話したくない理由、それは……。
そこまで考えて雅野は疲れてしまった。考えても考えても、どうにもならないことばかりだった。灯りを消してぼんやりしながら横になっていると階下で物音がして信大が帰ってきた。しばらくすると小さな音がしてドアが開き信大が入ってきたが、灯りをつけていなくてもわかる信大のシルエットだった。
暗い部屋へ入ってきた信大はベッドの向こう側に回ってサイドデスクに携帯電話を置くと掛け布団をめくった。ベッドが揺れて信大の体が横に入ってくると雅野は手を伸ばして信大に抱きついた。
「あ、起きていたの」
いくぶん驚いたように信大が言って雅野のほうへ向き直った。
「すみません、遅くなって。寝ていたと思ったから」
雅野は顔を信大の胸に顔をつけて首を振った。
「寝てない。寝てないから……」
顔を押しつけて何度も首を振る雅野に、信大は上体を起こそうとして雅野の肩に手をかけたがそれでも雅野は顔を押しつけていた。
どうして桐凰美術館の人が来たの。
どうして早く帰ってきてくれないの。
どうして友永さんと別れたの……。
いろいろな問いが混ざり合って雅野は声も出なかった。子どものように信大の胸に顔を押しつけるばかりだ。
「雅野さん」
信大が体を起こすのをあきらめて横になると雅野の肩を抱いた。信大の腕に抱かれて伝わってくる体温に雅野は涙が出そうでまた顔を押しつけた。
「信大さんが帰ってこないから……」
「遅くなってすみませんでした」
信大がまた謝る声が聞こえて雅野の顔に手が当てられると信大の唇が触れた。冷たいと雅野が感じる間もなく唇が開かれて温かな舌が絡んだ。
信大の唇、信大の舌、いつもの巧みさで雅野の唇を愛撫する信大のキスだった。ほうっと吐き出された雅野の息とともに唇を離して笑ったいつもの信大だった。
「待っていてくれたんですね。ありがとう」
礼を言う信大に雅野はふるふると首を振った。礼を言われるほどのことはしていないのにいつも思いやりがあってやさしい信大、そんな信大がやっぱり好きだ。
「抱いて」
信大の胸に抱かれたまま雅野は言った。
昨日からいろいろな事があってあまり話しもできなかった。信大がそばにいてくれないと寂しいだけでなく不安になってしまう。
「でも雅野さん、昨日熱を出したから」
「抱いて」
信大の言葉を遮ると、雅野は自分の中の不安を払うように上体を起こして信大にのしかかるようにして顔を近づけた。暗い中でも信大が自分を見上げているのがわかる。
「雅野さ……」
言いかけた信大に雅野は自分から口づけして信大の口を覆った。
信大の体の上を雅野の唇がゆっくりと下がっていく。いつも雅野にしてくれるように肌にキスを繰り返しながら胸から腹へと下がり、雅野の手がパジャマのズボンの上から信大をなぞった。
「……は」
雅野の手が布の上からすでに硬く形をもっているものを包むと信大がかすかに息を詰めた。
「信大さんはこうされるの、嫌?」
「嫌じゃない。でも」
体を半分起こした信大がなにか言おうとしたが、雅野はかまわずにパジャマのズボンと下着を引き下げると硬い昂りに触れた。指で触れながら真上から唇を近づけてちゅっと吸うと信大の腰が引きかけたが雅野はやめるつもりはなかった。
以前の男に口でしろと言われたことはあったが、嫌々やった雅野には上手くできず男を苛つかせただけだった。でも信大のものなら戸惑うことなく口いっぱいに含むことができる。舌を使って愛撫するたびに信大の腹や胸がひくひくと動いて、信大も感じていると思うだけで雅野の体も熱を帯びていく。本能のように腰をくねらせた体の内がうずきながら熱く火照っていた。
好き。愛している。
そう言う代わりに雅野は信大を深く吸い込んだ。雅野の頭が上下するたびに信大の腰が揺れたがそれでも雅野は口を離さなかった。
