六月のカエル 38


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「信大さんのヘタレ」
 ほかの言葉を選ぶこともしないで雅野は言った。
「友永さんが離婚してからずっと引きずっているのは信大さんがはっきり言わなかったからじゃないですか。信大さんだって言わなかったことで引きずっている。わたしだって信大さんのこと言えないけど、でも、なにも言われないで放り出されることがどんなに辛いか知っています。それを信大さんが慰めてくれたから立ち直れたと思っていたのに……」

 涙が出そうになって喉の奥がせり上がってきて雅野は黙った。これ以上は言えそうにない。
 胸の奥が痛かった。このところの信大に対するもやもやとした気持ちの原因はこれだったのかとやっと気がついた。離婚の理由を話そうとしない信大にずっともやもやした気持ちを抱いていた。信大が言わなければ通じないと言ったから雅野も思い切って尋ねたのに、答えようとしなかった信大。

 落ちそうになった涙を手で押さえて、そのときになって雅野は信大が驚くというよりは困惑したような顔で見ているのに気がついた。
 雅野は敬輔に言われた、はっきりして欲しいという気持ちのままに言ってしまったが、ヘタレなんて言っていい言葉ではない。信大がなんと思うかまで考えていなかった。

「あ、あの」
「どこへ行くんです」
 雅野が逃げ出そうとするよりも早く信大が雅野の手をつかんでいた。
「すみません、変なこと言ってしまって……ごめんなさい」
 なんとか信大の手をほどこうとしたが、はずれない。雅野の手首をつかんだ信大の手の強さが怒っているようで雅野は信大の顔を見ることができない。
「だめだ。帰るなら一緒に帰らなければ」
 やはり信大は怒っている。いつもより強引な言いかたに雅野はますます縮こまってしまった。

「待って、あなたは共同研究の話しをするために来たんでしょう。またその子のためにキャンセルするの」
 友永の声に引き戻されて雅野は動くのを止めた。
「キャンセルもなにもありません」
 信大は雅野の腕をつかんだまま言った。
「友永さん、それと雅野さんも誤解のないように言っておきますが、共同研究を断ることは変わりありません。先ほど真野先生には改めてお詫びをしてわかってもらいました」
 えっと驚いたのは雅野だった。
「でも、あの、桐凰美術館さんのことは……」
「桐凰美術館さんのことが気にならなかったと言ったら嘘になります。でも雅野さんが踏ん切りをつけさせてくれた。雅野さんのおかげですよ」
「ええっ、それじゃわたしがここへ来たのって……」
 勘違い、とは恥ずかしすぎて言えない雅野に信大はにこりとやさしい笑顔で答えた。
「いや、きちんと説明しなかったのは僕のほうです。雅野さんの言う通りヘタレだった。ごめんなさい」
 信大の口からヘタレという言葉が出て雅野は恥ずかしさで凹みそうだった。
 なんということを言ってしまったのか。自分の馬鹿さ加減に地下にもぐってしまいたい気持ちだった。

「いい気なものね」
 友永の冷たい声が聞こえて雅野ははっと振り返った。
「そんな子のために共同研究を断るなんてどうかしている。あなたがそんなことをするとは思わなかった。あなたにとって研究ってその程度だったの」
 さっきまでの冷静さを捨てて友永は怒っていた。
「その子のどこがそんなにいいのか知らないけれど、たかが事務職員でしょう。すっかりその子の言いなりになっているのね。いい年して若い子に溺れてみっともない」
「雅野さんを侮辱するのはやめてください。事務の職員だからといってあなたにそんなふうに言われるいわれはない。雅野さんは人を見下すようなことは決してしない」
「その子にヘタレとか言われたのになに言ってるの」
「雅野さんは僕を見下したんじゃなくて、僕の意気地がなかったことを言ったんですよ」

 動こうにも動けない雅野は息を詰めてふたりのやり取りを聞いていた。
「その子の言ったことだから素直に認めるっていうの。それこそヘタレだわ。あなたって馬鹿じゃないの!」
 だんだん大きくなる友永の声に雅野の手を握った信大の手に力が込められた。友永の侮辱から雅野を守るように引き寄せると信大は静かに答えた。
「馬鹿ですよ。馬鹿で愚かで。だけどこの人を離したくない」

