六月のカエル 28


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『そうだったんだ。つきあっている人がいたのね』
 雅野が電話でお父さんとお母さんに会ってもらいたい人がいると言っても母はあまり驚かなかった。
『変だと思ったのよ。お正月は帰って来なかったし、宅配便を送るからって言ってもいいって言うし。それで相手の人は美術館の同僚の人なの?』
「話してなくてごめんなさい。あの、信大さんは同僚じゃなくて副館長なんだけど、三十七歳で、じつはバツイチで」
『えっ、バツイチ……』
 母の声が今度は本当に驚いて途切れた。
 言いにくいことは早く言ってしまおうと思ってひと息に言ったが、やはり両親の反応が怖かった。
「でも、とても真面目で思いやりのある人だから。わたしも軽い気持ちじゃなくて本気なの。だから」
『そりゃ、相手の人も三十七歳でバツイチなら本気でなけりゃ困るわよ』
 ぴしゃりと母に言われてしまい、一瞬、雅野は黙り込んだがここで引くわけにはいかない。
「わたしも真剣に考えて、だからお父さんとお母さんに会ってもらいたいんです。お願い……お願いします」

『雅野、お父さんだが』
 不意に聞こえてきた父の声は妙に落ち着いていたが、落ちつかなくなったのは雅野のほうだった。
「は……い」
『お母さんが話しているのを聞いたけど、結婚したい人がいるらしいね。その人を連れて来たいということかな』
「はい、そうです」
 久しぶりに聞く父の口調はいつもと同じで、雅野はどきどきしながらも素直に答えた。
『今、話しを聞いたばかりだから、お父さんも相手の人に会ってみなければなんとも言えない。それはわかるね』
「はい」
 父の言うことはもっともで、雅野は気持ちを落ち着かせて返事をした。
「急にこんなこと言ってごめんなさい。でも彼に会って欲しいんです」
 父に対して信大のことを「彼」と言ったのはよくなかったかなと雅野は思ったが、電話の向こうの父は予定表かなにかを見ているような気配だった。
『わかった。お父さんは休みの日ならいつでもいいから。詳しいことはお母さんに話しなさい』
 拍子抜けするくらい簡単にわかったと言われて雅野はなにか言ったほうがいいのかなと思ったが、すぐにまた母が電話に出て雅野は信大と家に行く予定の日時を伝えた。
『お母さんもその日でいいけど……。雅野、相手の人ってもしかして「ミュージアム逍遥」っていうテレビ番組に出ていた人?』
「え、お母さん、見ていたの?」
 芸術や美術に縁のなさそうな母なのに信大の出演したあのテレビ番組を見ていたのかと雅野はびっくりしてしまった。
『あなたが勤めているところが紹介されるのなら見るに決まっているでしょう。録画だってしたわよ』
 テレビ放送のことは言ってなかったのに母はしっかりチェック済みだった。

『そう、北之原さんってあの人なのね。そう……』
 母は何か考えているような口調だったが、雅野は思い切って聞いてみた。
「お母さんは反対?」
『反対なんて言ってませんよ。お父さんと同じ、北之原さんという人に会ってみなければわからないしね。でも雅野も北之原さんという人も本気なんでしょう?』
「はい」
 これだけは雅野もしっかりと答えた。
『そう……、雅野が本気って言ったの、初めて聞いたような気がするわねえ』
「そ、そうかな。でもわたしだって本気になることあるんだから」
 母にしみじみと言われて雅野はぶっきらぼうに答えたが、母は笑っているようだった。
『そうね、雅野が本気だって言うならいいのかもね。じゃあ帰って来る日を待ってるね。わかっていると思うけど、お父さんお母さんが賛成しても結婚っていうものはいろいろ大変よ。北之原さんに甘えてばかりじゃだめよ。しっかりね、雅野』
 雅野の性格を知っている母は言わずにはいられないと言う感じで最後にお説教めいたことを言ってきたが、雅野はうんと言って頷いた。



