六月のカエル 24


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 目次



 次の日、雅野は思っていた以上に落ちついて出勤することができた。もちろん信大の家から一緒に出勤したのだが、家を出る前に心配した信大が
「やはり今日は敬輔が来るのを断りましょうか」
 と聞いてくれたのだが、雅野は首を振った。
「大丈夫です。それに信大さんは今日も忙しそうですし」
「ですが」
 信大は案じたが、雅野は自分を励ますつもりでもう一度大丈夫だと言った。
 昨日はすっかり敬輔の言ったことにかき乱されてしまったが、信大に結婚を申し込まれたことでもう心配は消えてしまった。敬輔はわざと雅野の心を不安にさせるようなことを言っているだけ、それに乗せられてしまえば敬輔の底意地の悪さの思うツボだ。雅野が相手にしなければいい。以前敬輔に同じようなことを言われたときにもそう思ったではないか。
 雅野だって敬輔に会いたいわけではないが、実際のところ信大は今日も忙しい。派遣されて来る人が今日から来ることになっているし、午後には二度目のギャラリートークがあるから、敬輔に応援に来てもらわなければやはり困る。
「……そうですか。僕もできるなら敬輔にはもう来てもらいたくはないのですが、いたしかたありません。そのかわり敬輔にはきっちり話をしますので」
 信大がそう言ってくれたおかげ、というよりも昨夜信大が結婚を申し込んでくれたことで雅野の心は180度変わってしまっていた。

 信大の家を出る前にすっと信大の手が雅野の腰を引き寄せると待っていたように雅野の体が寄り添った。すぐにキスをして舌を絡めてお互いを吸い取るような口づけに変わり、雅野はうっとりと目を閉じて信大にもたれていた。
「ああ、またベッドへ戻りたくなってしまった」
 出勤前だというのに信大が雅野の耳にささやいて危うく雅野も同意してしまいそうになったほどだ。自分でも単純だと思えるほど心が上向いている。
「今日、仕事が終わったら着替えを取りに行って、また戻ってきてもいいですか……」
「僕が車で一緒に行きますよ。なんなら荷物全部運んでもいい」
「え、急にそれはちょっと無理というか」
 焦り気味に答えた雅野を見ている信大の目が笑っているのに気がついて雅野も笑ってしまった。もう一度キスをしてやっと体を離すことができたのだった。


 敬輔は相変わらず尊大な顔つきで事務室へと入ってきたが、信大が立って自分を待っているのを見てちょっと表情が変わった。
「北之原理事、仕事を始める前に話があります」
 さっきまでとはうって変わって信大の声は厳しく、自分のデスクの前に座っていた雅野も思わず立ち上がった。
「なんだ」
 立ち止った敬輔がじろりと信大を見たが、信大も冷静な表情を崩さない。
「昨日、雅野さんに失礼なことを言ったそうですね」
「失礼なこと? ああ、あれか」
 敬輔の言葉にわずかに馬鹿にしたような気配が浮かんだ。
「おまえが雅野ちゃんとつきあっていながらまだ結婚話もしていないということか? ったく、なにをぐずぐずしているんだか」
「大きなお世話です。個人的なことをあなたにどうこう言われたくない」
 声は大きくはないもののいつもと違う信大の口調に敬輔の目つきもきつくなっていて、一気に険悪になったふたりの間の空気に雅野はびくっとしてしまった。

「偉そうなことを言うな。いい大人が離婚したのをいつまでも引きずっていたのはおまえだろう。この美術館だって北之原家が道楽でやっているんじゃないんだ。おまえにいつまでも不幸ぶられていたら困るんだよ。さっさと結婚でもなんでもしろよ。雅野ちゃんならおまえだっていいと思っているんだろう」

 ……えっ?

