六月のカエル 29


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 雅野が来客用の茶を淹れていると事務室で電話中だった佐倉が電話を終えて近寄ってきた。
「すみません、館長室には私が持って行きましょうか」
「大丈夫です。あとはこのお茶をお出しするだけですから」
 受付も混んでいなかったので佐倉に代わるほどでもなく、雅野は丁寧に淹れた客用の茶を運んだ。

「失礼します」
 ノックをして声をかけてからドアを開けたのだが、中の様子に雅野はどきっとして立ち止ってしまった。
 テーブルの上に置いたノートパソコンの前に座った信大のそばで友永が肩を並べるようにしてパソコンを見ていた。ふたりは背を向けていて雅野にはふたりの顔が見えなかったが、友永のとなりに立った樋口もパソコンをのぞき込んでいなかったら危うく茶を落としてしまうところだった。それくらい信大と友永の距離は近かった。

「あ、すみません」
 樋口が気がついてそう言うと背を向けたままの友永も体を起して雅野に振り返った。雅野に目を向けた友永の顔は平静すぎるほど平静で、なにも感じさせない冷静な表情に雅野のほうが目を反らした。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます、藤田さん」
 友永がそう言ったが、信大は食い入るように茶碗の写真が映し出された画面を見ていて、雅野がちらりと信大のほうを見るとやっと気がついて顔を上げた。
「藤田さん、すみませんがこのあと研究室のほうに移るので、お茶は下げてもらえますか」
 信大に言われて茶托を持った雅野の手が止まった。
「では研究室のほうにお持ちしましょうか」
「いえ、向こうは飲食禁止です。あと、後ほど桐凰(とうおう)美術館からふたりの人が来ますので、来たら知らせてください。お願いします」
 信大には珍しく急いでそう言うとテーブルの上のファイルやなにかをまとめて持って立ち上がった。友永と樋口もバッグやファイルを持って立ち上がったが、信大はもうドアを開けていて、いつになく急いでいる信大に雅野は盆を持ったまま内心驚いていた。けれども信大は雅野の驚きには気が付かずドアを出ていき、その後ろに友永が続いたが、友永は雅野の前を通り過ぎるときに口元だけでかすかに笑ったようだった。

「あら、お茶はお出ししなかったのですか」
 雅野が茶の入ったままの茶碗の載った盆を持って戻ってきたので佐倉が聞いたが、雅野は「はい」と答えただけで茶を片付けると佐倉には信大たちが研究室にいることと、後ほど客がふたり来ることを告げた。
「珍しいですね、北之原さんが研究室に人を入れるのは」
 佐倉もそう言ったが別段気にしていないようで、雅野は受付に戻るとちょうど休憩時間になった小泉と交代して受付に座った。

 しばらくして桐凰美術館の研究員という人たちが来館したときにも雅野は受付にいた。小泉は休憩を終えて戻ってきていたが、雅野が研究室に内線で連絡をするとすぐに信大だけでなく友永と樋口も連れだって受付に降りてきた。
「お待ちしていました、先生」
 五十代くらいに見える桐凰美術館の研究員たちに挨拶をしたのは友永で、友永が信大に研究員たちを紹介した。
「ようこそお出でくださいました。私のほうから伺わなければならないところを来ていただき恐縮です」
「いえいえ、こちらこそ急にお邪魔してしまい申し訳ないです。ですが友永さんからの依頼でしたら間違いないと思いましてね。天青(てんせい)らしいと聞いたら居てもたってもいられません。さっそくですが見せていただけますか」
 挨拶もそこそこに館長たちは話しだした。興奮を抑えているような話し声に信大がまず研究室へと言って案内していたが、雅野にも専門的だとわかる言葉がいくつも聞こえていて、大きな事が起きているような印象だった。そして案内をしている信大の横顔がいつになく意気込んでいるように見え、それに続く友永も誇らしげな表情で受付の横を通り過ぎて行った。

