六月のカエル 22


22

 目次



 どうしてあの人なの……。

 次の日に出勤するまで何度心の中で言ったかしれない。
 前日に信大から応援に来てくれるのが北之原敬輔だと聞かされてから雅野が考えるのはそのことばかりだった。



「北之原美術館ではセキュリティ上、簡単にアルバイトの人を入れるわけにいかないのです。その点、敬輔はここの財団の理事のひとりですから」
 雅野も信大の言うセキュリティのことはわかっているのにいつのまにか信大を恨めしげな目で見てしまっていた。
「ほかに頼める人がいないのです。雅野さん、どうかわかってください。僕も館外に出てしまうわけではありませんから」
 雅野が納得できないでいるのを察して信大は言ったが、雅野はもやもや以上の気持ちだった。
 敬輔から信大がEDだと言われたことは信大に話していなかった。事実だとは思えなかったし、話せる内容でもない。
 雅野が敬輔を避けたい気持ちは信大も気がついているだろうが、でもほかに頼める人がいないというのも事実だろう。なんといっても敬輔は信大とはいとこ同士だ。緊急事態の今、頼れるのは身内だけということだ。
「は……い、がんばります」
 雅野は最後にはそう言ってしまったのだった。



 土曜日の午前中に来た北之原敬輔はあいかわらずの遠慮のなさで事務室まで入ってきた。
「よろしく、雅野ちゃん」
 またちゃん付けで呼ばれたが、雅野はそれは気にしないことにして挨拶をした。
「人が足りないんだって? それで雅野ちゃんも疲れた顔しているんだ」
 敬輔が雅野に対してずけずけと話すのは以前と変わらなかったが、疲れた顔をしていると言われて雅野は表情を引き締め直した。今日の敬輔は仕事用の服とはとても思えない茶と紺青の濃いストライプのシャツを紺のジャケットの中に着ていたが、こんな敬輔に疲れた顔をしているとは言われたくない。

「北之原理事、本日はご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」
 信大がきっちりとあいさつするのを敬輔は黙って聞いていたが信大が用意していた身分証を受け取ると慣れた手つきで首へ下げた。 
「開館前に受付の説明をしておきます」
「ああ」
 敬輔の返事はぶっきらぼうで雅野は一瞬ひやりとしたが、信大が説明を始めると意外にもおとなしく聞いていた。カウンター内のレジの扱いかたも顔を下げてじっと見入っていて、信大からおおよそのことを説明されるとすぐに「わかった」と言った。
「では開館時間ですので、入口を開けます」
 え、それだけで大丈夫なの、と雅野は思ったが信大は時間が来ていたので入り口を開けに行ってしまった。

「座って」
 敬輔に言われて雅野は受付の席に座ったが、敬輔は椅子を引いて少し後ろに座った。
 受付は雅野の仕事だから自分がやるのはいいのだが、後ろから敬輔に見られているのが以前にもじろじろと胸を見られたことがあるだけにどうにも居心地が悪い。尊大そうな敬輔の雰囲気はまったく受付に似合ってなくて、雅野は奥の事務室のデスクにでもいてくれたほうがいいのにと心ひそかに思ってしまった。もっともすぐに受付に来館者が続き始めて雅野はそんなことを考えている暇もなくなって仕事をしていたが、しばらくして客が途切れると不意に敬輔が立ち上がって雅野の横に来ると無言で手を横へ振った。
「……はい?」
 それが席を替われと合図されているのだとわからなくて雅野は聞き返してしまった。
「俺がやるから席を替われよ」
「は、はい」
 雅野を立たせると敬輔は受付に座り、自然と雅野が控えの位置になったのだが、敬輔は次の客が来たときに戸惑うことなく入館料のやり取りを始めた。愛想がいいとまではいかないものの難なく客との対応をしている敬輔が意外過ぎて雅野は驚いてしまった。応援とはいえ本当に敬輔が受付業務をするとは思っていなかったのだ。とはいえ驚いてばかりもいられず、客に渡すリーフレットやつり銭用のトレイを敬輔が探すしぐさをするとすかさず差し出してフォローしたが、敬輔の仕事ぶりは堂に入っていて、とても初めてやる仕事とは思えなかった。

(この人、こういう仕事もできる人なんだ……)

