六月のカエル 21


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「――そうですか。はい、それでは今日から当分は休んでください。ええ、大丈夫ですよ。なにかあったら連絡してもらえますか。こちらのことは心配せずに。佐倉さんもお気をつけて」
 
 誰からの電話だろうかと雅野は不安な思いで信大が話すのを聞いていたが、最後に佐倉の名前が出たところでまた驚いてしまった。

「佐倉さん、入院されたのですか。どうして……」
「いや、入院したのは佐倉さんのご主人です」
 通話を終えるのを待って尋ねると、信大は携帯電話を枕の横へ置いてからベッドに座り直した。
「え、でも、佐倉さんのご主人はきのう検診に行かれたのでは」
 雅野も佐倉の夫が数年前から療養中で、都内の大学病院へ通院するときはいつも佐倉が付き添っていることは知っている。昨日は佐倉の夫の月に一度の検診日で佐倉も仕事を休んでいた。

「検診のために病院へ行ったときは良かったそうですが、帰ってきてから具合が悪くなったそうです。夜遅くに救急外来で受診をして、そのまま入院ということになったので佐倉さんも病院から電話でした」
「そうなんですか……」
 なんと言っていいのかわからず雅野は信大の顔を見た。ベッドサイドに置かれた時計は朝の六時で部屋の中はまだ明るくなりかけだったが、信大がきびしい顔つきをしているのが見て取れた。
「今の時点ではまだはっきりとしませんが、佐倉さんには当分仕事は休んでもらうようにしました。無理をして出てこられても他のことが心配になりますから」
 信大はそう言ったが、それでは受付の仕事のほうはどうなるのだろうか。
「信大さん、明日からはギャラリートークがあるんですよね……」
 雅野が聞くと信大は黙って頷いた。
「今日は人材派遣会社からの人をひとり面接することになっていますが、これは延ばすわけにいかないので、なるべく時間をかけないようにしてなんとかしましょう。それから今日中に明日以降の人手をなんとかしないと」
 信大の口調は落ち着いていたが、それによってはギャラリートークができるかどうかもわからなくなる。

 ギャラリートークは学芸員である信大によって展示品の解説がされるという特別展に合わせた企画だった。信大の『ミュージアム逍遥』への出演も元はといえばその前準備を兼ねたもので、ギャラリートークを模した番組は多くの来館者に来てもらうための宣伝にもなると思って信大もテレビ出演したのだ。いわば北之原美術館で行われるギャラリートークのほうが本番で、信大にとっても重要な仕事だった。
 当然、ギャラリートークの最中と前後の時間は信大がかかりきりになる。ギャラリートークが行われる土日は来館者も多いときだ。ひとりで受付を行うことを考えるとかなり大変そうで、雅野は寒気を感じてふるっと震えてしまったが、それに気がついた信大が雅野の肩に腕を回して引き寄せた。

「寒い?」
 信大に肩を抱かれて雅野はこくりと頷いた。早朝にパジャマでベッドに座っているだけではない寒さだった。これから先の事がわからない、その不安の寒さだった。寒くてたまらず、ぎゅっと信大に抱きついたが信大の着ているパジャマも冷えていた。
「冷たい……」
 信大の体がこんなに冷えているとは思わなかった。これじゃいけない、起きなければと雅野が顔をあげたが信大の腕は離れず、雅野を抱いたまま見ていた。うす暗い部屋の中で信大の目も暗く翳っていて良く見えない。動けないまま目を見張った雅野の額にこつんと信大の額がつけられた。
「……すみません、今回のことは僕の対応が遅かった。佐倉さんのことがなくても、もっと早く受付の人を増やすべきでした。雅野さんにもずっと必要以上に忙しい思いをさせている」
 額がつけられているために信大の顔は良く見えない。だが、信大の声はいつもよりくぐもって聞こえて、雅野は動けなかった。

「信大さん……」
 信大の腕の中は温かいのに、外気に触れているところがどんどん冷えていく。いつもなら雅野に寒い思いをさせないようにしてくれる信大だったが、今朝はなぜか動かない。
 こんな信大は初めてかもしれない。
 忙しくてもあまり弱音を吐かない信大だったが、昨夜は疲れたと言った。雅野にとっては素直にそう言ってくれたことが少しだけうれしかった。いつも雅野は信大に思いやられる一方でなにもできないけれど、信大がほかの人には見せない一部を見せてくれたように思えた。だからなにかを言うかわりに信大を思っている気持ちだけで雅野は信大の体を抱いていた。
 やがて信大の腕が緩んで雅野が顔を離すと、信大の唇が軽く雅野の唇に触れてキスを落としまた顔が離れると、もういつもの信大だった。やさしい目元がほほえんでいて雅野は内心ほっとした。これからやらなければならないことはたくさんある。それにはとりあえず服を着替えて出勤するしかない。





