六月のカエル 33


33

 目次



 友永たちが出ていってしまっても雅野は茫然と立ち尽くしていた。
 友永に言われたこと、信大と友永のやりとり、まわりの状況、それらが雅野にとってあまりにも悪いことばかりで気分が悪くなりそうだった。いや、実際に具合が悪くなっていた。

「藤田さん、顔色が悪いですよ。受付は代わりますから事務室で少し休んだほうがいいですよ。北之原さん、藤田さんを」
 雅野の様子に気がついた佐倉が気を利かせて信大にも事務室に行くように言ってくれた。
「そのほうがいい。藤田さん、事務室へ行けますか」
「はい……。すみません、お願いします」
 信大にも促され、佐倉になんとか詫びを言うと雅野は事務室に向かった。受付の前には客の列ができていて、このままでは邪魔になるだけだった。

 事務室に入るとやっとの思いで自分のデスクのイスに座ったが、どっと疲れが押し寄せてきたように感じられて気分が悪いうえに足がだるくて重かった。
「大丈夫ですか」
 付き添ってきた信大が心配そうに聞いたが、雅野はうつむいて両手で顔を覆ってしまった。
「すみません……、わたしのせいです。わたしが行かないでって言ったから、だから……」
 だから信大は友永との約束をキャンセルした。それがこんなことになってしまうなんて。
 そう思うと顔を覆った手までも震えてきてしまう。

「そんなことはない。昨日は僕が休みたいから休んだだけです」
「でも……」
 昨日休んだことを友永にずる休みでもしたかのように言われてしまった。首のキスマークを見られて、それが信大との……。
「わたしがキスマークなんて見られたりしなかったら……、友永さんはそれを……」
「キスマーク?」
 信大が怪訝な顔をした。
「ちょっと見せてください」
 顔に当てている手に触れられて雅野は首を振ったが、それでも信大は少しだけ雅野の顔を上げさせると首のところを見ていた。
「痕(あと)になっているようには見えないけど」
「えっ……!」

 まさか……引っかけ?
 思わず顔をあげて信大を見たが、信大も困惑したような顔で雅野を見ていた。
「そんな、でも、それは……」
 もうわけがわからなくなって雅野は涙声で言った。
 友永に指摘されて雅野はそうだと思ってしまった。うろたえてしまったことで自分から白状してしまったようなものだった。

「落ちついて、雅野さん。今度のことは雅野さんのせいじゃない。共同研究を断ったのは僕なりの理由があってのことで、あくまでも仕事のことです。昨日休んだこととは関係ありません。雅野さんまで混同してもらったら困ります」
 信大はそう言うが、友永にはそんな理屈は通じていない。
 
 友永さんは信大さんとやり直したいって言っていたのに。
 それなのにうかうかと引っかかってしまった。いままでは自分に向けられていた友永の侮辱が信大にまで向けられてしまって、その口実を与えてしまった。
 そう思うと雅野は自分が情けなくて悔しくてたまらなかった。
 引っかけられたことも、信大が仕事を放り出したと言われたことも、しかもそれを客たちがいる前で言われたことも、みんなみんな悔しい。

 いままで嫌だと思ったことはあってもこんなに悔しいと感じたことはなかった。唇を噛んで耐えようとしても涙が落ちそうだった。こんなところで泣いたらだめだと思っても唇がわなないてしまう。
「雅野さん」
 事務室にもかかわらず信大が雅野の前に膝をついていた。
「友永さんは雅野さんにいったいなんと言ったのですか。今日言われたことと、ほかにも僕に話してないことがあるでしょう」
 その瞬間、雅野の心の中の堰(せき)が決壊してしまった。自分自身で築いていた堰だったが。

 『グッズ販売のような企画はあなたのような素人には無理ですよ』
 『巨乳なのね』
 『信大にとってはたまらないでしょうね』
 そして……『彼、性欲が強いから』

 みんな雅野を貶めるようなことばかりだった。そして信大をも侮辱している。
 それをまた言うだけでも気持ちが悪くなりそうで、途切れがちにしか話せなかったが信大は黙って聞いていた。が、性欲というところでさすがに表情が変わった。
「そんなことを言っていたんですか」
 苦々しく言うと信大はそっと雅野の手を取った。
「信大さんに聞かせるのも嫌で……、言えなくて……」
「そうですね、雅野さんは人からなにか言われてもそれを悪口や陰口で返したりしない。ほかの人にまでわざわざ嫌なことを言ったりしない人だ。わかりますよ」

 いや、自分は意気地がなくて言えないだけ。そう思って雅野は首を振った。
 以前の会社でつきあっていた男のときもそうだった。なにも言えないでいるあいだに勝手に遊ばれて捨てられた。会社の人たちにも陰でいろいろ言われて、逃げるように会社を辞めてしまった。

