六月のカエル 32


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 北之原美術館の特別展も残すところ三日。会期最終日が金曜日で翌日から休館だったが、信大も雅野たちも土曜日は出勤して特別展の後片付けや事務の仕事をして、その後に二週間の休みになる。そして休みの最初の日の日曜日には信大が雅野の両親に会いに行くことになっている。

「あと三日」
 雅野は自分の気持ちを引き締めるように鏡の中の自分に向かって言った。
 特別展が終わってその後に両親に信大を会わせて、そうすれば結婚できる。
 特別展が無事に終わりさえすれば。
 たとえ友永さんがまた来ても、それは変わらない。友永さんがどう思っていても信大さんとわたしは結婚する。
 自分に向かって言い聞かせるように雅野は繰り返した。

「出ましょうか」
 信大も出勤する仕度を済ませて声をかけてきた。今日の信大はミディアムグレーのスーツで、いつもとまったく変わらない足取りだった。
「信大さん、体痛くないですか」
 わたしはちょっと腰が痛いんだけど、と思いながら雅野が聞くと信大はにこりと笑いながら答えた。
「あちこち痛い。でも、もう一度やれと言われたらやりますよ」
「えっ……」
 言いながら信大が顔を近づけてきたので雅野は思わず体を後ろへ逸らしかけたが、それを見て信大がまた笑った。
「冗談ですよ」
 信大が言うと冗談に聞こえない。

 昨日はずっと信大と一緒で、しかもほとんどベッドで過ごした。目が覚めてから着替えさえせずに食事も信大がベッドに運んでくれてベッドの上で食べて、ふたりでお風呂に入ってまた抱き合って眠った。最初のうちは雅野も信大が今日の予定を変えたことを心の隅で気にしていたが、抱きしめられた信大に電話しましたよとささやかれてからはそれも考えられなくなってしまった。素肌を触れ合わせる安心感に何度雅野からキスをしたことか。繋げた体の中で信大から感じる快感に何度も自分自身を押しつけてしまった。

 信大は冗談だと言ったけれど、ベッドに誘われたらきっとまた行ってしまう。
 今も雅野の体には昨日の名残りが残っていて、胸や首に残る信大の唇の感覚も、素のままの信大を体の奥深くで感じた熱さも、そして筋肉痛のようなだるさも、みんな残っている。ここでまたキスされたら体の中の熱がぶり返してきそうで雅野はうつむきながらマフラーを巻いたが、信大を見るとやさしく笑っている。
「さあ、行きましょう」
 玄関のドアを閉めた信大がすっと手を伸ばして雅野の手を握ると信大が歩きだした。美術館に着くまでの短い時間だけだけれど、信大と手をつなぐのはやはりうれしい。あたたかい信大の手がもうすぐ結婚することの証に思えて雅野はしっかりと信大の手を握って歩いた。





 特別展の終了を前にして来館客はかなり多く、受付には雅野と小泉が、そして佐倉も交代で受付に入っていた。信大は事務室にいて業者に電話をしていたが、特別展の最終日までは取材などはいっさい入れていないということで、来客の予定もないと言っていた。
 来客の予定はないということは友永さんもこないということか、と雅野は密かに安心していた。友永だけでなく連日のように来ていた桐凰美術館の人たちも来なかった。

 午後になり雅野たちが交代で昼の休憩を取っている間、信大が展示室の監視に座った。北之原美術館では来館客たちや展示品に気を配る仕事は通常は受付スタッフが兼ねて行っているので信大が監視に座るのは久しぶりだったが、やはり信大がいると雅野だけでなく小泉と佐倉の気持ちも違うように思える。信大は副館長でもあるから監視の仕事までするのは大変ではと雅野は思ったことがあるのだが、信大は座っていても気を抜けない監視の仕事も厭わずやっていた。
 雅野のいる受付からは信大の体の横側しか見えないが、展示室の端で椅子に座り手を膝の上に乗せた信大の姿は明るすぎない光量の展示室の中で目立ち過ぎることなく来館者の邪魔にもならず、やはりさすがだなあと雅野は思いながら見ていた。

