六月のカエル 30


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 二月半ばの日曜日、北之原美術館はかなりの来館客があったが、雅野と小泉の受付に信大がフォローに入って客たちの流れはスムーズだった。
 受付に雅野と小泉が、交代として事務の佐倉がいれば必ずしも信大がいなくても大丈夫なのだが、やはり信大が受付にいるのは頼もしい。小泉の休憩のときには信大とふたりで受付に座ると半年前の雅野がまだここへ就職したばかりのときのことが思い出されてほんのりとうれしい。
 今日は信大のほうに来客はなく、友永が来ないと思うだけで雅野の気持ちは重しが取れたように感じられた。こういう日は仕事も順調で、あっというまに一日が過ぎてしまうのが惜しいくらいだった。でも明日にはまた友永が来る。それでも友永だけでなく桐凰美術館の人たちも来るというのが雅野にとっては少しだけ救いに思えるのだった。

 翌日はみぞれ混じりの雨で昼だというのに雪に変わりそうな天候だった。桐凰(とうおう)美術館の研究員のふたりは予定の時間に来たものの、友永たちは時間になっても姿を現さなかった。
「さっき連絡があって電車が遅れているそうです。友永さんが来たら研究室のほうに案内してください」
 信大が雅野と小泉に伝えて桐凰美術館の研究員とともに研究室へ向かった。美術館に入ってきた客たちが雪に変わったと話していたので雅野も電車が遅れているのかもと思っていた。天気が悪いからか今日の来館客は多くなさそうだった。
 30分ほどして友永が入ってきたが、着ているコートの袖や裾が雨で濡れていて入口を入ったところでコートを脱いでから受付に来た。
「いらっしゃいませ」
「電車が遅れてしまいました。北之原さんに取り次ぎをお願いします」
「はい、ご案内します。その前によろしければコートを館長室のほうでお預かりしますが」
 友永が腕に持ったコートが雨で濡れているようだったので雅野が言うと、友永は「あら?」というような顔をした。
「そうですね。お願いできますか」
 すぐに表情を戻して友永が言うと、雅野はすぐに友永を案内して館長室の中へ入った。
「コートはこちらにどうそ」
 ホテルのクロークではないので友永の服にむやみに手を触れないほうがいいだろうと思い、ハンガーだけを差し出した。
「ありがとう、藤田さん」
 コートを掛けた友永が妙にきっちりと礼を言いながら雅野に振り返った。
「がんばっていらっしゃるのね。男って女らしい子ががんばっているのに弱いから」

 えっ? と声に出てしまいそうになったが、雅野はなんとか声を抑えて聞き返した。
「あの、それはわたしのことでしょうか」
 この部屋には雅野と友永ふたりだけだったから聞くまでもなかったがそれでも雅野は聞いた。
「そうよ。かわいくて女らしくて仕事もがんばっていて、信大もそんなところがいいって思ったのかな」 
 かわいいとか女らしいとか友永から言われても雅野にはあまり良い意味には聞こえなかった。それに信大のことを言われて雅野は咄嗟になんと言っていいのかわからなかった。
 雅野の戸惑っているような態度に友永はやさしそうな笑顔を浮かべた。
「でも、グッズの販売は残念でしたね。あなたが企画したそうですね」
「いえ、あれは」
 すぐに雅野は否定した。グッズの販売は雅野の立てた企画とは言えず、佐倉とふたりで提案したという程度で、実際に手配などをしてくれたのは信大だった。とはいえやはり準備不足は否めず、人手不足になって販売を中止せざるを得なくなってしまった。
「企画だなんて、わたしはまだまだです」
「そうね。あなたもわかっていらっしゃるのね」
 友永はずばりと言った。
「グッズ販売も美術館にとっては大きな企画ですからね。あなたのような事務方の素人が思いつきでやるのはやはり無理ですよ」

 友永の断言する口調に雅野はあっけにとられた。
 友永がはっきりと言う人だとは思っていたが、部下でもない雅野にここまで言うのだろうか。
 茫然と友永の顔を見るばかりの雅野に友永はにこりと信大に似た笑いかたで笑った。
「藤田さん、私が信大と結婚していたことはご存じよね」
「……はい」
 急に話が変わってそう言うことしかできなくて雅野は答えた。
「あなたと信大はつきあっているんでしょ?」
 そう言った友永は笑顔のままだった。
「見ればわかるって樋口の言ったとおりね。あなたと信大ってとてもいい雰囲気だもの」
 樋口さん?……と思いかけて、あっと雅野は思い出した。やはり特別展に毎日のように来ていたふたり連れの女性のひとりは樋口だったのだ。
 毎日のように客のふりをして来た樋口に信大と仕事をしているところを見られていたなんて。そしてそれを友永が命じたかなにかしたなんて。
 そう考えただけで友永のことがわからないというか、怖いような気持ちになってきたが雅野は努めて静かに聞き返した。
「どうして……そんなことをしたのですか」

「どうしてかしらね。そのときは自分でもよくわからなかったけど、彼の近況を知りたいと思ったというのが正直なところね。だって信大が『ミュージアム逍遥』に出ていたのを見て見違えてしまった。テレビ出演なんて別れたときの彼からは想像もつかなかったけど、意外に向いているみたいだったし、評判も良かったでしょう」
 不意に雅野はSNS上での『ミュージアム逍遥』の感想や信大についての書き込みを見たときの記憶がよみがえってきた。

