六月のカエル 34


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 目次



 薬が効いてきて、ぐっすりというよりは眠りに引きずりこまれるように眠っていた雅野は、はっと目を覚ました。布団の中の手足は温まっていて冷たく感じなかったし、体のだるさもだいぶましになっていた。
 部屋の中は真っ暗で、枕のそばに置いてあったスマートフォンを見るともう夜の10時だった。北之原美術館の閉館時間もとっくに過ぎている。部屋のドアを開けて階段を見ると灯りがついていて階下から物音がしていた。キッチンでなにかしているような音に信大が帰って来ていたのだと気がついた。

「信大さん……」
「あ、起きましたか。大丈夫?」
 流しで食器を洗っていた信大が肩越しに言ったが、いつもと変わらない信大の声になんとなくほっとして雅野は信大の背中を見た。信大は仕事の服のままでジャケットだけを脱いでいた。
「熱は……下がったみたいです。すみません、迷惑かけて」
「具合の悪いときはしかたがないですよ」
 そう言って手を拭いた信大が雅野の額に触れた。水を使っていた信大の手のほうがひやりと冷たかったが、雅野の熱も下がっていた。信大に手を当てられたときに雅野は信大の顔を見上げたが、信大は手を当てただけでキスをしてこなかった。

「なにか食べますか。食べられるのなら食べたほうがいいですよ」
 見るとテーブルの上にはコンビニの食品がいくつか置いてあった。パンや牛乳やおにぎり、野菜サラダもあった。
「あの、信大さんは」
「僕はもう食べました。先に食べてしまって悪かったけど」
 信大はおにぎりでも食べたのだろうか。わたしもこれ食べていいですかと聞くと信大はコンビニのおにぎりをちゃんと皿に乗せてリビングに運んでくれた。
 雅野は本当はそれほどお腹がすいていなかったが、ソファーに座ってもそもそとおにぎりを食べ始めると信大が温かいお茶を持ってきてくれた。
「ありがとう、信大さんも……」
 信大がとなりに座ってくれるものと思っていた雅野は座り直しかけたが、信大は座らずに言った。
「いや、もう遅いので僕は風呂に入ります。雅野さんはゆっくり食べて」
 座ることなく信大が風呂に行ってしまい、雅野はひとりおにぎりを食べた。明日も仕事だし、とりあえず食べるしかなかったが、なんとなく信大に置いて行かれたような気分だった。

「信大さん……?」
 脱衣所に行くとすでに風呂場の灯りは消えていた。二階かと思い寝室へ行くと信大はベッドの脇の小さなデスクでファイルを広げて見ていた。
「あ、すみません。雅野さん、風呂は?」
 信大はすぐにファイルを閉じて聞いてきたが、雅野は首を振った。
「あとでいいです。……あの、それよりも」
 雅野が信大の座っている前へ行くと信大が雅野を見上げていた。

「今日のこと、怒っていますか……」
 おずおずと言った雅野に信大はいつもの笑顔を見せた。
「怒っていませんよ。雅野さんは怒られるようなことはしていないでしょう」
 でも、信大のあんなに厳しく怒っているような顔を見たのは初めてだった。自分に向けられた怒りではないと感じていても信大の怒りは信じられないものだった。
「信大さんがあんなに怒った顔するなんて、いままでなかったから……」
「そんなに怒った顔をしていましたか、すみません。そんなつもりはなかったのですが。それよりも寒くないですか。ベッドに入ったほうがいい」
 信大はベッドの掛け布団をめくってくれたが、雅野はそこに腰を下ろしたものの首を振った。

「信大さん、友永さんは信大さんのことを許していないって言ってましたよね……」
 雅野は風邪薬を飲んだせいか頭の芯がぼうっとしてきて自分の声がどこか遠くから響いてくるように聞こえた。そのせいか普段の雅野なら聞くのをためらってしまうことも今夜は言うことができた。
「友永さんはなにを許さないんですか……」

 昼間からずっと友永の「彼、性欲が強いから」と言った言葉が頭にこびりついて離れない。でも、敬輔は信大が離婚したときにEDだったと言っていた。そして友永の「私と別れた理由も話してないみたいね」とう言葉、「私は信大と納得して別れたわけじゃないのよ」という言葉。いくら雅野でも、あれを聞いてしまったら信大に尋ねずにはいられない。