「あの友永さんていう人、なんだかすごい人ですね。国立日本美術館の主任研究員なんですよね」
 小さな声で小泉が言ったが、雅野は静かに首を振った。信大や友永の仕事のことはわからない。同じ学芸員や研究員ならば信大たちの話もわかるかもしれないが、雅野は事務と受付のスタッフのひとりにすぎなかった。

 その日、客たちが帰ったのは美術館の閉館時間ぎりぎりで、信大は雅野が予想した通り残って仕事を片付けていくことになった。事務の仕事は佐倉がほとんどやっていたが、館内の管理などは信大でなければできないこともある。
 こういうときはいつも先に帰っていたので雅野は小泉が出た少し後で通用口を出た。残業でもなんでも雅野の帰る家は信大の家なのだ。
 夕食には温かいものが良いと思って野菜たっぷりのスープを作り、ご飯も炊いた。ご飯は炊飯器で炊くだけ、スープも刻んだ野菜にコンソメキューブを溶かしただけの簡単なものだが、できあがってもまだ信大は帰ってこない。食卓のテーブルに座って頬杖を突き、雅野はこの日初めてのため息をついた。

 今日の信大さん、忙しそうだった。ずっと研究室だったし。
 友永さんを研究室に入れたのは後から桐凰美術館の人たちが来るからだったんだ。
 でも……。

 友永さんが館長室を出ていったときの顔。わたしを見た友永さんの顔。
 咎められたわけでも、馬鹿にされたわけでもない。でも友永さんの口元に浮かんだかすかな笑いはなんだったのだろう。
 どうして?と自問してみたが、研究室に案内して欲しいと言われて案内しなかったかったことしか思いつかない。
 あれってわたしの対応が悪かったのだろうか……。

 考え込みそうになって雅野は首を振った。こういうときにひとりであれこれ考えて良いことはなかった。いつもこれで落ち込んでいる。いいかげん学習しようと雅野は立ち上がるとスープを温め直してご飯を食べ始めた。なにかしているほうが考え込まずに済むし、家事もはかどると思いながら雅野が夕食を食べて片付け終わると信大が帰ってきた。

「すみません、遅くなりました」
「おかえりなさい」
 コートを手にした信大がキッチンへ入ってくると雅野は笑顔で迎えることができた。
「ご飯できているから着替えてきてください」
「雅野さんは? もう食べた?」
 うんと雅野が頷くと信大はいつもの笑顔でにこりと笑った。
「ありがとう。すみませんね」
 言いながら顔を近づけた信大が頬にキスをした。帰ってきたばかりの信大はまだ外の冷たい空気を名残りのようにまとっていたが、やさしいキスはいつものキスで、昼間の気持ちの張った様子はすでに消えていた。
「信大さん、今日は忙しかったですね」
「ええ、急に桐凰美術館の研究員の人たちが来ることになって……、じつは前々からあの美術館の人には会いたいと思っていたのです。あの人たちは東洋陶磁器の専門家なのですよ。祖父の残した品物のなかには僕では力不足で研究が思うように進んでいないものがあったのですが、桐凰美術館の人に見てもらったことでようやくこれからの研究のめどがたちそうです」
 信大はわかりやすく説明してくれたが、友永がそれを取り持ったとは言わなかった。
「そうですか。信大さんの仕事がうまくいきそうでよかった」
「まだこれからですけどね」
 またにこりと笑った信大が雅野の手を取って抱き寄せた。
「明日は来客の予定はありませんから通常の仕事ですよ。日曜日だから来館客は多いかもしれませんが、僕も受付に出ますので」
 来客はないと聞いて信大の胸に顔をつけて雅野は密かに目を見張った。ということは友永も来ないということだ。
「はい、がんばります」
 大丈夫、とおまじないのように心の中でつぶやいてから雅野は精一杯の笑顔で答えた。

 大丈夫。
 しっかりするって決めたんだもの。
 わたしは大丈夫……。



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