「でも自分の中に溜めこんだらいけない。こういうときこそ話してくれていいんですよ」
 そう言われて雅野はついに信大の胸に顔をつけてしまった。必死で抑えようとしても涙が落ちて泣き声になってしまった。
「友永さんが信大さんとやり直したいって言ってたから……、だから信大さんが国立へ行くのが……すごく嫌で……」
 泣きながら話す雅野の背に信大の手が触れると慰めるようにそっとなではじめた。
「わたしはキャリアも仕事も友永さんにはかなわないけど……胸が大きいだけみたいに言われて……、しっかりしなきゃって思っていても……」
 友永のことが嫌だった。会いたくない、来ないで欲しいと思っていた。信大もそれをわかってくれていたとは思うが、話しだすともう止まらなかった。

「今日だって、信大さんは思いやりがないだなんて言って……。信大さんは離婚した理由も言ってないだろうとか、納得して離婚したわけじゃないって……、どうしてそんなこと言うのかわからないけど、そんなことばかり言われて、どうして……」




 友永に言われたことをようやく話すことができた。もうそれ以上は話せず信大の胸に顔をつけたままだったが、胸の中で固まっていたものを吐き出すことで少しだけ雅野は落ちついてきていた。ふと気がつくと背中をなでていた信大の手がいつのまにか止まっていた。
「す、すみません」
 まだ雅野の目は涙で濡れていたが、なんとかそう言って顔を離した。感情のままに話してしまったが信大にとっても愉快な話ではないし、それにここは事務室だった。
 しかし顔を上げた雅野を見ていたのは信大の険しい目だった。

「……信大さん?」
 雅野がびくっとしてしまったほど信大の顔つきは厳しかった。信大のあまりに厳しくて怒っているような顔に雅野は自分の言ったことが悪かったのかと思ってしまった。
「ごめんなさい、いくら友永さんが言ったことだからって……。信大さんが思いやりがないなんてわたしは思ってないし、友永さんと離婚したことだって……」
 雅野は焦り気味になって言ったが、信大は険しい眼差しはそのままで立ち上がった。
「いや……、やはり友永さんは僕のことが許せないらしい」
「え……っ」
 信大の言っている意味が咄嗟にわからず雅野は信大を見上げた。なんだかさっきとは違う不安を感じる。許せないって……。
「それは……それはどういうことですか。どうして信大さんは友永さんと……」

 そのとき、控えめなノックの音がして雅野はまたびくっとしてしまった。信大も気がついて振り返ると「はい」と返事をしてドアに向かった。
「すみません、北之原さん、受付でお客様から問い合わせが」
 信大がドアを開けると佐倉が言ったのが聞こえた。
「すぐ行きます。代わりに佐倉さん、雅野さんを早退させてください。少し熱があって具合が悪いようですので。お願いします」
 信大はそう言うと振り返りもせずに出て行ってしまった。話しかける隙もないほどだった。

「まあ、大丈夫ですか」
 すぐに佐倉が寄ってきて雅野の様子を見ながら言ったが、雅野は返事もできずにいた。急に熱があるから早退と言われてもすぐには動けない。
「無理ないわ。小泉さんにちょっと聞いたけど、友永さんにひどいこと言われたんですって。小泉さんも驚いていたわよ」
 佐倉に言われて雅野は我に返った。
 友永に言われたことだけでなく背筋が冷たくて寒かった。泣いてしまったからかもしれないが、頬が熱く感じるのに手が冷たい。そういえば今日は朝から体がだるかったが、寒気がするのはそのせいだけではなかった。
「す、すみません。わたしがしっかりしていなかったから……」
 雅野は謝ることしかできなかった。館内で、しかも来館客たちがいる前であんなことになってしまって明らかに良くなかったし、佐倉や小泉に迷惑をかけてしまった。思い出すだけで申し訳なさで押しつぶされてしまいそうだった。

「とにかく今日は帰ったほうがいいわ。インフルエンザだっだりしたら大変ですもの。大丈夫? 歩ける?」
「大丈夫です……、あの……、信大さんの家なので」
 立ち上がってふらつかずに歩けそうだったので信大といっしょに住んでいることを言ってしまったが、佐倉はさらりと受け流した。
「そう、それならば近くてよかったわ。気をつけて帰ってね」
 佐倉は雅野がコートを着てバッグを持つとすぐに通用口から雅野を出させた。
 特別展の会期の終了を二日後に控えていて雅野が早退すれば佐倉にも迷惑をかけてしまうのに、雅野が詫びを言うと、いいのよ、気をつけてねと言ってくれた。いつも誠実な佐倉に心の中で感謝しながら雅野は通用口を出たが、歩き始めてすぐに体がだるくて熱が上がってきているのに気がついて足どり重く信大の家に帰った。

 ひとりで信大の家に帰ってきたものの体は重く、コートを脱ぐのも億劫だった。病院へ行ったほうがいいとは思ったが、もう午後遅くで、近くに病院か医院があるか調べているうちに眠気に耐えられなくなってきた。
 とにかく風邪薬を飲んで、できるだけ水も飲んで雅野はベッドにもぐりこんだ。
 頭の中は今日あったことでいっぱいで、しかも信大の様子まで変で、いろいろな自己嫌悪で泣いてしまいそうな気分だったが、具合が悪いせいでもう思考が働かなくなっていた。
 少し寝よう。少し、と言い訳のようにぼんやり考えながら雅野は眠り込んでいった。



   目次     前話 / 次話

Copyright(c) 2016 Minari Shizuhara all rights reserved.