 内心おろおろとしながら聞いていた雅野だったが、最後に敬輔が言ったことがどうも変な感じがして驚いてしまった。これでは敬輔が応援してくれているようではないか。
 信大の顔を思わず窺うと信大は険しい目で敬輔を見ていたが、やや声を抑えてまた言った。
「だからと言ってどうしてそういうことを僕でなくて雅野さんに言うのですか」
「はあー? これだから頭が良いだけのやつは困る」
 明らかに敬輔は信大を馬鹿にした口調だった。
「信大がつきあっている女がいるって聞いて見てみたら超がつくほどスタイルのいいかわいい子じゃないか。どうせ話すんなら雅野ちゃんに話したいだろ。おまえの好みがこういう子だったとは知らなかったけどな」
 しれっと言う敬輔を信大が睨んだが、敬輔はまったく動じない。
「だからそんなに話しかけられるのも嫌ならさっさと自分のものにして結婚すりゃいいだろうが。好きな女にもたもたしていて見ちゃいられねえ」

 いや、信大さんはもたもたなんてしていない。昨日だって……と、雅野が見ると、信大は静かな声に戻って言った。
「雅野さんにはきのう結婚を申し込みました。ですので、ご心配なく。それよりも雅野さんに失礼なことを言うなと言っているんです」
「へえー。あ、そう。そりゃ、よかったな。ともかく雅野ちゃんには悪かったよ。ごめん。ほら、謝ったからこれでいいだろ」
「本当に悪かったと思っているのですか」
 信大が言いかけたが、そのとき通用口のほうから来客を告げるインターフォンの音が聞こえてきた。
「あ、派遣のかたが来たようです。解錠しますか」
 インターフォンの画面を見て雅野が言うと信大は仕方がないというように息を吐いた。
「敬輔も今後は雅野さんに失礼のないようにしてください。通用口へは僕が行きます。雅野さんは開館の準備をお願いします」
「はい」
 答えたのは雅野だけで敬輔はそっぽを向いていたが、信大は苦い顔つきのまま通用口へと出ていった。

「ったく、うるさいやつだな」
 敬輔は信大の言ったことなど全然堪えてなく事務室の椅子にどっかと座った。開館準備を手伝う気はないらしいが、かといって気分を害して帰ってしまうということもないようだった。敬輔が休日返上で今日も応援に来てくれていることは確かだし、雅野は敬輔が自分のことを気に入らないのか、それとも下心があってなにかと言ってくるのかと思っていたが、そうではないらしかった。どちらかと言えば敬輔は信大との結婚を後押ししてくれたようにも思えた。
「どうぞ」
 雅野が給湯室へ行って淹れたお茶を敬輔の前に置くと、館内だというのにスマートフォンを見ていた敬輔が顔を向けてにっと笑った。
「おめでとう、雅野ちゃん。やっと信大にプロポーズされたみたいで」
 相変わらず楽しんでいるのか皮肉なのかわからないような言いかただったが、雅野は小さく頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございます」
「まあ、わかっていたけどね。信大がプロポーズしたらしいってことは」
 え、どうして? と雅野はきょとんとしてしまったが、敬輔はわざとらしくじろじろと雅野を見た。
「雅野ちゃん、着ているの昨日と同じ服。それなのにお肌つやつやのぴっかぴか。こりゃ信大とやったんだなって」
「や……!」
 言いかけて慌てて止めた雅野は息が詰まりそうなほど顔に血が上った。敬輔が服や肌のことまで見ていたとは思っていなかったし、信大と「やった」という意味はひとつしかない。
 昨夜は信大にプロポーズされて、うれしいのに涙が止まらなくてずっと泣いていた。泣き疲れていつのまにか眠ってしまったけれど、それでも信大はやさしく抱いていてくれた。ふたりでしばらく眠って、そして目が覚めたらどちらからともなく手足が絡んでキスをして、夜が明けるまで……、と一瞬にして思い出した雅野は真っ赤になりすぎて言い返す言葉も出てこない。

「図星だろ。それと化粧直したほうがいいよ。口紅が剥げている」
 口紅って、キスしたときの……! とあやうく叫んでしまいそうになったのを我慢してトイレに逃げ込みながら雅野は赤い頬を押さえた。さっきまで少し敬輔のことを見直した気持ちになっていたのに、恥ずかし過ぎてたまらない。
「もう、前言撤回!」
 撤回もなにも雅野は敬輔になにも言ってないのだが、節度のかけらもない敬輔の言葉に雅野はそう言うことでなんとか恥ずかしさを逃がそうとするしかなかった。