「藤田さん」
 受付から事務室へ入ろうとしていた雅野は、受付の小泉から小さな声で呼ばれて振り返ると小泉が目で入口のほうを示した。なんだろうと雅野が見るとちょうど入口の来館者を避(よ)けるように友永と部下の樋口が入ってくるところだった。

 信大が友永になんと言って昨日の約束をキャンセルしたのか知らなかったが、友永からなにか言ってくるかもしれないと雅野も思っていた。友永から信大へ連絡があるか、それとも信大から連絡するか。でも今、信大は展示室で監視に座っているのだから友永たちは連絡なしで来たのだろう。またなにか言われるかもしれないと思うとできれば友永に来て欲しくはなかったが、そうはいかないということだ。
 ――大丈夫。信大さんもすぐそこにいるんだから。
 自分の自信になればとそう心の中で言ってから雅野は受付に戻り友永が近づいて来るのを待った。

「こんにちは」
 スーツ姿でコートを腕にかけた友永は以前と変わらない挨拶をしてきたが、顔つきがどこか険しい。
「北之原さんはいらっしゃいますよね。取り次ぎをお願いできますか」
 そう言った友永がじっと雅野だけを見ていた。見透かすような視線だったが、雅野は精一杯落ちついて立ち上がると一礼した。
「北之原はただいま展示室におります。知らせてきますので少々お待ちください」
 雅野がそう言うと友永が振り返り、後ろにいた樋口が感心したように言った。
「北之原さん、監視もされるんですね」
 樋口の感心した様子に友永はなにも答えなかったが、信大を見ている友永の横顔が今まで見たことがないくらい厳しい顔で雅野はどきっとしてしまった。それでもすぐに受付の後ろ側から出てホールに出たが、そこでまた友永に呼び止められた。
「藤田さん」
「はい」
 呼び止められて答えたのに友永は雅野の顔を見ていて、なぜか口元だけでくすっと笑った。
「気をつけてね。彼、性欲が強いから」



 友永がなにを言っているのかわからなかった。
 え? と思いながら友永を見ると雅野に向かって手でなにかを指していた。
 わけがわからず雅野が受付に目を走らせると小泉が目を見張って驚いていた。小泉の驚いた顔に雅野のほうがびっくりしてしまってまた友永を見たが、その後ろでは樋口が雅野を見ないように目を逸らしていた。
 その瞬間に雅野は友永が指差しているのが自分の首のところだと気がついた。
 鎖骨よりも上のところには昨日、信大に何度も唇をつけられた。痛みを感じるほど強く吸われはしなかったが、思い当たることはそれしかない。
 ぱっと襟元に手を当てたが友永は雅野の顔をなおも見ていた。口角だけを上げた笑顔のままで。

 気をつけてね。彼、性欲が……。
 それは、それは……。

 友永の言った言葉が雅野の中で繰り返されて、かあっと赤くなった顔から一転、今度は血の気が引くようなショックで雅野は一歩も動けなくなった。

「そんな……、それはいくらなんでも失礼じゃないですか」
 襟元を握り締めながら、それでも雅野は言った。
 信大のことを彼なんて言われるのは嫌だし、しかも性欲なんて言われるのはもっと嫌だ。
 いままでなにか言われてもすぐに言い返せなかったが、今回ばかりは声が出た。

「そうですね」
 友永は口元だけの笑顔を消して平静に答えた。
「私も失礼を承知で言いました。受付の接客が藤田さんの仕事だからこそ気をつけたほうがいいと思って」

「ちが……違うんです」
 違う、そうじゃない。失礼っていうのはこんなところで信大さんのプライベートなことを言ったことで、わたしのことを注意したことじゃなくて……。
 雅野はそう言いたいのに、キスマークを指摘された恥ずかしさと動揺でうまく言えない。
「違わないでしょう。そんな見えるところに」
 友永の声は大きくはなかったが、はっきりと聞こえた。
「お客様と接する仕事なのですからもう少し注意したほうがいいと思います。差しでがましいようですが」
 これだけを聞いたら先輩か上司からのアドバイスのようだったが、雅野はこれ以上聞いていられなくて体を引きかけた。
 すると友永は会釈でもするかのようにすっと顔を近づけた。
「お客様の前で恥ずかしい思いをするのはあなたなのにね。信大って本当は思いやりがない人だから。……あら、違う? でも、その様子だと私と別れた理由も話してないみたいね」
「え……」
 思わず雅野が止まった。
 別れた理由。理由って……?