 美術館に着くと信大はすぐに今日以降の予定の調整に取り掛かった。雅野が受付の準備をして事務室に戻ると信大はちょうど電話を終えたところだった。
「藤田さん、今日の派遣の人の面接は予定通り行います。なるべく時間がかからないようにやるつもりですが」
 派遣の人には一日でも早く来てもらいたい状況になってしまったから、面接を行うことはいたしかたない。
「館長にも話をして応援に来てもらえる人を頼みました。今日は無理ですが、明日からは来てもらえそうですので、今日をなんとか乗り切りましょう」
 こんなにも早く応援の人が来ると聞いて雅野はぱっと心配が晴れた気持ちになってしまったが、信大が話すのを止めて雅野を見た。
「そこでですが、グッズの販売を今日からいったん中止にしたほうがいいと思うのですが」
 あ、と雅野は驚いたがすぐにわかった。
 来館者が急に増えて以来グッズもかなりな勢いで売れている。売れるのはいいのだが、どうしても販売に人手が取られてしまう。
「お客様には悪いですが、開館中の途中で販売が滞ってしまうより今日は始めから販売を中止したほうがいいでしょう。とりあえず当面はグッズ販売は中止ということで、余裕が出てきたらまた再開することにしましょう」
「はい、わかりました。すみません、ありがとうございます」
 余裕が出てきたら再開すると言ったのは信大の思いやりで、本当にそうなるかどうかはわからなかったが、雅野は礼を言った。グッズは好評だったが、受付業務とグッズの販売の両方をひとりで行うことは無理だった。販売を中止にするという信大の判断はもっともなことで、雅野も受け入れるしかなかった。



 グッズ販売は中止するという旨を書いた紙を受付に掲示してその日の仕事が始まったが、やはり今日も来館客は多そうだった。
 『ミュージアム逍遥』に出演してから信大には別のテレビ番組からも出演の依頼が来ていたが、美術関係ではなくワイドショー的な番組だったので断っていた。信大のメディア露出は『ミュージアム逍遥』に出演した一回だけなのだが、そのせいかどうかはわからないが客足は衰えることなく続いていた。
 しかし、客は多くても今日からは入館者の受付業務だけに集中できるから雅野も少し気持ちが楽になっていた。グッズ販売ができないのは残念だったが、やはり信大の判断は間違っていなかったと思った。

「面接は事務室でやりますので、なにかあったらすぐに声をかけてください」
 雅野がひとりなので、奥の館長室ではなく受付のすぐ後ろ側の事務室で面接を行うと言って信大が事務室へ入ったときも客の流れは断続的に続いていた。雅野も気を抜くことなく対応していたが、入ってきたふたりづれの女性客にはっと気がついた。髪の長いふたり連れの女性たちは昨日、ずっとホールにいたあの女性客たちだった。

 ほかの客たちに続いてそのふたり連れの女性たちも入館料を支払い、チケットを受け取ると展示室へ向かった。雅野は平静に対応していたが、五分もたたないうちにふたりの女性客が展示室から出てきて、内心えっと驚いてしまった。
 大きな美術館ではないけれど、展示室からすぐに出てきてしまうとはどういうことだろう。それに展示室を出て帰るわけではなくホールの隅でなにか小声で話しているようだ。
 また昨日みたいにずっといるのかな……と思いかけて雅野はその考えを振り払った。客に対してそんなことは言えないし、自分は通常の対応をするしかない。

 来館者が何人か続いて雅野もふたり連れの女性客ばかりを気にしているわけにもいかず忙しく対応を続けていた。館内も客が多い割に静かで、あの人たちがホールにいてもとくに差し障りはない。そう思うのだが、やはりずっとこちらを見ていられるのは気になる。ときどきふたりで顔を見合わせて小声で話すふたりは信大が受付に出てくるのを待っているように思えて仕方がない。ちょうど昼だったので昼休みの交代で信大がいないとでも思われているのだろうか。

