六月のカエル 27


27

 目次



 次の日の朝、いつもはノーネクタイのことが多い信大がグレーのスーツを着てネクタイを締めたのを見て雅野も黒っぽいスーツと白いブラウスを選んだ。信大がスーツを着たのは大学院の恩師が来るためで、雅野もできるだけ失礼のないようにと思ってメイクもきちんとした。
 仕事の始まる前には信大から皆に国立日本美術館の館長である真野教授が来ることが伝えられて今日の予定が確認された。ほかの仕事もいつも通りで、予定されている時間になると信大が受付に来て訪問を待ったが、現れたのは真野教授と友永のふたりだけだった。

「お久しぶりです、先生」
 友永の挨拶を待たずに信大が真野教授に近寄り挨拶をした。学生時代の恩師に久しぶりに会ったという感じで信大の声も明るい。真野教授は雅野が思っていたよりも高齢で七十代に見えたが元気な様子で信大に答えた。
「北之原くん、おめでとう。今回の特別展は盛況のようでなによりだね。特別展にこぎつけるまでだいぶ時間がかかったようだが、ともかくおめでとう」
「ありがとうございます、先生。私のほうから出向くべきでしたのにわざわざご足労いただき恐縮です。先生にご覧いただけるとは思ってもいませんでした」
「どんな場合でも現物を見ないで研究者とはいえないよ。今回の特別展の展示物はどれも粒ぞろいでさすがは北之原家のコレクションだけある。さっそくだが見せてもらうよ」
 真野教授はよく通る声で言うと信大と並んで展示室へ入っていった。

 なんだか信大さん、うれしそう。
 真野教授と話しているのを見て雅野も信大が先生の来訪を心から喜んでいるように見えた。真野教授は威張った様子などもないし、世に疎い学者先生という感じもない。きっと良い先生なのだと思いながら雅野は受付で見ていた。
 大きな美術館ではないので受付からも展示室の半ばくらいまで見える。真野教授が眼鏡をかけた顔を展示ケースのガラスに近づけて見たり、信大となにやら話しながら展示品を熱心に一点一点見ていた。信大のそばには友永もいて頷きながらふたりの話を聞いていた。
 そんな信大たちの様子を受付から見ながら雅野はよそ見ばかりしていたらいけないと思うのだが、どうしても友永のことを意識してしまう。

 あの人が信大さんの奥さんだった人……。

 服装も髪型もそして仕事も自分とは対照的な人だ。
 雅野は大きい胸を気にして胸を張る姿勢はあまりしたくないのだが、友永はぴしっと背筋を伸ばしていて、黒いスーツの後ろ姿はとても理知的だった。見た目だけでなくすばらしいキャリアを積んで専門の仕事をしている人だ。
 専門といえば最近は信大の貸してくれた美術史の本もまったく読んでいなかった。一緒に暮らし始めてから家では本を読む時間なんてないくらい信大とべったりだったのだが、何事にも中途半端な自分にため息が出そうになってしまった。仕事中だったので雅野は慌てて気持ちを引き締めたが、友永の後ろ姿をときどき見ることは止められなかった。

 しばらくすると真野教授が展示室の真ん中で信大と話し込んでいた。一般の来館客のじゃまにならないように気をつけてはいるが、どちらかといえば真野教授のほうが夢中で話しているという感じだった。話し好きらしく、手振りを交えて次から次へと話が続いて止まらないという様子で、そんな真野教授の後ろで友永がさりげなくまわりを気遣っているのはさすがだった。やがて信大も上手く話の途切れるきっかけを見つけて真野館長を案内して展示室から出てきた。
 信大と真野教授が奥の館長室へ向かって受付の横を通り過ぎたが、後ろについてきた友永がすっと受付へ近づいてきた。
「今日はお世話になります」
 友永がそう言ったので雅野も一礼して挨拶したのだが、顔を上げた雅野の胸につけた身分証の名札を友永は見ていた。
「藤田さんとおっしゃるのですね」
「はい」
ちょうどそのとき小泉は事務室に入っていて雅野はひとりだったが、友永はスーツを着た雅野の胸をなおも見ていた。

 今日の雅野は黒っぽいスーツを着ていたが、上着はショート丈の襟なしのもので、中には後ろ開きの白いブラウスを着ていた。上着の前をきちっと閉めてしまうと胸の大きさが強調されてしまうように思えるのでこの上着を着るときはいつも前のボタンは止めずにブラウスが見えるようにしていたが、友永は感心したように言った。
「本当に巨乳なのね」
 胸のことを言われたことはこれまでもあったが、女性から巨乳と言われたのは初めてだった。胸が大きいのは隠しようがないが、巨乳という言葉は男性向け雑誌のグラビアやビデオのようなアダルトな意味合いが感じられて言われても微妙だ。なんと返事をしていいのか分からず雅野は友永の顔を見たが、友永はふっと笑ったようだった。

