六月のカエル 26


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 名前を呼ばれたのにもかかわらず信大は受付に近づいて雅野のほうへ手を差し出した。
「友永さんの名刺をください」
「あ、はい」
 雅野が友永の名刺を渡すと信大はじっと名刺を見てから友永へと向き直った。
「どのようなご用件でしょうか」
 挨拶もなにもなしにそう言った信大の声はいつになくそっけないものだった。

「お久しぶり、それくらい言ってくれるかと思っていましたけど、やはり来ないほうがよかったのでしょうか」
 さきほどとは変わって静かな言いかたで友永は答えた。
「用があったから来られたのだと思いましたが」
「ええ。私から面会を申し込んでも断られるのはわかっていたので直接来てしまいました。仕事のことでぜひ信大に聞いてもらいたいことがあって」
 また「信大」だ。
「ご用件でしたらここで伺いますが」
 信大はさらりと答えたがやはり声が冷たい。
「ここではお邪魔でしょうから研究室で話させていただけませんか」
 友永は控えめな口調で言いながら受付の前からどいた。ちょうどひとりの来館客が受付の前へと来ていたからだったが、来館客は小泉が対応したものの信大は受付の横から動かなかった。
「研究室はあいにく塞がっています」
 信大の対応はあくまでも静かすぎて、雅野は内心どうしたのだろうと思って見ていたが、信大は表情ひとつ変えずに立っていた。

「……そうですか。では」
 まっすぐな黒髪をちょっと揺らして友永が視線を上げた。声は静かで信大の態度に怒っているようには見えなかったが、目はまっすぐに信大を見ていた。
「国立日本美術館では国内外の美術館や研究機関と収蔵品の研究についても相互に協力をおこなっていることはご存じのことと思います。昨今は一般のかたの日本美術に関する関心も高く、専門家の研究だけではなく美術館が広く開かれたものであるべきだという考えのもとに各方面との交流が図られています」
 慌てもせず水が流れるように言った友永に信大は黙って聞いていたが、そんなことはまったく意に介さず友永は話を続けた。
「信大の出演したテレビ番組、拝見しました。とても好評でしたね。大学院のときの真野教授、覚えていらっしゃるわよね。いまは国立日本美術館で館長をしていますが、信大のテレビ出演をそれは感心していらっしゃいました。一般の人に向けてのテレビ番組で信大がああいった解説をすることを」
「続きは奥の部屋で聞きます」
 不意に信大が話を遮った。

 友永の話し方は丁寧なのにさっきから「信大」の連発だ。大学院時代の教授のことが出てくるから信大とは学生のときからの知り合いということが雅野にもわかったが、それにしてもこの場で呼び捨てはそぐわない。信大が快く思っていないことは明白だった。
「奥の館長室へどうぞ」
 信大が言うと
「お忙しいところを申し訳ありません」
 友永が控えめな声で詫びたが、信大はなにも答えなかった。

「館長室にいますので」
 雅野たちにそう言った信大が廊下の奥の館長室へ先に立って行くと、友永と連れの女性は信大の後をついていく形で歩いていったが、後ろについていた友永の部下らしき女性が受付の前を通り過ぎるときに会釈をしてきた。黒いスーツを着て、長い髪を後ろで留めた女性が軽く頭を下げたので雅野たちも会釈をしたが、雅野に視線を定めた女性の顔に雅野の心臓がどきっと跳ね上がった。

どこかで見た覚えのある顔だと思っていたが思い出した。その女性は以前、特別展に毎日のように来ていたふたり連れの女性のうちのひとりだった。




「友永さんというのは北之原さんのお知り合いみたいですね」
 友永たちが奥へ行ってしまうと小泉が小さな声で言ったが、雅野は受付のトレーを戻そうとして手が震えてあやうく落としてしまいそうになった。
「すみません」
 なんとか平静を保ちながら雅野は小泉に言ったが、友永が信大の知り合いなのは明白だった。学生のころからの知り合いというだけではないなにかが感じられる。
 それに部下の女性、ふたり連れの女性たちは敬輔に「信大の追っかけ」といわれていたのにいつのまにか姿を見ないようになって雅野も忘れていた。それなのに、なぜあの人が友永と一緒にいるのだろう。