「友永さん、憶えていませんか。あなたが結婚した意味がないと言ったのを」
 敬輔から聞いた事が信大の口から出てきて、手を取られたままの雅野はびくっとした。
「祖父の遺言の品を僕が受け取らないと言ったときだ。あなたこそ忘れたわけではないでしょう」
 それまで激しく反論していた友永が黙った。信大を睨んでいたがなにも答えなかった。
「あのひと言には打ちのめされました。あなたがそれほどまでに美術品の金銭的な価値にこだわっていたとは知りませんでした」
「そう、たしかにそう言ったわ。でも、それがそんなに気に障っていたなんて知らなかった。あなたがそう言ってくれれば」
「でも本心だったのでしょう?」
 信大はにべもなく言った。
「僕が北之原家の人間だったから結婚した。学生だった頃から周到に計画して。だから僕が祖父の遺産を受け取るのを拒否したことが許せなかった。違いますか」
 信大の話し方は静かで友永を問い詰めているようには聞こえなかったが、言っていることは厳しいことだった。友永の顔がだんだんと青ざめていくようで、そばで聞いている雅野の背筋が寒くなるほどだった。

「……あなたにはわからない」
 沈黙の後で友永が言った
「生まれたときから北之原の人間で、北之原家には所有している美術品があって美術館まで持っている。日本では学芸員の職に就くことだって簡単なことじゃないのに、仕事も経済的なことも心配せずに研究に打ち込める環境がお膳立てされているあなたにわかるわけがない。わたしがどんなに苦労してここにいるのかも」
「僕が恵まれていることは認めますよ。だが、あなたとやり直すことはできない。仕事も、結婚も」
 信大の答えに友永はふたたび沈黙して、そして言った。

「あなたのこと、今でも……まだ好きだと言ったら?」

 ずるい、と雅野は喉まで出かかった。
 さっきは好きと嫌いと両方だと言っていたのに、そんなことを言うなんて。たとえそれが友永の本心でもそんなのわかりたくない。
 思わず身を乗り出そうとしたが信大の手に止められた。
「信大さん……」
 小さな声で言った雅野の顔を見てから信大は友永へ言った。
「僕がEDだと言ったときあなたは嘘だと言っていましたね。だが嘘じゃない。あのときも、今も、あなたでは勃たない」







 国立日本美術館を出てからもずっと信大に手を取られたままだった。信大は電車の駅へと繋がる道をどんどんと進んだ。スーツ姿の信大に手をつながれて歩いていく雅野をすれ違う人が不審そうに見ていたが、雅野はそんなことを気にしていられないくらい必死で信大についていった。
「信大さん!」
 息が切れてきて思わず雅野は信大を呼んだが、信大は歩きながら振り向いた。
「タクシーで帰りましょう」
 もう駅は目の前だったが信大は駅には入らず近くに停まっていたタクシーに乗り込んだ。手をつないだままだったので雅野は信大に引き込まれるように乗るしかなかったが、座って雅野が恐る恐る見た信大の顔はやはり厳しいものだった。
 きっと怒っている。雅野にはそうとしか思えなかった。信大が怒っていたとしてもそれは無理からぬことで、信大がいったんは断った共同研究を受けるつもりだと思い込んで友永のところに突撃して、しかもヘタレと言ってしまったのだ。雅野は自分がしたことのすべてが恥ずかしすぎて、謝っていいのか、泣いていいのか、わからなくなっていた。いっそタクシーから降りて逃げてしまいたいと思ったができるわけもなく、考えているうちに北之原美術館の前に着いてしまった。

 タクシーを降りるとまた信大に手を握られた。前を歩く信大に引っ張られるようにして家の前まで来て、信大が鍵を開けようとしたところで雅野はやっと足を止めることができた。
「ごめんなさい……」
 もう謝るしかない。雅野が精一杯の勇気を振り絞って謝ると玄関のドアを開けようとしていた信大が振り向いた。
「どうして謝るんです」
「だって……信大さん、怒っている」
 涙がこみ上げてきて雅野はうつむいた。めちゃくちゃなことをしてしまった。そのことの後悔がはてしなく大きかった。泣いたからって許してもらえないと思ったが、頬を伝わった涙が唇へと垂れてきて手でぬぐったが、止まらなかった。
「怒ってなどいませんよ」
 涙で濡れた手がつかまれて信大が唇をつけてちゅっと水気を吸うとそのまま玄関の前のエントランスに片膝をついた。
「雅野さんが国立に来てくれてうれしかった。雅野さんがあそこまで言ってくれるとは思っていなかったんです。許して下さい。そしてまだ僕のことが好きなら結婚してください」
 驚きで茫然としている雅野の前に信大は布張りの小箱をポケットから取り出して差し出した。
「え……」
 信大がふたを開けた箱の中にあるものが指輪に見えてもまだ雅野は声が出なかった。