「ああ……」
耐え切れずに出てしまった信大の声だったが、雅野は何度も強く口の中のものを吸い上げていた。
「……雅野っ、もう」
これまでずっとさんづけで呼ばれていて呼び捨てにされたことはなかったのに、信大の切羽詰まった声に雅野はうっとりと夢心地で顔を揺らした。
もっと呼んで。もっと感じて。
ずっとわたしのそばにいて……。
信大が雅野の頭に手をかけて押し戻そうとしたが、それよりも早くびくりと雅野の口の中のものが動いて苦いものが広がった。口の中で信大の精を受け止めながら、触れられてもいないのに雅野の開いた両足のあいだが締まって快感が広がっていく。両手をついた姿勢でひくひくとした体の震えに耐え切れず雅野が上体を起こすと、開いた唇からあふれ出たものがぽたりと落ち、胸の丸みの上をひと筋、伝わっていった。
「飲んではだめですよ」
ティッシュが口元に当てられて、信大が雅野の顔を下げさせたが、されるままに口を拭かれるあいだもとろんとした目で信大を見ていた。
「信大さん、好き……、愛してる……」
「そういうことは」
暗くて信大の顔はかすかにしか見えなかったが、耳元にささやかれた声ははっきりと聞こえた。
「僕に言わせてください」
信大の腕が回されて抱きしめられながら雅野の耳に信大の声が響いた。
「愛している」
快感の後の熱をひきずった雅野の中に信大の声が何度も繰り返されてじんわりと温度を上げていく。信大に触れて欲しくて開いている足のあいだに指が入ってきただけで雅野の背が反って強く信大の指を締め付けてしまった。
「好き……、信大さんが好きなの……、どうしたらいいのかわからないくらい……」
擦りあげる信大の指に合わせてうわ言のように言いながらもがく雅野の中も外もすべてが熱く滴っていた。信大が指を抜いただけで、そして信大のものが入ってきただけで、いとも簡単に高みへと達してしまった。
「好き……ひっ、ああっ」
繰り返す快感に喘ぎだけになって胸を突き出す雅野に応えるように信大の唇が乳首を食んでさっきの雅野がしたように強く吸い上げていた。何度も。
――理由なんてもうどうでもいい。
信大がそばにいることを確かめたかった。
抱き合って、お互いにしか聞こえない声で愛していると言って欲しかった。
ただそれだけ――。
翌朝、雅野が目覚めるとまだ眠っている信大の顔を見て自分のしたことを思い出したが、不思議と恥ずかしさは感じなかった。逆に信大と抱き合ったことで今日一日がんばれる気がしていた。いろいろなことを棚上げにしている感はあったが、今日は特別展の最終日なのだ。黒いスーツを着ながら雅野はとにかく今日一日を乗り切ろうと思っていた。信大も着替えをすると出掛ける前に雅野に向き直った。
「雅野さん」
信大の呼びかけが「雅野さん」に戻っていたが、雅野は素直にはいと答えた。
「昨夜、言うつもりだったのですが明日、国立日本美術館へ行くことにしました」
「え……っ」
雅野からかすかな声がこぼれ出た。
「昨日来た桐凰美術館の武田さんにも行ったほうがいいと勧められました。共同研究はうちと桐凰美術館さんと国立とでやることが前提になっていたので、桐凰美術館さんがそう言うのは仕方がないことなのですが……」
信大はそう言うと息をついた。
「桐凰美術館さんと仕事をするためには仕方がないですね」
確かに信大は桐凰美術館の武田らと仕事をしたいと望んでいた。そのために一旦は断った共同研究の話しを戻すというのだろうか。
「でも……」
言いかけた雅野の声がすぼんでいった。
友永は信大が共同研究を断ったのを非難しながらもなんとか戻そうとしているのではないか。友永は雅野には信大と復縁したいと言っていた。信大もそれを知っているのに……。