「どうして友永さんと離婚したんですか……」
 性格の不一致、価値観の違い。なんでもいいから言って欲しい。
 浮気なんてそんなことは信大に限ってないとは思ったが、とにかくなにか言って欲しい。
 それなのに信大は雅野を見ていたがなにも言わない。

 いままで信大は離婚したことは話しても理由は言わなかった。雅野も聞きにくいことだから聞かずにきてしまったが、思い出してみればなんとなく信大には話したくない雰囲気があった。

「どうして……」
 だんだんと声が小さくなってしまったが、それでも雅野は尋ねた。友永が納得していないというその理由を。

 信大はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き出した。
「それは」
 言いかけて信大がふっと口をつぐみ、雅野を見ていた目が逸らされた。
「どうしても言わなくてはなりませんか」
「え……っ」
 思ってもみなかった信大の答えに雅野から思わず声が出てしまったが、信大は顔をそむけて見てはいなかった。
「すみません、いまは話したくないのです。この話はまたにしましょう」
 言いながら信大は立ち上がっていた。
「僕は今夜中に済ませたい仕事があるので下でやります。雅野さんは先に休んでください」
 それだけ言うと信大はドアを開けて出ていってしまった。





 ――そんなに悪いことを聞いたのだろうか。

 悶々とベッドで考えても雅野にはわからなかった。階下へ行ってしまった信大を待ってベッドの中にいたものの、いくら考えても雅野には答えは出せない。
 いつまで待っても信大は戻って来ず、風邪薬を飲んでいたせいか目を開けているのも大変になってきていつのまにか眠ってしまった。真夜中に信大がベッドに入ってきた気配は感じたのだがもう一度目を開けることができなかった。
 次に目が覚めたときにはすでに朝で、信大の姿はベッドにはなく雅野はパジャマのままで階下へと降りていった。

「おはよう」
 キッチンには信大がいて朝食の支度をしていた。湯気の上がるスープの鍋を置くといつもの笑顔で雅野に体の具合を尋ねた。
「だ、大丈夫です」
 昨夜のことなど微塵も感じさせない信大に雅野は詰まりながら答えたが、信大は座るように言って雅野のイスを引いた。テーブルにはトーストとスクランブルエッグの皿が置かれていて、雅野が座るとカップにいれられたスープも置かれた。
「いただきます」
 信大が言って雅野も小さな声でいただきますと言ったが、スープのカップ越しに見た信大の顔はまったくのいつもどおりでトーストを食べていた。
 その後、洗面所で顔を洗いながら昨日のことって夢? と思ってみたが、夢のはずがない。でも信大は変わった様子もないし、なにも言わない。雅野もまた聞けないでいるうちに出勤時間になってしまった。

「藤田さん、大丈夫? 無理しないでね」
 美術館に出勤すると佐倉が心配してくれて、雅野はやはり昨日のことは夢ではなかったとつい考えてしまった。
「すみません、ご迷惑おかけしました。大丈夫です」
 体調が良くなっていたのは本当だし、それに明日までで特別展も終わりなのでいま休むわけにはいかない。佐倉には礼を言って雅野は開館の準備に取りかかったが、信大は展示室の点検に行っていて事務室にはいなかった。すぐに信大が戻ってきて朝の打ち合わせを行ったが、そのときは佐倉も小泉もいて雅野はいつも通りの打ち合わせをするしかなかった。

 特別展は明日までということで、今日も来館客は多かった。ほぼ切れ目なしに来る客に対応するために信大もホールに立っていたが、雅野は言葉を交わせずにいるうちに気がつくと昼になっていた。雅野たちは交代で休憩をとったが信大は昼食もとらずホールや展示室にいて事務室にも来なかった。