 敬輔は北興商事では社長の息子で専務だというからきっと事務や受付の仕事などやったことがないのでは、と雅野は思っていた。なんだか違うみたいと思いながらまじまじと見ていたら、敬輔がドヤ顔みたいな顔をして雅野を見たので慌てて目を反らした。
 その後、信大が準備の合間に受付に来て、なにかわからないことはありますかと聞いても敬輔は「ない」と素っ気なく答えた。
「お前は準備で忙しいんだろう。こっちは任せてさっさとやれ」
 相変わらずの敬輔の遠慮のない物言いに信大が眉をひそめたが、敬輔の言うことはずれてはいない。
「では、お願いします」
 信大は言ってから雅野を見たが、雅野はなんとか頷いて信大を見送った。

「……ったく、信用ねえな」
 信大が行ってしまうと敬輔は受付だということもかまわずに文句を言ったが、信大が心配するのも無理はないのでは、と雅野は後ろで考えていた。それがわかったのか敬輔は振り返るとじっと雅野の顔を見た。
「雅野ちゃんだって、しっかり仕事しているのにね」
 え? と思い雅野が敬輔を見ると敬輔はにやっと笑ったが、雅野がなにかを言う前に客が来てしまい、敬輔はもう知らんふりをしていた。

 午後になるとギャラリートークの時間に合わせて入館客が多くなり始め、ホールには入館する客とギャラリートークの開始を待つ客とがいて、受付の前にも列ができていた。やはり今日も女性客が多く、賑やかなのはいいのだがいつもより話し声が多く、そのせいでより混んでいるように見える。
 このままだとホール全体が人で混んでしまう、どうしようと雅野が思い始めたところで、列に並んでいた男性客から声がかかった。
「ギャラリートークは何時からですか」
 前の客と入館料のやり取りをしていた雅野はすぐには答えられず、「少しお待ちください」と言ったが、今度は後ろのほうの女性客が言った。
「早くしないと間に合わないんじゃないの」
 受付が進まないのを非難しているかのような声が聞こえ、それを合図にしたように客たちがざわめき始めた。
 あ、これは、と雅野は焦りかけたが、そのとき敬輔が立ち上がって受付のカウンターを出た。

「ギャラリートークをお待ちのお客様はホールのこちらでお待ちください」
 え、なに? と雅野が思ったのを尻目に敬輔は客たちに案内を始めた。
「入館チケットをお求めのお客様はこちらにお並びください」
 さらには受付のまわりにいる客たちの誘導も行って、受付前の客たちの流れを作っていく。派手なシャツに身分証を首からさげた敬輔にはまわりを圧するような迫力があるせいか客たちが静かに従っていた。少し遅れて信大が展示室の入り口で案内を始めると待っていた客たちが展示室へ入り始め、入館料を受け取る雅野の仕事もスムーズに流れるようになっていた。

「あの、ありがとうございました」
 受付の前へ戻ってきた敬輔に雅野は小さな声で礼を言った。
「ああ」
 敬輔は短く答えただけだったが、雅野が前へ向き直ったそのときに敬輔の背後に客が近づいた。
「すみません、ギャラリートークはまだ入ることができますか」
 その客を見て思わず雅野の息が止まりそうになった。ふたりの髪の長い女性客はこのところ毎日来ているあのふたり連れだった。
「ちょうど開始時間ですので大丈夫です。こちらへどうぞ」
 振り返った敬輔がいかにも営業用の言葉で答えて、雅野はいつもと同じ対応を心掛けながらふたりから入館料を受け取ってチケットを渡した。成り行き上ふたりの女性客を敬輔が展示室の入り口へと案内したが、展示室の入り口には中へ入りきれない客たちが何人も立っていて、ふたりの女性客もその最後尾に付く形で並んだ。
 やがて信大が展示室の中で話し始めた声が聞こえてきた。受付からは展示室の入り口付近しか見えないが、マイクを使った信大の声だけがかすかに聞こえてくる。先ほどとは打って変わり波が引くように客がいなくなったホールの端の受付から雅野は展示室の入り口を見ていたが、前方の客たちが進んでもふたりの女性客はなかなか中へ入ろうとしなかった。いつまでも入り口付近にいる髪の長いふたりの後ろ姿を敬輔も見ていた。