 さらに友永の顔が近づいたが、雅野はどうしても友永の前から動けなかった。
「私は信大と納得して別れたわけじゃないのよ」
 友永の顔よりも声だけが雅野に響いた。



「どうしたのですか」
 そのときだった。展示室を出た信大が足早に近づいてきた。受付の横に立っている雅野と友永とを見て信大の表情が変わったが、友永はゆっくりと振り返ると信大に言った。
「北之原さんに取り次ぎをお願いしていたところです」
「ですが」
 雅野の様子を見た信大が怪訝そうに言いかけたが、受付の前で何人かの来館客がちらちらとこちらを見ているのに気がついて姿勢を正した。
「ご用件は館長室でうかがいますので、どうぞ」
「いいえ、こちらで結構です。すぐに済みますから」
 友永は館長室へ行こうとはせず信大へ向き直った。
「真野先生に共同研究の話を断ったそうですね」

「真野先生から連絡をいただいて驚きました。先生のご好意を無にするようなことをして」
 友永は雅野と話していたときは変わって静かな口調で話していたが、声には怒りが感じられた。怒っている声だった。

「あなたがこんな礼儀知らずだなんて知らなかった。真野先生にここへ出向いてもらうのに私がどれだけ苦労したか。先生は以前から孤立同然だったあなたを心配されていたのよ。だから先生もあなたに国立日本美術館(うち)に移ってはどうかとまで言われたのに」
 ええっと思ったのは雅野だった。
 国立日本美術館に移る? そんな、それは……。

「真野先生には私から話して了承してもらったうえでのことです」
 信大が落ち着いて返答をしたが、雅野は信大と友永とを見比べるばかりだ。

「先生には話されても、私にはなにも言わないんですね。あなたっていつもそう。昨日だって忙しいからって予定をキャンセルしたのに今日は連絡もなくて、来てみたらこれですもの。忙しいなんてすぐにわかる口実はやめてもらいたいわ。仕事を放り出しておいて」
 最後のところで友永が雅野のほうを見て、信大もそれに気がついたようだった。
「昨日の約束をキャンセルしたことと共同研究を断ったことは関係ありません。友永さん、あなたは私のプライベートなことと仕事のことを混同している」
 周囲に気遣って声のトーンは変えずに静かに信大が言ったが、友永は動じる気配はなかった。

「友永さん、北之原さん」
 そのとき雅野の横から不意に声がした。
「そういうお話でしたらどうか奥の部屋でしていただけないでしょうか。ここは受付ですので。北之原さんもお願いします」
 声の主は佐倉で、事務室から出てきた佐倉が見かねたように言った。いまや受付の前では何人もの来館客が何事だろうと信大たちを見ていたが、友永は動かなかった。
「佐倉さんでしたよね。お久しぶり。でもこれだけは言わせてください」

「私としてはうちとの共同研究を断った理由を説明してほしいだけです。ちゃんとした理由もなしにうちとの共同研究は断っておいて桐凰美術館とは協力するなんて出来ると思っているのですか。桐凰美術館の人たちを紹介したのは私だっていうことを忘れたわけじゃないでしょう」
 信大はなにも答えなかった。友永と向き合いながら厳しい表情で口を引き結んでいる。
「真野先生も考え直すようにおっしゃっています。いまからでも遅くないのであなたのほうから説明に来てください」
 そう言いきると友永はさっと体を返して出入り口へと向かい、部下の樋口が伏し目がちに急いで友永の後を追っていった。



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