六月のカエル 23


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 目次



 書類を片手に信大が事務室に戻ってきたときにも雅野はまだ立ち尽くしたままだった。
「藤田さん、明日から派遣の人に来てもらうことになりましたので、……雅野さん?」
 返事をしない雅野に信大は立ち止って事務室の中を見回した。
「敬輔は?」
「あの、帰るからと言われて、先ほど」
「帰ったのですか」
「はい」
 そう言うしかなくて雅野は返事をしたが、信大はちょっと目を細めて雅野を見た。
「なにかあったのですか」

 なにか答えなければ。無難な答えを、と頭の中でいろいろ考えるのだが、敬輔に言われたことに動揺してすぐには答えられない。
「いいえ……なんでもありません、飲みに行かないかと言われてお断りしただけですから」
 雅野がなんとか答えると信大が黙って考えているような顔をしていた。
「あの、事務の片付けは終わりました。ほかになにかお手伝いすることがなければ今日は帰ってもいいでしょうか」
 自分でもわけのわからない、いたたまれないような気持ちになってしまい、信大の返事を待たずに雅野はロッカー室へ自分のバッグを取りに入った。
「どうしたんです」
 廊下に出ると信大が待っていたが、なぜか目を合わせられない。
「お先に失礼します」
 信大が近づくより早く通用口から外へ出た。
「雅野さん!」
 信大の声が後ろから聞こえたがすぐに追って来ることはできない。美術館を施錠もせずに無人にすることはできないからで、この隙を狙って雅野は足早に門を出て電車の駅へと向かった。速足で歩いたからいつもより短い時間で駅に着いてしまったが、すぐに電車に乗る気にはなれず駅の前では深呼吸して息を落ちつけると線路を越えた駅の向こう側へと歩きだした。踏切を越えた先には大きな通りがあって飲食店やコンビニもあるのだが、歩いているうちにだんだんと疲れてきてとうとう雅野は立ち止った。パンプスの足先は寒いのにコートを着た服の中では心臓がどきどきしている。

「なにやってんだろう、わたし……」
 立ち止ったまま雅野は小さな声でつぶやいた。
 まるで信大から逃げ出すように来てしまった。べつに逃げる理由なんてないのに……、と考えて雅野はため息をついた。

 信大さんはわたしのことをどんなふうに思っているのだろう。好き、というだけでなくて……。

 結婚ということを雅野も考えないではなかった。だが、なんとなく深く考えたくなくて、まだ付き合って半年だし、信大さんも忙しいし、とそんなふうに考えて深入りするのを無意識に避けていたのかもしれない。信大の愛撫に夢中になって、いつも抱き合う時間を優先してしまった。雅野は信大が好きだったから信大に抱かれていれば幸せでそれ以上望む暇もないくらいだった。だけど、信大さんは……。

 そこまで考えてまた雅野は立ち止った。
 敬輔がどうしてあんなことばかり言うのかちっともわからない。だけど、今日敬輔の言ったことは揺さぶられる以上にショックだった。信大に遊ばれているなんて、そんなことはないと否定しているのに心が揺れている。

 歩道に立ち止ったままの雅野のバッグの中でスマートフォンが着信を知らせていた。きっと信大さんからだと思ったが、雅野はスマートフォンは見ずに美術館へと戻る道を歩き出した。





 北之原美術館はすでに門が閉められていた。街灯だけに照らされる美術館の前を通り過ぎて曲がるとその先にある信大の家は中も外も暗かったが、雅野は歩き続けて玄関の前に立った。
 暗い中でスマートフォンを取り出そうとしていると不意に家の横で車のドアの開く音がした。ドアが閉められ、直後に車のエンジンをかける音とヘッドライトがつけられて雅野が車のほうを向くとフロントガラスの中に驚いた顔の信大がいた。まぶしいライトの光に照らされた雅野は動けずにいたが、すぐにライトが消されて信大が車から降りてきた。