 人材派遣会社から派遣されてきた人はやはり以前に面接に来た人で、三十代の落ち着いた感じの人だった。銀行での勤務経験があり、派遣では美術館ではなかったが博物館での受け付けも経験がある人だった。
「そこでの仕事は入館料のやり取りだけでしたので」
 小泉というその人は控えめに言ったが、即戦力を必要としているいまの北之原美術館にとってはありがたい人材だった。
「午前中は事務室で小泉さんに仕事の説明をしてから、その後少しずつ受付の仕事に入ってもらいます。今日の受付は藤田さんと北之原理事にお願いしますので」
 信大が雅野たちに小泉を紹介したときにはもう雅野も顔も赤くはなく、敬輔も知らんふりをしていたが、信大はわざわざ敬輔のほうに向き直って言った。
「くれぐれも失礼なことがないようによろしくお願いします」
 小泉がいるので信大も誰にとは言わなかったが、敬輔に対する牽制だと雅野にもすぐにわかる口調だった。敬輔はふんと鼻を鳴らして答えなかったが、怒っている様子でもなかった。

 信大が無理にでも敬輔を帰らせなかったのは今日が日曜日でギャラリートークも行われることになっているからだったが、雅野も昨日よりも多い来館者を見て敬輔のことを気にしている暇はなくなっていた。それに敬輔は仕事になればきっちりと態度を使い分けて仕事のできる人間だというのは昨日の敬輔の仕事ぶりからわかっている。
 昨日のギャラリートークは好評らしく、口コミでも来館者を呼んでいるようだった。来館者が多くなる午後の時間には小泉が雅野の横について出来ることから仕事を手伝い始めたが、さすがに経験者だけあって飲み込みが早く、入館料のやり取りだけならすぐにも任せられそうだった。しかし今日は来館者が多いこともあって雅野と敬輔がおもになって受付を行っていたが、昨日に比べれば仕事は格段にスムーズに流れていた。

「あー、やっと終わったな」
 閉館時間が来て入口が閉められると事務室に戻ってきた敬輔がさすがに疲れた様子で椅子に座りこんだ。
「お疲れさまでした。お茶をお持ちしましょうか」
 午後はほとんど休憩もなく出ずっぱりでいたのは雅野も同じだったが、敬輔にお茶をと思った雅野に敬輔は手を振って要らないと答えた。
「いいよ。俺はすぐ帰る。信大、もういいだろう?」
「すみません、これにサインだけお願いします」
 信大が出した勤務表に敬輔は自分のペンでサインをするとぶっきらぼうに信大へと差し出した。
「理事のおかげでなんとか土日を乗り切れました。ありがとうございました」
 いろいろあってもそこはやはり礼儀正しい信大で、敬輔にきっちりと礼を言うと頭を下げた。
「あたりまえだ。以後はこういうことはないようにしろ」
 敬輔の決めつけ口調にはどうかと思ったが、言っていることは間違っていなかったので、雅野もさっさと立ち上がって帰ろうとしている敬輔に礼を言った。
「ありがとうございました」
 通用口を出ようとしていた敬輔は振り返って送りに来た信大と雅野を尊大に見たがなにも言わなかった。美術館の玄関には敬輔の迎えに車が来ており、そういうところはやはり興北商事の専務であり北之原家の御曹司だった。

 敬輔さんてよくわからない。
 敬輔の乗った車を見送りながら雅野にとっては相変わらず敬輔はよくわからない人間だったが、ともかく今日の仕事は終わった。通用口のドアが閉まってもぼんやりしていた雅野に信大が促すように声をかけた。
「あとの仕事を片付けてしまいましょう。それから良い知らせがあるんですよ」
 良い知らせ? と目を上げた雅野に信大がやはり緊張の解けた顔でほほ笑んだ。
「さっき佐倉さんから電話があって、ご主人が今日退院したそうです。思っていたより悪くなく退院できたそうですよ。ご主人の様子も落ちついているので、一週間ほどしたらまた出勤できるそうです」
「え! 本当ですか。良かった、佐倉さんのご主人あまりお悪くなくて……」
 雅野も心配になっていたところだったのでうれしくなって信大に飛びつきそうになったが、ここはまだ職場だ。
「じゃ、すぐに仕事を片付けます」
「僕も小泉さんにセキュリティのことを説明してそれで終わりです」
 にこりと笑った信大の顔もうれしそうだった。こんなにうれしそうな信大さんの顔は久しぶり。そう思った雅野も顔が緩むのが止められなかった。
 このところずっと忙しかったけれど、来てくれた小泉さんもしっかりした良い人だし、佐倉さんも来週には来てくれる。あとは仕事を片付けて、そうしたら信大さんと車で荷物を取りに一緒に行って、そしたら、そしたら……。