 事務室から声が聞こえて信大と面接を終えた女性が出てきた。三十代くらいの女性は雅野にも会釈をして帰っていったが、感じの良さそうな人だった。順調に決まるといいなと思いながら雅野が受付にいると信大が戻ってきた。
「受付を代わりましょう」
「いいえ、大丈夫です」
 雅野はそう言ったが、信大は静かな声で
「大丈夫なときこそ休憩を取ってください」と受付の席を替わるよう促した。では、と言って雅野が昼の休憩を取るために立ち上がったが、ちらりと見たふたり連れの女性たちはホールの向こうで信大が受付に座るのを見ながらなにかを話しているように見えた。

 雅野が昼の休憩から戻ると、依然としてふたり連れの女性はいて帰る気配はなさそうだった。信大を見ると平静な表情でいつも通り受付をしていた。あの女性たちに気がついていないわけではないだろうが、いつもとかわらない信大の態度に雅野は感心してしまった。
 同じようなことばかり気にしてしまう自分が恥ずかしい。もっとしっかりしようと思いながら雅野は仕事に戻ったが、客が途切れるとやはりふたりの女性客が気になってしまった。もやもやした気持ちを抱えながらそれでも仕事をしていたが、午後遅くにになって来館者が空いたところで信大が電話をするために受付を離れた。事務室にいますからと言って信大は入っていったが、電話のほかにも信大には仕事があって、しばらくのあいだ雅野は受付にひとりになっていた。もうすぐ夕方だし、このまま終わればいいなと雅野が思っていたとき、ホールの向こうからふたりの女性客が近づいてきた。
「グッズは今日は売ってないのですか」
 ひとりがなにげなく尋ねたが、今日は、と言われて雅野の心臓がきゅっと締めつけられたような気がした。
「申し訳ありませんが、今日からしばらく販売を見合わせることになりました」
「あら、どうして」
 もうひとりに雅野よりも年齢が上らしいのに意外と甘い声で言われて雅野は頭を下げた。
「売り切れになってしまいまして、お客様には申し訳ありません」
 信大と打ち合わせておいた返答をしたが、ふたりの女性はなにも言わず顔を見合わせた。
「じゃあいいです」
 あっさりと返されてふたりの女性客はそれ以上聞かなかった。連れだって出口へと向かい、ひとりが振り返って雅野を見た。雅野は一礼して見送ったが、出て行ったふたりの後ろ姿はその日の仕事が終わっても雅野の気持ちから消えなかった。





 あのふたりの女性客がどうしてグッズのことを聞いてきたのかわからない。もしかしたら単に買いたかっただけなのかもしれない。そう思っても雅野はついため息をついてしまった。開館時間は終わっていたが閉館後の仕事が残っていた。

(どうして今日に限ってグッズのことを聞いてくるの。昨日だって来ていたのに……)

 グッズのことを考えると雅野はちくりと心が痛む。自分から提案したのに今となってはグッズ販売がかえって負担になってしまって、信大にも申し訳ないような気持ちになっていた。信大も急いで準備をしてくれたのに、流行りものに飛びついてしまったようで自分が情けない。そう思っていたところにあのふたりの女性客に今日はないのかと聞かれてしまった。
 いったいあの人たちはなにをしに来ているのだろう。あの女性たちはどう見ても信大目当てで来ているように見える。受付に信大がいるときには信大を見ながらふたりでずっと話している。今日もスマートフォンを操作していたかどうかわからないが手に持っていた。考えれば考えるほどもやもやする。考えていて信大に名前を呼ばれているのに気がつかなかった。

「雅野さん」
「あ! はい」
 慌てて返事をして向かいのデスクを見ると信大が心配そうに見ていた。
「す、すみません」
「今日も忙しかったですからね。僕はこのあとギャラリートークの準備をしますが、雅野さんは自分の仕事が終わったら帰ってください」
 そうだった、信大さんにはまだ仕事があったのだと、雅野は思い出した。それならば素早く自分の仕事を済ませて信大を手伝ったほうがよかったのに考え事ばかりしてしまった。
「なにかお手伝いすることは……」
「いや、無理はしないでください。帰れるときは帰ったほうがいい」
 でも、と言いかけて雅野はやめた。もやもやした気持ちが続いていて、信大の手伝いができるわけがない。ただでさえ器用ではない自分なのだから、信大の言う通り帰ったほうがいいのかもしれない。
「はい、わかりました……」
 信大には悪いなと思いつつも雅野が言うと、信大はちょっと苦い顔つきをした。
「それから明日と明後日のことですが、敬輔が応援に来てくれることになりました。さっき連絡があったので先に雅野さんにも伝えておきますが――」

 ――えっ?

 北之原敬輔の名前に驚いた雅野は疲れているのも忘れて信大の顔を見た。



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