「電話、済みましたか」
 風呂から上がった信大がタオルで髪を拭きながら聞いてきた。
 メールが嫌いな両親には電話で話すしかないが、電話で話しているのをそばで信大に聞かれるのはとても恥ずかしくて話しにくい。お願いだからと言って信大には先に風呂に入ってもらっていた。
「はい、家に行く日は父も母も大丈夫だそうです」
「そう、よかった」
 そう言ってベッドの端に座った信大の笑顔が安心したような顔に変った。信大も気にしていただろうが、せっかちに急かしたりはしないところは信大らしい。
「おいで」
 信大に手を取られて雅野がすとんと信大の膝の上に納まると、まだ髪の乾ききっていない信大からは風呂上がりの良い匂いがした。雅野が引き寄せられるように信大の匂いを吸い込むと信大の唇がそっと頬に触れてきた。
 もう数えきれないくらいキスをしているのに、いつも信大は最初はそっと唇をつけてくる。大切なものに触れるようにキスしてくる信大の唇が雅野は好きでたまらない。

 自分から唇を開くとすぐに信大のキスも深くなって舌が絡んだ。何度もお互いの口の中をなぞり、息をするのも忘れて夢中で吸い合うと体が自然に熱くなる。疲れていたことも忘れて雅野は目を閉じて信大の唇を感じていた。キスをされればされるほど雅野の体のなかでなにかがとろりと溶けだしていくようだった。
「信大さん……」
 濡れた音とともに唇が離れて雅野が唇を開いたまま信大を見上げると、信大は少し首をかしげるようにして雅野を見ていた。
「もっと、もっとキスして……」
 唇だけではなく体にも。
 そう言う代わりに雅野は信大の首に腕をかけて引き寄せた。信大を抱きながら後ろに倒れて背中がベッドに着くと目の前には信大の顔が柔らかく笑っていた。
「その顔、すごく素敵ですよ……」
 キスだけでとろけた顔なのに、素敵と言ってくれる信大に身も心も参ってしまっている。
 ほほ笑みながら信大の手が雅野の部屋着のボタンをはずしていく。ブラもショーツも雅野が少し体を動かしただけで取り去られてしまった。
「雅野さんはこのままでいて」
 それが信大の今夜の答えだった。

 もっととねだった雅野に応えるようにキスが続いた。唇だけでなく首筋に這い、そして胸のふくらみに信大の唇が辿りつくと雅野はふるっと体を震わせたが、信大の唇は先端を通り越して下がっていった。キスといっしょに信大の手も肌の上をすべり、雅野の太ももにかかるとすっと両足を広げられて信大の頭が下がり、そこに口をつけられた。
「あ……」
 思わず雅野から声が漏れた。
 雅野の開いた足のあいだにつけられた信大の唇に雅野の小さな突起が食まれている。今まで指で触れられたことはあったが、口をつけられたのは初めてだった。

 いままで信大の口でそこを愛撫されたことはなく、雅野は信大はそういう行為が好きではないのだろうと単純に思っていた。信大に口をつけられるまでもなく指で触れられただけでも啼くのは雅野のほうで、これ以上望むことすら忘れていた。
「し、信大さん……」
 信大の頭に手を伸ばしたが信大は顔を上げない。敏感な突起を食む信大の唇に雅野の腰は反って、両足が何度もシーツを擦った。
「力を抜いて」
 顔を離した信大に言われても力が抜けない。一点だけを愛撫された体の中は高まりかける予感でいまにもひくつきそうなのに、信大がいない。
「信大さん……」
 雅野が信大に向かって手を伸ばすと指先にキスが落とされた。避妊具をつけながら雅野を見ていた信大はやさしい表情なのに雅野にあてられたものは信じられないほど熱かった。

 一気に突き上げられるかと思ったが、信大はゆっくりと腰を進めて雅野に分け入ってきた。信大に少しずつ押し広げられ、最奥まで届くと雅野からは喘ぎとも吐息ともつかない息が吐き出された。雅野の中を占めた信大がかがみこむと足と足、胸と胸とが重なりあって唇がつけられた。ぴったりと体を重ねたままつけられた信大の唇は雅野の息さえも飲み込むようなキス、さっきよりももっと深いキスだった。

 もっと激しくされるかと思った……。

 一緒に住み始めてからの信大の熱さと激しさを思えばそうだと思っていた。けれども信大は唇と唇、胸と胸とを押し付け合い、隙間なく重なり合いながら腰だけを動かしていた。

 あ……!