「あの、お客様にお茶をお出しするか聞いてきます」
 心の中の疑問を隠しながらいったん小泉に受付を任せて雅野は事務室へ入った。事務室では佐倉がデスクで事務の仕事をしていて、入ってきた雅野に顔を上げた。
「お客様のようですね」
「はい、あの……」
 事務室からも来客があった気配は聞こえていたので佐倉はなにげなく聞いたのだが雅野はすぐに答えられなかった。
 会釈をした部下の女性もわからなかったが、信大を呼び捨てにした友永という人もわからない。そしてなによりも胸の中が不安でいっぱいだった。
「どうかしましたか」
 佐倉に聞かれて雅野はますます不安になってしまった。自分でも動揺していると感じられるほどに。
「さきほど北之原さんに来客があって、あの……、国立日本美術館の友永さんというかたとお連れのかたが」
「友永さん?」
 さっと佐倉の顔つきが変わった。
「友永さんて、友永有理(ゆうり)さん?」
 うなずくだけで精一杯の雅野に佐倉はデスクから立ち上がりながら尋ねたが、目を見張っている佐倉の様子に雅野はやはり、と自分の動揺する理由が当たってしまった気がした。
「……佐倉さんはお会いしたことがあるのですか」
「ええ、何度か」
 雅野の動揺を察してか佐倉は小さな声で答えた。
「北之原さんが結婚していたときに何度かここへ来られたことがありましたから。友永有理さん」
 ああ、やっぱり……と妙な納得が雅野の胸の中で広がっていく。
 やはりあの女性は信大の別れた妻だった。



 友永たちが出てくるまで雅野はそれとなく館長室のほうを気にしながら仕事をしていたが、三十分ほどで友永と部下の女性が館長室から出てきた。意外と早い帰りだったが、雅野が見送りの意味で受付の中で立ち上がると友永が足を止めた。
「ではまた明日、参ります。よろしくお願いしますね」
 そう言って雅野を見たが、友永の着ているスーツは申し分なく上質なものでスレンダーな体格に良く似合っていた。肩までのストレートの髪は一筋も乱れがないのに整い過ぎている不自然さも感じさせない。そのうえいやに落ちついた自信を秘めているかのような目で見られている。信大と同じくらいの年齢だから雅野よりはずっと年上で、だからそういうふうに見るのかもしれないが、雅野は居心地の悪さを感じてしまった。それでも明日も来ると言った友永に了承の意味で小さくお辞儀をしたが、友永の視線は雅野から離れなかった。
「今日はありがとうございました」
 後から出てきた信大が受付の横に立って言うと、友永はさりげなく雅野から視線をはずして信大に短い挨拶をして美術館から出て行った。雅野もまたお辞儀をしただけで、信大はといえばすぐに研究室へ戻ってしまい佐倉が帰る時間になるまで研究室から出てこなかった。

 閉館時間が過ぎて雅野たちが受付を片付け終わると事務室では信大がいつも通りに仕事をしていた。
「お疲れさまでした。お先に失礼します」
 その後小泉が挨拶をしてひと足早く帰り、信大が館内の見回りに立ったが、雅野は毎日そうしているように自分のバッグとコートを持って事務室で待っていた。
「雅野さんもお疲れさまでした」
 信大がそう言いながら事務室へ入ってきたが、すでに帰る準備をして待っている雅野を見るとふっと笑顔になった。
「お疲れさまでした。あの……」
 雅野が信大の笑顔に少しだけ気持ちが楽になって話しかけようとしたが、言葉が続かなかった。
「そんな顔しなくても大丈夫ですよ。帰ってから話しましょう」
 そんな顔と言われて雅野はうつむいて口元に手をあてたが、信大はやさしく顔を覗き込むようにしてまたほほ笑んだ。
「帰りましょう」
 いつものやさしい信大の様子に雅野は頷いた。話したいこと、聞きたいことはあったが仕事場で話すことではない。すぐに雅野はコートを着て通用口へ向かった。

 コートを羽織った信大が来て雅野と一緒に通用口を出るとすべての錠が閉められてふたりは美術館前の道へと出た。信大の家までわずかな距離だったが真冬の夜は冷え込んでいて、雅野はあまりの寒さに首をすくめて信大の横を黙って歩いた。信大が家の錠を開けて一緒にドアの中へ入っても暖かさは感じられなかった。