 今日はなんとか終わった、と雅野は受付を片付けながらため息がでそうになったのを我慢した。まだ事務室に敬輔がいる。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
 受付の片付けは雅野に任せて敬輔はさっきから事務室の椅子に足を投げ出して座っていた。手には事務室に置いてあった書類を持って見ていて、信大に無断でそんなことをしていいのかと思ったが、敬輔はぽんと書類をデスクの上に置いた。
「雅野ちゃん、仕事が終わったら飲みに行かない?」
「すみません、まだ仕事がありますので」
「そう言うと思った。まじめだねえ」
 冷やかすように敬輔が言ったが、口実でもなにもない。閉館しても雅野には事務の仕事が残っていた。
「信大のせいで雅野ちゃんまで忙しいのにね。俺なんか土日返上だよ。この前の『ミュージアム逍遥』だっけ、信大がテレビに出てからいろいろなところで騒がれているの、雅野ちゃんは知っている?」
「あ……、はい」
 敬輔もSNS上で言われていることを知っているらしく、戸惑いながらも雅野は頷いた。
「今日のギャラリートークっていうのもしゃべっているだけかと思ったら結構人気あるんだな。ここにあんなに客が来たのは初めて見た。ところで、ギャラリートークのときにいたあのふたり組の女の子たち」
 敬輔に言われて雅野はどきっとした。

「あの子たちって信大の追っかけ?」
 さすがというか敬輔は鋭い。雅野が思っていたことをずばりと口に出して言われてしまったが、なんとか平静を保って首を少し傾げて考えるふりをした。 
「どうしてそう思うんですか」
「見りゃわかるでしょ。あの子たち展示品はほとんど見てなかったしね。見ていたのは信大ばかりだろ」

 そうかもしれませんが……と口の中だけで雅野はもごもご言ったが、そんな雅野を敬輔は面白がるような目つきで見ていた。
「ふーん、それで雅野ちゃんは面白くないんだ。そりゃそうだよねえ」
「そ、そんなことありません」
「べつに無理しなくていいよ。あんたたちがつきあっているのは俺も知っているんだから」
 相変わらず、ずけずけという敬輔に雅野が否定しても通じない。
「信大とはもう結婚とかそういう話になってるの?」
「……え」
 敬輔はいかにも軽そうに聞いてきたが、結婚という言葉に雅野は目を見張った。
「へえ、結構前からつきあっているのに信大はそういうこと、なにも言わないわけ?」
 前からっていってもまだ……と言い訳みたいなことを雅野は考えたが、敬輔はあきれたように言った。
「でも普通は言うでしょ。べつに不倫しているわけじゃないし。将来のこととか、それもなし? まったく?」
「あの、でも……」
 口ごもったが反論できない。
 確かに信大とはお互いに好きだという気持ちは確かめあって、信大も一緒にいたいと言っているが、それ以上のことを言われたことはない。合えばいつも抱き合うのに夢中でそこまで話したことはなかったが、雅野も考えたことがないわけではない。

 雅野を見る敬輔の目つきがどこか皮肉なものに変わった。
「信大もなに考えているんだか。それじゃ雅野ちゃんと遊んでいるだけなのにね」
 遊んでいるなんて雅野はそんなふうに感じたことは一度もない。それに敬輔にそんなことを言われる筋合もない。
「そんなことないです。信大さんは真面目でやさしいです。今はただ……」
 仕事が忙しいだけ、と言いかけた雅野に敬輔はふんと鼻を鳴らした。
「あいつ、やさしいのはいいけど、やさしすぎるってやつだよ。だからEDなんかになるんだよ」
「信大さんは、い……EDなんかじゃありません」
「ははあ、雅野ちゃんが一番よくわかっているってわけか。でも信大がEDだったということは本当だよ。あいつが離婚したときにはね」
 えっと雅野は息を飲んだ。
「嫁さんとは大学院のときからつきあっていたのに、結婚したらEDになったなんて嫁さんだって納得しないよね。だから離婚のときは結構揉めたんだよ。離婚調停までなってさ」
「嘘……、嘘言わないでください」
 耳を塞ぎたくなるような思いで雅野はやっと言った。
 信大さんはEDなんかじゃない、それにそんなことはなにひとつ聞いていない。
「嘘じゃないよ。こんなこと身内でなきゃ知らないでしょ」
 …………

 なにも言えなくなってしまった雅野は馬鹿みたいに敬輔の顔を見るばかりだった。頭の中には様々なことが渦巻いているのに、でも言えない。
「じゃあ俺は帰るから。明日もよろしく」
 敬輔は立ちあがると茫然としたままの雅野にそう言って事務室から出ていってしまった。



   目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2016 Minari Shizuhara all rights reserved.