「友永さん」
 不意に信大の声がして雅野は振り返った。信大が廊下を戻ってきたが、友永は平静な顔つきで、
「これをスタッフのかたにお渡ししようと思いまして」と言って手に提げていた紙バッグを雅野へ差し出した。手みやげの菓子だった。
「あ、ありがとうございます」
 慌ててお辞儀をして受け取ったもののそれ以上はなにも言えず、雅野の中では「巨乳」と言われたもやもやが続いていた。

「ありがとうございます。友永さんも館長室へお入りください」
 信大も礼を言うと友永は受付の前から離れたが、代わりに信大が近づいた。
「どうかしましたか」
 なにかを気にしているような顔の雅野に信大が尋ねたが、雅野はここは受付、仕事中だからと平静になろうとしながら、いいえと小さな声で答えた。
「ではこの後で真野先生たちが帰られる時間に合わせてタクシーを頼んでおいてもらえますか」
「あ、はい」
 信大に言われて雅野は答えたが、少し離れたところでは友永が足を止めてこちらを見ている。それに気がついたとたんに雅野は急に頬が熱くなった。
「えっと、あの、どこに」
 客のためにタクシーを手配するのは初めてで、美術館の近くにタクシー会社があるのかどうかも知らなかった。静まらない気持ちのままに聞き返してしまったが、信大はすぐに答えてくれた。
「佐倉さんに聞けばわかると思いますので。お願いします」
 あ、そうだったと雅野は思い、わかりましたと返事をすると信大はすぐに受付から離れたが、友永の視線は信大の後に続いて歩きだすまで雅野から離れなかった。



 真野教授たちはかなり長い時間信大と館長室で話をしていたが、やがて出てきた真野教授は帰るのが惜しい様子だったが信大に見送られて、友永もなにごともなく教授と共に帰っていった。
 雅野のその後の仕事も順調で最後の施錠までいつも通りの仕事をすることができたが、美術館から信大の家へ向かうあいだも心の中はもやもやしたままだった。
 タクシーも無事に頼めたし、真野教授は信大と会えたことを喜んでいた。雅野と真野教授とは直接話をしていなくてもそれはわかった。それなのに心が晴れない。

「今日は大変だった?」
 信大が家に帰るなり聞いてきたが雅野は首を振った。
「いいえ、そんなことないです」
「そうですか?」
 信大は心配してくれていたが雅野はそっと寄り添って信大の胸へ顔をつけた。 
「でも……ちょっと疲れたかも」
 素直に言った雅野に信大はかえって安心したようでふわりと雅野の髪をなでた。
「僕も久しぶりに真野先生に会ったけれど、先生も相変わらずでした」
「先生、お元気ですね」
 皮肉ではなく見たままの印象を雅野が言うと信大は笑った。
「あの先生は話し好きで有名ですから」

 雅野が疲れたと感じたのは真野教授のことではない。友永に言われたことと視線を思い出すと気持ちが沈みそうになったが、信大の言葉に顔を上げた。
「わたしも真野先生のお話、聞いてみたいです」
「先生の話はおもしろいですよ。僕などよりはギャラリートークに向いている。ただ話が止まらなくなるのが難点ですが」
 冗談めかした信大の言葉に雅野も思わず笑うと信大の唇がそっと雅野の頬をなでた。
「先生と会ってやはり国立日本美術館の協力を得たいと思いました。先生の人柄もさることながら国立日本美術館では美術品に対して科学的な研究や補修修復が体系的に行われています。北之原の所蔵品にもかなり傷んで修復が必要なものが何点かあるのですが、それはこれからだんだんと進めていこうと思っていたところなのです」

 雅野の目を見て話す信大に雅野は自分からぎゅっと抱きついて顔を信大の胸へつけた。信大が言おうとしていることが予想できて。

「友永さんとは何度か打ち合わせをすることになりましたが、仕事のことだと割り切るしかありません。もちろん友永さんもそのつもりのようです。同業者の因果というか、同じ分野の学芸員であればこういうこともあるでしょう。特別展が終われば僕のほうから国立日本美術館へ行くようにしますから、どうか雅野さんもわかってください」

 信大にとっては国立日本美術館との研究協力は大きな魅力があることなのだが、特別展が終わったらと言われて思わず雅野は顔を上げた。目を見張っている雅野に信大は雅野の唇に指を当てた。
「もちろん国立日本美術館よりも雅野さんのご両親に会いに行くのが先です。忘れてなんていませんよ」
 信大は雅野を安心させるようにほほ笑んでいた。
 そうだった、家に電話をして両親の都合を聞かなければならないと、やっと雅野は思いだした。結婚したい人を連れていくと言うのがかなり恥ずかしいというか、土日なら仕事が休みな両親はたぶん大丈夫だと思ってまだ連絡していなかった。
 まずは母に知らせてそれから父に言ってもらおう。
 浮き上がった気持ちですぐに雅野はスマートフォンを手に取った。



   目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2016 Minari Shizuhara all rights reserved.