 体の中を押される快感に雅野の声が出かかったがそれさえも信大に飲み込まれていく。動きたくても動けないし、離れることもできなかったが少しも苦しくない。信大が動くたびに中が押されて、雅野もほとんど動いてはいないのに快感が高まっていく。

 このまま信大さんの中へ入ってしまいたい……。

 雅野の中は膨れ上がるように熱くなっているのに信大は決して急がず、ゆるやかな往復を繰り返していた。聞こえるのは自分の息と信大の息の音、そしてふたりの体のあいだから聞こえるくぐもった水音だけだった。
 急激な高まりも信大からの激しい動きもなかったが、雅野は何度かの震えの後で体中に快感が広がっていくのに任せた。じわりと広がっていく快感は信大にも伝わり、やがて雅野の体から完全に力が抜けてしまったところで信大も静かに達した。




「どうして泣くの……」
 額にキスをされて雅野は自分でも気がつかないうちに泣いていたのに気がついた。信大からの快感に癒されて、慰められて泣いていた。

 頼りない自分でいたくない。
 いつも信大さんに引き上げてもらってばかりじゃなくて。

 でもそれは涙で言えず、泣き笑いのように雅野は首を振った。

 ちょっとなにか言われたくらいでぐらぐらしたりしないようにする。少しでも信大さんの仕事の助けになるように自分の仕事もきちんとして、美術の本も暇を見つけて読もう。
 友永さんが信大さんの元妻だったしても、わたしは信大さんと結婚するのだから。もう両親にも結婚したいことを言ったのだから。
 お母さんに言われたようにしっかりしなければ……。

 信大を安心させるために涙を拭いて笑顔になりながら雅野は自分の決心を何度も心の中で繰り返していた。




***



 翌日、雅野は新たな気持ちで出勤した。信大も一緒に出勤したのは変わらなかったが、ふたりで少し早めに出勤して雑用などを片付けて開館中の仕事がスムーズになるようにするためだった。
 特別展も残り二週間を切ってゴールが見えかけていたがまだ気を抜くわけにはいかない。今日は土曜日で来館客も多そうだった。
 信大からは連絡事項として今日も国立日本美術館の友永さんが来館すると雅野ら受付と事務のスタッフにも伝えられていた。連日のように友永が来ることは引っ掛かるが、国立日本美術館との新しい仕事のためと信大は言っていたし、それに友永のことを知っている佐倉があれこれ言ったりせずにいてくれるのが逆に雅野には頼もしい。要するに友永と信大は結婚していたことがあるにせよそれは過去のこと、仕事は仕事なのだと雅野は自分に言い聞かせた。

「いらっしゃいませ」
 午後になって約束の時間に友永が現れると雅野は落ちついて対応した。今日は部下のあの女性、樋口という人も一緒で雅野はちょっと驚いたが、それでも冷静さは失わなかった。
 受付をいったん小泉に任せて雅野が友永と樋口を応接室として使っている館長室へ案内した。信大からはそうするように言われていたからあとはお茶を出すだけだ。
 友永と樋口も礼儀正しく館長室に入ったが、雅野が出ていこうとすると友永に呼び止められた。
「たしか藤田さんでしたね」
「はい」
 雅野は落ちついて返事をしたが、友永は名札を見ただけかもしれないが雅野の胸のあたりを一瞥してから笑顔になった。
「北之原さんは研究室ですか」
「はい、すぐに参りますのでお掛けになってお待ちください」
 雅野がそう言うと友永は持っていた大きな封筒を見せた。
「お渡ししたい物があるので研究室に案内していただけますか」

 でも、と雅野は返事をためらった。二階の研究室は奥が所蔵庫になっていて気軽に出入りできるところではないのだ。研究室は信大が中を見せてくれたことはあるが、普段は断りなく入らないように言われていた。所蔵庫は雅野も入ったことはなく、部外者を案内してもいいものか雅野には判断できなかった。
「案内だけしていただければいいのだけど」
 たたみこむように友永は言ったが、研究者であれば所蔵庫がどういうものかわかっているはずなのに友永の申し出は無遠慮に聞こえた。
「すぐに北之原がまいりますので」
 それでも雅野が答えるとちょうど信大が開けてあるドアから入ってきた。
「お待たせしました。……なにか?」
 雅野と友永のふたりが振り返って信大を見たので信大が立ち止まったが、雅野は友永に小さく一礼して「お茶をお持ちします」と言って館長室を出た。

 友永さんっていろいろな意味で人当たりの強い人なんだな……と、事務室に戻って客用の茶を淹れながら雅野は考えていた。
 それに友永は初めてここに来たときもそうだったが、研究者としてかなりなプライドや自信を持っているのかもしれない。自分とは真逆のタイプだ。
 でも、そんな友永にさっきは落ちついて対応できた。うれしいと言ったら変だが、少しだけ大人の対応ができた気がした。



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