「また彼と一緒に仕事がしたい。そう思って来たのだけど信大はわたしの期待を裏切らなかった。やっぱり彼は北之原一族の一員だけあるわね。仕事だけでなく、信大ともう一度やり直したくなってきたの」

 やり直す? やり直すって……。

 友永の言っていることは明白だったが、それでも雅野は聞き返した。
「信大さんとまた結婚したいということですか……」
「そうよ」
 あっさりと友永は言った。
「だから……わたしに……」
「そうよ」
 雅野がまだ言いきらないうちに友永は繰り返した。まるで雅野の考えていることがわかるかのように。

「でも、でも信大さんは……」
 わたしと結婚する。もう決まっている。あとは特別展が終わったら、わたしの家に行って……と、精一杯落ちつこうとしながら雅野は言った。
「信大さんとわたしは結婚するんです」
 
 自分でもよく言ったと思った。
 雅野が思い切って言った言葉に友永の眉がほんの少し引き上げられたように見えた。しかし。
「そうなの」
 ごく平静に友永は答えた。ショックも受けていないようだった。
「あなたと信大がそういうことになっているということは承りました」
 自分には関係ないとでもいうように、いやに事務的な口調で言って友永は脇に置いていたバッグを持ち上げた。
「では私は研究室へ行きますので。お時間取ってしまってごめんなさい」
「え……」
 一方的に言われて雅野は驚いて動けなかった。固まっている雅野の横を友永が通り過ぎてドアノブに手を掛けながら振り返った。
「藤田さんは本当に信大が好きなのね。信大にとってはたまらないでしょうね」
 なに、その意味……と雅野が考える間もなく友永は出ていった。





 ――なんなの。なんなの。なんなの。
 
 胸の中が疑問でいっぱいになりながら雅野は受付に戻った。友永と話していた時間が長く感じられたが実際には数分のことだった。雅野が館長室に入ったときと変わらず小泉が受付に座っていた。

 ――なんなの。訳がわからない。

 友永の言っている意味はわかるようでわからない。
 いままで友永のような人と対峙したことなどなかった。雅野にしてははっきりと信大と結婚することを言えたのに友永にはまるで通じていないようで雅野はどういうふうに考えたらいいのかわからなかった。
 もやもやした気持ちのまま雅野は受付の席へ座った。たとえ気持ちは落ちつかなくても仕事はしなければならない。

 二時間ほどして桐凰美術館の研究員ふたりといっしょに友永も研究室から出てきた。信大も続いて見送るために受付の近くまで出て、雅野たちも受付で見送るために立ち上がった。
「ありがとうございました」
 信大が桐凰美術館の研究員たちに礼を言うと友永にも礼儀正しく挨拶をした。
「友永さんもありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。では明日、お待ちしています」

 友永が信大に言った言葉にえっと思い雅野は顔を上げた。
 明日は休館日で休みのはずだ。それなのに信大さんが行くって……。

「あ、すみません、藤田さんにコートを預かってもらっているのですが」

 いままで信大が休みの日にひとりででかけたことなどなかった。ただの一度も。ずっと休みの日は雅野と過ごしていたのだ。それなのに……。
 信大を見たままの雅野には友永の言ったことがまったく聞こえていなかった。

「藤田さん」
 信大に少し大きな声で言われて雅野ははっとした。
「え、あの……」
 友永と受付のとなりの小泉も雅野を見ていた。
 なにか言われたのだと気がついた雅野はあせって信大を見上げた。
「友永さんのコートを預かっているそうですね」
「あ、あの、はい。すみません。すぐに……持ってきます」
 けれどもそこに来館客が来て信大と友永も受付の後ろへ下がり、受付を出ようとした雅野に信大がまた声を掛けた。
「館長室ですね。僕が行きますので藤田さんは受付をお願いします」
 信大が館長室へ向かうと当然のように友永が後に続いたが、友永が信大に言う声が雅野に聞こえた。
「あの人、なんだかぼーっとして頼りない人だけど大丈夫?」
 信大はなにも答えずに館長室へと入っていった。





 閉館時間になり小泉が先に帰っていったが、雅野は事務室で最後の点検をしていた。すぐに信大が見回りから戻ってきてそれで今日の仕事は終わりだった。
「お疲れさまでした」
 事務室に戻ってきた信大はいつもと変わらず落ちついた声で言うと雅野に帰りましょうと言った。
「あの……、信大さん」
 美術館を出て信大の家へ向かうあいだ、並んで歩きながら雅野は思い切って聞いてみた。
「明日、出かけるんですか」
「ええ、友永さんのところへ行くことになりました」
 友永さんのところ、というのが雅野には地味にこたえる。
「でも明日は休みですよね……」
「すみません、開館日は僕は出歩けないので、明日しかないのです。真野先生も明日でないと都合がつかないそうなので」
 そうか、真野先生の都合もあるのかと雅野はなんとか思い直そうとしたが、信大の家へ向かって歩く足が止まってしまった。
「雅野さん?」
 信大が少し驚いたように振り返った。

 いや。
 信大さんが友永さんと会うのはいや。会ってほしくない。

 ただそう言いたいのに雅野には言うことができない。
 仕事という信大の理由などかまわずに行かないでと言いたいのに言えない。

 あとほんの少し歩けば信大の家という夜の道で雅野はなおも突っ立ったまま動くことができなかった。



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