「北之原美術館でございます」
 雅野が昼の休憩のために事務室へ入るとちょうど電話が鳴り、出ると北之原正範だった。館長ではあったが北之原正範はあまりここへは来ることはなく、電話をしてくることはもっと稀だった。少なくとも雅野の記憶では電話は初めてだった。
『その声は雅野さんだね』
 北之原正範に言われて雅野は慌てて答えた。
「はい、そうです」
『特別展も明日までで忙しいと思うが信大はいるかね』
「はい、ただいまホールに出ていますので少々お待ちください」
 佐倉は雅野に代わって受付にいたので雅野はすぐに信大を呼びに行った。信大は事務室に入るとすぐに電話で話し始めたので雅野は席をはずそうとしたが信大の話す声は聞こえてしまった。
「……はい、それについては私の対応が不十分でした。……はい、申し訳ありません」
 雅野が事務室から受付の後方に出ると信大の声は聞こえなくなったが、館長に謝る信大に、もしかしたら昨日のことだろうかと雅野は心臓がどきっと跳ね上がった。
 昨今はインターネット上でさまざまな情報がすぐに広がる。以前にも信大がテレビ出演したときもSNSでいろいろなことが言われたが、昨日の友永のことも何人もの来館客の目の前であったことだ。誰かがSNSで言ったとか、それとも北之原正範に情報が行ったのか。特別展の終了を目前にしてあんなことがあったら不祥事と言われてもしかたがないことなのだ。

 いままで自分のことばかりで昨日の事が呼ぶ波紋にまで気が回っていなかった。北之原正範がなんと言ったのかわからないが信大が注意されているらしいことに雅野は受付の後方に立っていても胸が締めつけられるようだった。
「藤田さん」
 自分を呼ぶ声に雅野が振り返ると信大が事務室との境で呼んでいた。
「電話終わりましたので。休憩中にすみませんでした」
 信大は普段と変わりなく言ったが雅野は自分の不安にこらえきれずに尋ねてしまった。
「あの、館長はなんと……」
 雅野の不安げな問いに信大は少し考えてから答えた。
「昨日のことが館長の耳に入ったようで注意を受けました。やはりお客様たちのいる前でああいうことはあってはいけないことなので」
「でも、昨日のことはわたしのせいなのに」
 言いかけた雅野を信大は手を上げる仕草をして遮った。
「誰のせいというよりも責任者は僕ですから。注意はされましたが館長もわかってくれていますので、雅野さんは受付の仕事に集中してください」
 信大はいつもと変わらない口調で話していたが、やはり表情が冴えない。雅野はふたたび湧きあがってきた自己嫌悪で事務室を出ていく信大を黙って見送った。



 どうしてこんなことに……。

 いまさらながら昨日のことが堪えて雅野はしばらく自分の席に座りこんでいた。
 信大に行かないでと言ったのは雅野だったが、友永のしたこともあんまりな事だった。友永が雅野に言ったことも、信大に仕事のことを詰め寄ったことも意図してやっているとしか思えなかったが、いくら信大とよりを戻したいといってもそこまですることが雅野には信じられない思いだった。自分が甘ちゃんなだけかもしれないが、なにが友永をそこまでさせるのか、自分ひとりがわかっていない気がしてならない。

「藤田さん」
 座っていた雅野に不意に声が掛けられて佐倉が顔を覗き込むように立っていた。
「大丈夫? 気分悪いの?」
「あ、いいえ、大丈夫です」
 休憩時間が終わってしまったのかと思って雅野は時間を見たが、まだ休憩時間内だった。
「あ、いいのよ。私はリーフレットを取りにきただけだから」
 佐倉はそう言ってリーフレットを持って出ていこうとしたが、そのときまたしても電話が鳴った。さっき北之原正範から電話があったばかりだったので雅野は一瞬びくっとしてしまったが、振り向いている佐倉が戻らなくてもいいようにすぐに電話を取った。
「北之原美術館でございます。……はい、おりますが。え、これからですか」
 電話は桐凰美術館の以前にも来た人からだった。急に悪いが10分後くらいに伺うので副館長にお伝え願いたいと早口で言われるとすぐに電話が切れた。

「桐凰美術館の武田さんが? そうですか、わかりました」
 雅野がホールにいた信大に伝えると信大は少し考えるような顔をしたがすぐに出迎えるために受付の側へ向かった。雅野も休憩時間が終わったので佐倉と交代して受付に入ったが、受付に座る前になんとなく嫌な予感を感じてこっそりと息をついた。
 昨日は友永、そして今日は桐凰美術館の人。
 もうこれ以上悪いことが起こらないようにと願うしかなかったが。



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