「雅野さん」
 大股で近づいてくる信大は美術館にいたときのスーツのままでコートも着ていなかった。
「今から雅野さんの家へ行こうと……いや、帰っていなかったのですか」
 急いでいたせいか信大の声がいつもより大きい。
「いったいどうしたのです。あんなふうに急に帰られてしまったら……」
 急に信大の声が止まったが、玄関の前で雅野は黙ってじっと信大を見上げていた。向き合ったふたりの吐く息だけが白い。
「信大さん」
 ようやく雅野から声が出た。

「わたしのこと、遊びじゃ……ないんですよね」
 絞り出すような雅野の声に信大の表情が驚いて変わった。
「なにを言っているんですか。どうしてそんなことを」
 聞き返してきた信大に自分が責められているわけではないのに雅野はうつむいてしまった。
「だって……、わたしはヤルだけの女だって言われて……、自分では気がついていなくて……」

 前の男に都合良く体だけを抱かれていたのに気がついていなかった。つきあっているのだと思っていたのは自分だけで、男は知らない間に他の女と結婚を決めていた。雅野の立場などないばかりか、まわりの人たちからまぬけな女と思われていたと知って会社を辞めた。それからひどく落ち込んでそこから抜け出せなかったが、信大と会ってようやく元に戻れたと思っていたのに……。

「今度は信大さんに体だけで……遊ばれていたら……わたしは……」
 夜の寒さのせいだけではない震えに雅野の吐く息が小刻みに揺れていた。いまにも声が途切れそうだったが、それなのに話すのを止められない。 「信大さんは……、わたしのことを……」  必死の思いでまた信大を見上げたそのときに信大の顔が目の前に近づいた。 「敬輔がなにを言ったか知らないが、雅野さんにそんなことを言わせてしまうなんて俺は相当な馬鹿だ」  信大の唇が触れそうなほど近づいて思わず雅野は顔をあげたが、信大の目元はどこか苦しげに歪められていて雅野ははっと我に返った。
「遊びなわけがない。特別展が終わったら一緒に住んで欲しいと、そして雅野さんがよければ結婚して欲しいと言おうと思っていたのです」

 えっ……、と雅野の息が詰められた。
 信大を見上げるもののまったく声が出ない。
 さっきまで信大に遊ばれているのではないか、もしそうだったらもう二度と立ち直れないと思っていたのに、結婚と言われるのは予想以上のことだった。
 なにも答えることができずにいるうちに雅野の体が震えだした。寒さと緊張とで強張った体が震えて足がガクガクしている。
「あぶない」
 雅野がふらつくよりも早く信大の腕が回された。コートの上から抱かれて体から力が抜けてしまいそうになったが、信大はしっかりと雅野を抱きしめて支えていた。
「信大さん……」
 雅野が小さな声で信大の名を呼んだが、やはり足に力が入らない。信大を見上げて茫然とするばかりだ。
「家へ入りましょう」
 もうそうすることしかできなかったが、体を抱かれたまま雅野はなんとか足を動かして信大の家へ入った。



 家の中はいつもと同じく空調が効いていて暖かかく、信大とともに雅野がリビングのソファーにへたり込むように座ると、となりに座った信大がコートを着たままの雅野を引き寄せた。
「冷たい。冷え切っている」
 ずっと外にいたせいで冷えてしまっていた雅野の髪に唇をつけながら信大が言ったが雅野は頷くだけで精一杯だった。
「風呂に入る? そのほうが温まるから」
 信大が立ちあがろうとしたのを雅野は体を擦り寄せて止めた。
「こ……、ここにいて……」
 答えずに信大は向き直ると今度はしっかりと雅野の体を抱いた。信大の胸に顔がつけられて唇が降りてくる。顔を下げた信大の唇が雅野の頬に、そして唇へと触れた。入り込んだ舌は雅野の口の中を探ったが、すぐに雅野を苦しくさせないやさしいキスへ変わっていく。何度か角度を変えながら、やわらかく唇を食む信大の唇は温かくて、雅野にも伝わってくるようだった。
 だんだんと温かさを取り戻してきた雅野の体が少しずつ緩んでいく。それを待っているかのようにキスは繰り返され、ようやく信大の唇が離れたときには雅野の震えはおさまっていた。