「僕と結婚してください」
 なにも言えず突っ立つ雅野に信大はもう一度言った。
「雅野さん、返事はしてもらえないの?」
 片膝をついたままの信大に言われて雅野はどっと涙が溢れてきた。
「わたし、とんでもないことをしてしまったのに……」
「とんでもないということなら僕も同じですよ。でも雅野さんのおかげではっきりさせることができた」
 そして信大は辛抱強く片膝をついたまま雅野の左手を取ると甲へキスした。それも唇を軽く当てるだけのキスではなく、雅野の手の甲をゆっくりとなぞると手首のほうへと上がっていく。舐めるように触れる信大の唇の感覚に雅野は思わず背筋がぞわっとしてしまった。
「し……信大さん」
「僕が怒っているように見えたのなら、それは早く家に帰りたくてたまらなかったからですよ」
「えっ?」
「わからない? 早く答えてくれないと、ここで押し倒しますよ」
 真面目な顔で言った信大にやっと雅野は信大の言っていることがわかった。
「あっ、はいっ!……結婚します」
 なんかこんな答えでいいのだろうか。そう思いながらも雅野は答えた。改めてプロポーズされて指輪を差し出されて、本当はうれしくてたまらない。信大が指輪を雅野の左手の薬指へ通すのが涙でかすんでいく。
「うれしい……。うれしくて、なんて言っていいのかわからない」
 立ち上がった信大が雅野の濡れた頬へキスをすると雅野は飛び上がるように信大へ抱きついた。歯がぶつかりそうな勢いで唇が触れあって絡んでいく。
「早くベッドへ行きましょう。もう我慢するのが大変になってきた」

 信大は言った通り雅野を抱き寄せたままドアを開けて家の中へ入ると二階の寝室へ直行した。キスをしながらそれぞれの持っていたバッグ、コート、上着が放り出されて散らばっていく。寝室のドアの前で信大が雅野のブラウスのボタンをはずして脱がしてしまい、ドアを閉めると同時にスカートのホックがはずされて足元へと落とされた。
「あ……」
 小さく声が出てしまったが、後ろから抱き込まれて信大にストッキングとショーツを引き下ろされ、背中のホックもはずされて緩んだブラジャーの代わりに信大の手が両側からそっと乳房を支えた。
「愛している」
 言いながら信大の唇が首の後ろにつけられてちゅっと吸い上げられた。
「わたしも……愛してる」
 雅野が言うのと同時に体がベッドへ乗せられて手を突いた。
「あっ……」
 開いた足のあいだに熱い信大のものを押しつけられ、雅野の狭い隙間を広げながら信大が入ってくる。触れられてもいないのにすでに熱く潤っているそこを広げられて雅野の背が反っていく。
「愛している」
 雅野がすっかり信大を受け入れてしまうと背後で信大がささやいた。背筋をくすぐるようになでながらささやく信大に雅野は答える代わりにふるっと腰を揺らして中にいる信大を締め付けると、ゆっくりと信大が腰を動かし始めた。熱い中をもっと熱い信大に前後される快感に胸の先が揺れた。
「さわって……」
 片手で信大の手を胸へ導くと固い先端が手で包まれた。後ろから抱きついた信大の手が胸を揉みながらぴったりとつけられた腰が揺れる。雅野の吐息とともに、動きとともに、何度も。



「もう……離れないから。ずっとずっと……」
「もちろんです。でも、今日はこれくらいにしておかないと」
 何度も抱き合って、やっと満足したところで信大にやさしく言われて雅野は目をしばたたいて信大を見た。
「明日は雅野さんのご両親に会いに行くんですよ」
「あ……」
 そうだった。すっかり忘れていた。
 雅野がぼんやりした頭で考えていると信大がくすっと笑った。
「僕の両親もアメリカから来ると連絡がありました。明日来るそうです」
「ええっ、明日?」
 それじゃ重なってしまう。と雅野は起きかけたが信大の腕に引き戻された。
「明日といっても着くのは夜ですから大丈夫ですよ。そうだ、両親も来ることだし、雅野さんのご両親にお許しをいただいたら入籍しましょうか。結婚式もなるべく早く」
「ちょっと、ちょっと待って、信大さん」
 信大の言うことが性急すぎてついていけない。雅野はまた起き上がろうとしたが所詮信大の腕の中だ。
「どうしてです? 雅野さんを早く僕の奥さんにしたいんですよ」
「奥さん……」
 なんだかくすぐったいような気恥かしい言葉だ。でもうれしさがじわじわと雅野の中に沸き上がってくる。
「そっか、奥さんか……」
 じゃあシャワーして寝ましょうか、と言った信大に雅野は首を振った。こんな幸せな気分で寝るなんてもったいない。
「もう一度」
 信大の胸に手を当てて言った。
「信大さんを舐めたいの。それからまた後ろから抱いて。信大さんが嫌でなかったら。それから」
 わたしのことを雅野と呼んで。そう言うと信大はうれしそうに笑った。
「あなたが望むのなら喜んで」


終わり


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