「友永さんは」
 ふいに灯りもつけずに信大が言った。
「以前、結婚していた人です。元妻とでもいうのでしょうか」
 暗い中で雅野が黙って頷くと信大が向き直った。
「佐倉さんから聞きましたか」
「はい。すみません」
 雅野がまた頷くと信大は雅野の体へ腕をまわして引き寄せた。
「いや、いいのですよ。事実ですから」
 信大の唇が降りてきて雅野の頬へ触れた。コートを着ていても玄関の中は寒かったが雅野は身じろぎせずに抱かれていた。
「友永さんも……学芸員をされているのですね」
「そうですね。あの人が国立日本美術館にいるとは知りませんでした。離婚してからあの人に会うことはまったくなかったので」
 離婚してから会っていないという信大の言葉に雅野は少しほっとしながらも顔を上げた。見上げた信大の顔はどことなく疲れているようで、かすかにため息をついたようだった。
「できればあの人にはもう会いたくないと思っていたのですが……」

 信大が元妻のことをこんなふうに言うのは初めて聞いた。いままで信大は離婚したことは話してくれたが、理由は言わなかったし元妻である友永のことも言ったことはなかった。雅野にとっても自分から触れにくい事だし、聞きたい事でもなかった。

「でも友永さん、明日も来るって……」
 雅野がつい言うと信大は黙ってまた雅野の顔を引き寄せると胸へ抱いた。
「国立日本美術館の真野館長は僕の大学院のときの恩師なのです。真野先生も明日一緒に来られるというのならば断るわけにはいきません。真野先生にはこちらからお願いして来てもらいたいと思っていましたので」
 やはり仕事のことが関係している。雅野にしたら友永に会いたくなければ会わなければいいのにと言ってしまえれば簡単なのだが、信大はそうもいかないということだ。

「でも……」
 関係ないかもと少し迷って雅野は言った。
「友永さんの部下の人も来られるのでしょうか。あの人、特別展にいつも来ていた人みたいです。毎日のように来ていたふたり連れの女の人のひとりで」
「え、そうなのですか」
 信大は気がついていなかったのか少し驚いた声で答えた。
「服とか髪型はぜんぜん違いますけど、たぶん」
「ほかの美術館から見に来る人がいてもおかしくはありませんが……」
 信大はそう言うとしばらく考えていてなにも言わなかった。

「ああ、すみません、寒いですね。部屋へ入りましょう」
 いったん信大の雅野を抱く手が緩められてリビングへと入った。部屋の中は冷え切らない程度に空調で暖められていたが、信大がファンヒーターをつけてすぐに暖かさが増していく。
「国立日本美術館から研究の協力が得られるというのは光栄なのですが」
 ふたりで夕食の準備をしながら信大が淡々と話していく。
「友永さんは優秀な人なのですが、やはり僕にこの話を持ってきにくかったのかもしれません。代わりの人に様子を見させたのかもしれませんね」
「代わりの人……」
 雅野はそうかもしれないとは思った。昼間の友永の様子は落ちついていながらも仕事のできる人といった感じだった。信大が優秀だと言ったのもわかる気がする。いや、きっととても優秀なのだ。国立日本美術館の学芸課主任研究官という人だから。
 そんな人が信大さんの奥さんだったんだと思うとなんとなく気持ちが落ち着かない。

「信大さん、あの……」
 言いかけて雅野の息が飲み込まれた。
 友永の部下も気になる。でも雅野がわからないのは友永だ。今日もわたしのことを見ていたし……。

「雅野さん、座って」
 言いかけてやめた雅野を信大はリビングの雅野が気に入っている窓ぎわのソファーへと座らせるとすっと胸へ引き寄せた。
「友永さんのこと、心配ですか」
 ふるふると雅野は信大の腕の中で首を振った。
 信大が友永と会うのが嫌だと思うのは信大のことが好きすぎてそう思うのかもしれないが、自分でもよくわからない。
 ただ友永にも部下の人にも釈然としない気持ちがあってくすぶっている。
 そう、釈然としない……。

「心配しないで」
 なだめるように信大の唇が雅野に触れた。
「研究協力についてはまだ決まったことではないので明日また話を聞いて慎重に決めるようにします。だから雅野さんは心配しないで」
 雅野を安心させるようにゆっくりと信大が言いながらキスを繰り返した。雅野には直接関係ない仕事のことをここまで言ってくれるのはうれしいが、不安な気持ちがなくなったわけではない。けれどもやさしい信大の唇が触れるたびに少しずつ雅野の心が不安から逸らされていくようだった。

 信大さんがそう言ってくれるなら大丈夫。
 そう言い聞かせて雅野は信大のキスに目を閉じた。



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