 もう指一本動かしたくないくらいに疲れているのに雅野の体の中は熱く火照っている。信大のものに占められて、ぐずぐずに溶かされているのに奥を擦る信大の動きにまたひくついていた。
「は……」
 声とともに吐き出された信大の熱い吐息が胸の先端へ吹きかけられて、そのたびに雅野の腰が反り返って中の信大を締め付けてしまう。反った腰の下に入れられた信大の手に支えられて雅野の胸が信大の唇に触れそうなほど高く突き出されて腰を動かすたびに丸い乳房がゆらゆらと揺れている。中を突かれながら胸の先端をかすめる信大の息に雅野は自分から腰を動かしながら信大の顔を引き寄せた。引き寄せられた信大が片方の乳首に吸い付いてきゅっと吸いあげる快感に雅野の腰が跳ね上がって中にいる信大を突いた。
「あっ、ああっ」
 自分で何度も信大を突きながら声が漏れてしまう。中にいる信大の硬さがたまらないほど感じられて雅野の中も熱い。腰を動かすたびに聞こえてくる水音さえも熱く感じる。 
「は、あっ、は、あっ、あっ……!」
 乳首を吸いながらもう片方の乳房を指で揉む信大の無言の愛撫に雅野の声がこぼれて止まない。ベッドの上からは雅野の喘ぎと、硬い乳首を口づけで吸い上げる信大の唇から洩れる小さな音と、ふたりの繋がったところから溢れる水音が何度も続く。
 ひときわ高い声で雅野が喘ぎ、ふるふるっと全身を震わせてもなおも信大は硬く保ち続けて、暗い部屋の中も雅野の中も、濡れた音で満ちていた。

「もう……?」
 無理かと問う意味で信大に聞かれたが雅野はベッドに横たわったまま首を振った。
 なんど上り詰めたかわからない。信大も何度か達してそのたびに避妊具を取り換えていたが、また新たな避妊具をつけながら雅野にほほ笑みかけた。そして開いている雅野の足のあいだへするりと手を入れると、もう何度も快感を与えられて赤く膨らんでいる雅野の小さな突起がやさしくなでられて、それだけでまた潤みが溢れてきて難なく信大を受け入れてしまった。
「ずっと……、ずっと抱いていて……」
 深く繋がりながらも雅野の額にやさしいキスを落とした信大に、明日が仕事だということも忘れて雅野が言うと信大がほほ笑みながら頷いた。体を繋げたまま、何度言っても言い足りないかのように雅野が手を伸ばすと、信大はその手を取って甲に唇をつけた。
 信大は雅野の手を取ったままの姿勢で、ぴたりと合わせたふたりの接点を押しつけるようにして雅野の突起を刺激し始めた。信大のゆっくりとしているのに押しつけてくる動きはいままでの愛撫に痺れた突起にさらに鈍い快感が与えられてもどかしいほどゆっくりと雅野の中がせり上がってくる。もっと、と求めるように雅野の中心が開かれて腰が持ち上げられていた。
「雅野さん、もっと?」
 ゆるゆると雅野を突きながら信大が尋ねても雅野は頷くだけで返事もできなかったが、見おろしている信大は悦んでいるような、それでいて切ないような顔で、くいっと雅野の中を突き上げてきた。
「ああっ」
 悲鳴のような声が出てしまい、腰を動かすこともできなくなった雅野は手足から力が抜けてしまったが、信大を包む内部だけはひくひくとうごめき続けて止まらない。
 あきらかに信大は雅野の本能に火をつけて、一度ついた火をさらにかきたてている。そして、もがくように快感にあえぐ雅野に恥ずかしさを感じさせないくらい信大もまた貪欲に求めていた。

 ずっと、ずっと。
 ずっとこのままで。

 すべてを吐き出した信大を胸に抱きながら雅野はくっついてくるまぶたの内側で夢のように繰り返していた。

 ずっと一緒にいたい。
 信大さんと離れるなんて、もうできない、と……。



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