「少しは落ちついた?」
 こくりと雅野は頷いた。
「さっきは変なこと言って……ごめんなさい」
「どうして謝るの。不安にさせたのは僕のほうなのに」
 違う、と雅野は首を振った。敬輔に言われてすっかりかき乱されてしまったのは信大のせいではない。
「信大さんのしていることは遊びだって言われて、そんなことしないってわかっていたはずなのに、不安になってしまって……」
「それは敬輔が?」
 言われて雅野はかすかに頷いた。もう隠しておくこともできない。
「信大さんとは……結婚の話はもう出ているのかって聞かれて……。将来の話もしないならわたしと遊んでいるだけなんじゃないかって……。それを聞いたら、わたし……」
 思い出しただけで雅野の体がかすかに震えた。

「……なんてことを言うんだ、あいつは」
 信大の声に怒りが混じった。以前、男に体だけで遊ばれたことのある雅野には最も嫌なことを言われたのだと信大にもわかる。
「敬輔には僕から言っておきます。だけど雅野さんにこんな思いをさせてしまうなんて。謝るのは僕のほうです」
 信大に謝られてしまい、雅野は胸がいっぱいになって目を伏せてしまったが、頬へ信大の唇が当てられた。そっと唇で雅野の顔を上げさせながら信大が言った。
「一緒に住んで欲しいと言おうとずっと前から考えていたのに、忙しさにかまけて言えなかった。いや、忙しいだけじゃなくて、特別展を無事に終えて区切りをつけて雅野さんに結婚を申し込もうと僕は思っていた」
 結婚を申し込むと言った信大の言葉に雅野の心臓の鼓動がとくんと跳ね上がった。
「雅野さんが不安になることも考えなかった。許してください」
 信大は顔を離すと雅野と顔を向き合わせた。
「改めて言います。雅野さん、僕と結婚してください」

 信大から結婚を申し込まれたというのに雅野は信大の顔を見るだけでひと言も出ない。信大はいつものやさしい顔つきで雅野を見ていたが、やがて雅野の頬へぽろりと涙が流れた。
「わたしで……、わたしなんかでいいんでしょうか……」
「それを言うなら僕も同じですよ。僕みたいなバツイチでは雅野さんのご両親に許してもらえるかどうかわからない。歳も離れているし、職はあるけれど離婚したときに貯金やなんかをみんな渡してしまったから財産らしいものもほとんどない。そんな男でいいのかと」
「そんなこと……!」
 言いかけて雅野は思わず体を起こした。
「財産なんてそんなこと、考えたことなかったです……」
 好きな人がいるなら当然そういうことは考えることなのだろうが、正直言って雅野はそこまで考えたことがなかった。そういうところがあるからのんびりしているとか頼りないと言われるのに、また迂闊なことをしてしまったのだろうかと思いかけたが、信大がにこりと笑って雅野の唇にキスをした。

「雅野さんならそう言うんじゃないかと思っていました。そういう雅野さんが好きだ。愛している」
 信大の唇がふたたび雅野の唇を覆う。雅野の唇が開くとさらにキスが深くなったが、信大はキスを続けながら話していく。

「特別展が終わったら雅野さんのご両親に会いに行きましょう」
「はい……」
「あとでこの家の鍵を渡します。いつでも雅野さんに来てもらえるように。でも今夜は泊っていってください」
「はい……」

 キスの合い間に雅野も答えながらなぜか涙があふれてきてしまう。うれしいのに、信大に結婚を申し込まれてこれ以上ないくらいうれしいのに、なぜか涙が止まらない。自分でも泣いているのか嬉しいのかわからなくなってきてしまったが、それでも涙は止まらない。

 愛している。
 そう言った信大に雅野も答えたかったのに涙は流れ続けていた。雅野が子どものようにしゃくりあげる横で信大はほほ笑むように雅野の体を抱いていたのだった。



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