「心配ですか」
言いかけてやめた雅野をじっと見ながら信大が聞いた。雅野の考えていることがわかったかのような言葉に雅野はうつむくように頷いた。
信大が信じられないわけじゃない。でも、信大が国立へ行ったら。
友永は信大を非難しながらもやはり信大を引き寄せようとしている。雅野にはそうとしか思えなかった。
「行かないで……」
小さな震える声で雅野は言った。
信大が今度ばかりは行かないわけにはいかないと頭の中ではわかっていたが、信大が友永と会うと思うと嫌でたまらない気持ちになってしまう。
友永さんは信大さんを取り戻そうとしているのに、このままじゃ友永さんに――。
「大丈夫、心配しないで」
信大が力づけるように雅野の体を引き寄せるとぎゅっと抱いた。
「真野先生にも会って話をしますから、だから大丈夫ですよ。あくまでも仕事の話です。心配しないで」
繰り返しそう言うと信大は出かける前だったが雅野の頬へそっと唇をつけた。信大の肩へ顔を傾けながら雅野はそれでも黙ったままだった。
出勤すると開館前に信大は雅野たちに明日の予定を変更することを伝えた。
「明日の土曜日は特別展の後片付けと事務の締めのために一日出勤してもらうつもりでしたが、予定を変えて事務の仕事だけにします。急で悪いのですが、私が午後から国立日本美術館へ出かけることになりましたので、事務の仕事は昼までで終了にします。その後の二週間の休みは予定通り変わりません。今日で特別展が終わりですが、最後まで無事に終わるよう、よろしくお願いします」
「じゃあ、明日の仕事は半日なのですね」
信大が開館のためにホールへ行ってしまうと佐倉と小泉とで確認していたが、雅野は黙って聞くばかりだった。なにも言わない雅野に気がついたのか、佐倉が小さな声で聞いてきた。
「北之原さん、やはり国立へ行かれるんですね」
「そう……みたいです」
認めたくはないが信大が決めたことだ。言いにくそうに答えた雅野に佐倉が心配顔になった。
「友永さんにあんなこと言われたら行かないわけにいかないんでしょうけど……雅野さん、大丈夫?」
大丈夫かと聞かれて佐倉が心配してくれたのはわかったが、雅野にはなんとも答えようがなく、うなずくしかなかった。
「友永さん、昔からああいう感じの人だけど、でも、あんなこと言うなんてねえ。北之原さんも仕事のためなら仕方がないとは思うけど」
昔から、と佐倉が言ったのに気がついて雅野は聞いてみた。
「佐倉さん。佐倉さんは北之原さんと友永さんが別れた理由をご存じですか。もし知っていたら教えてください」
ずっと以前にここで働いていた佐倉ならもしかしたら知っているかもと思って聞いてみたが、佐倉はかえって驚いていた。
「北之原さんから聞いてないの?」
逆に聞かれて雅野は仕方なく聞いてないと答えた。本当のところは雅野が聞いたけれど信大が話したくないと言ったのだが。
「そう……。でも、ごめんなさい。わたしも知らないの。友永さんとは二、三度会っただけだから」
佐倉に申し訳なさそうに言われて、雅野は静かに首を振った。
「いいえ、すみません。わたしこそ変なこと聞いてしまって」
佐倉がまだ心配そうに見ていたが、開館時間が迫っていた。受付へ行って小泉と並んで立てばもう開館の時間だった。特別展の最後の日、美術館の入口の前には何人もの客が並んで開くのを待っていた。きっと今日はかなり混むに違いない。
けれども開館前のわずかな時間に雅野は受付にある名刺の保管用フォルダから北之原敬輔の名刺を抜くとポケットに入れた。いつか敬輔から雅野に押しつけられた名刺だった。
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