六月のカエル 20


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「こんなときなのにすみません」
「いいえ、佐倉さんの休みはあらかじめわかっていたことですから大丈夫ですよ。ご主人について行ってください。お気をつけて」
 信大の思いやりのある言葉に仕事を終えた佐倉が申し訳なさそうに帰っていった。
 北之原美術館では次の日は何事もなく過ぎたが、その翌日は佐倉が病院に行く夫につきそうために休みを取る日だった。
「明日は僕と藤田さんとで受付をしましょう。忙しいとは思いますが、藤田さんもよろしくお願いします」
「はい」
 信大が言っていた人材派遣会社からの連絡はまだなかった。急な依頼で即戦力としてイベントなどで受付業務ができる人材を派遣してもらうのは難しいらしい。
 ともかく明日は信大とふたりでがんばるしかない。不安な顔をしても始まらないので雅野はしっかりと答えて明日の受付の仕事がうまく回るように他の仕事をできるだけ先に片づけておいた。

 翌日になるとやはりかなり来館客が多く、開館時間になると雅野とともに信大も受付にかかりきりになってしまった。いつもなら信大と一緒に受付の仕事ができることを雅野も密かに楽しみにしているのだが、この日に限ってはそんなことを考えている暇はなかった。開館からほとんど切れ目なく客が続き、少し空いてきたなと思ったときには昼になっていたが、午前中から雅野には気になることがあった。 

(あの人たち、ずっとあそこにいる……)

 雅野がちらりと見るとふたりづれの若い女性客が話をしているふうを装って視線をはずした。午前中に入館したそのふたりの客は入館料を支払った後で展示室のほうへは行かず、受付のあるホールの端からずっと受付を見ていた。ふたりは同じような感じのレイヤードスタイルの服を着ていて髪の長い女性たちだった。
『ミュージアム逍遥』が放送されて以来信大目当てとしか思えないような女性客が増えていることは確かだった。

 佐倉が以前、インターネットで信大のことが話題になっていると言っていたのを思い出して雅野は家で調べてみたのだが、「ミュージアム逍遥」「北之原美術館」に「北之原さん」という単語で検索するとSNS上に予想以上の反応が出てきていた。

『北之原美術館学芸員 いい男』
『北之原さんすてき』
『ミュージアム逍遥に出ていた北之原美術館の学芸員の北之原さん、いいです! ひさびさのヒットです!』
『北之原さん 学芸員らしい知的さ とても清潔感がある』
『ストイックな感じがたまらない』
『北之原美術館行ったら混んでいた』
『北之原美術館て北興商事の経営者のコレクションだよね 北之原っていうくらいだからあそこの御曹司が学芸員やってる?』
『北之原さんバツイチらしい』

「なんなの、これ……」
 雅野が思わず言ってしまったほどだった。これ以上読むと個人情報まがいのことが書かれていそうで怖くなって見るのをやめてしまったが、たった一度のテレビ出演で信大個人の事がこれほどまで話題になっているとは信じられなかった。

 今日も受付に来た何人もの女性たちが信大を見て「あの人」とか「『ミュージアム逍遥』に出ていた……」とか小声で話しているのが雅野にも聞こえていた。信大にも聞こえていたが、気にする素振りも見せず受付の仕事をしていた。
 ふたりづれの女性客は依然としてホールの向こう側から信大を見ていた。ときどきスマートフォンを取り出して操作している。館内でスマートフォンの使用は禁止されているのだが、ふたりは少し離れた展示室の入り口の脇に立っている警備員を気にする気配さえなかった。
 不審というわけではないが、ずっと見られているというのはあまり気持ちの良いことではない。いつもは受付にいることが少ない信大が今日は受付にいることで常に客の視線に晒されているようだった。

「あの人たち、まだいますね」
 午後になって客が途切れたときに雅野が小さな声でとなりの信大に言うと、信大は平静な表情でふたりづれの客たちのほうを見た。
「気にしないことです。一時的なことでしょう」
「でも、SNSで北之原さんのことがいろいろ言われているみたいで……」
 開館中でこれ以上は話せなかったが、信大もふたり連れの客がスマートフォンをいじっているのに気がついていた。
 スマートフォンをいじっていてもSNSへ投稿しているとは限らない。それになんの根拠もなしに客に出ていくようには言えない。雅野もそれはわかるので、でも、と出かかった言葉を飲み込むしかなかった。

 ふたり連れの客は午後三時頃までいたが、雅野が気がつかないうちにいなくなっていた。ふたりの姿が消えたことで雅野は内心ほっとしたが、こんな気持ちは初めてだった。クレーマーでもなんでもないのに客がそこにいて見られているということがこんなに気になったことはなかった。

 その後は閉館時間までなにごともなかったが、閉館後の片付けが終わると雅野は力の抜けたため息をついた。気を張って仕事をしていたので、これで今日の仕事は終わりだと思うと一気に疲れを感じてしまった。
「こちらはもう終わりましたか。早いですね」
 事務室に戻ってきた信大に声をかけられて、ため息をついていたのを見られてしまったかと思って雅野は慌てて立ち上がった。
「はい。あとは見回りですね。行ってきます」
 セキュリティ上、ホールや展示室以外も閉館後に見回ることになっていたが、信大が雅野を止めた。
「見回りは済ませてきました。あとは夜間のセキュリティのセットをして終わりです」
「え、北之原さん、今日は残業は?」
 このところ残業の続いていた信大だったので、雅野は今日もそうだろうと思っていたのだが、信大は真面目な顔で雅野を見ながら言った。
「今日は僕も帰りたくなりました。雅野さん、よかったら食事をつきあってもらえませんか」
 初めてのデートに誘うような口ぶりだったが、雅野は信大に「雅野さん」と名前呼びされたときからはっとしていた。目を見張った雅野に信大が付け加えるように言った。
「まだ明日は休みの日ではありませんが」
 ふたりが会うのはいつも休みの前夜からだった。でも、わざわざ休みの前の日ではないがと言ったのは明らかに信大からの誘いだった。雅野が信大の顔に無言で問いかけると信大がやさしく頷いた。
「はい。わたしも……」
 職場(ここ)ではなくて、信大とふたりきりになりたい。ずっとそう言いたかった。
 仕事が終わって雅野もやっと口に出して言えたのだった。

 すべての仕事を済ませて美術館から出るとコートとジャケットを着たふたりの手がどちらからともなくつながれた。一月の夜は冷え込んでいて、街灯の光さえ冴え冴えと冷たく見える道は歩く人もなく、ふたりは寄り添ってひっそりと歩いていった。
 家へ入ると信大がドアの内側から施錠する。靴を脱ぎ、居間へ入ってバッグを置くと信大がうしろからコートを脱がせてくれた。いつもしていることだが、仕事から離れてふたりきりの世界に入っていくこの過程が雅野は好きだった。
 コートを脱いだ雅野は仕事用のニットスーツだったが、信大の家の中は程よく暖められている。するりと抱き寄せた信大の手のほうが冷たいくらいだった。
「信大さんの手、冷たいですよ」
「そうですか、すみません」
 謝りながらも手を離さない信大の頬に雅野は自分から頬を擦り寄せた。
「お風呂、一緒に入りたい。ふたりで……」
 それを聞いた信大の顔がやっと笑った。不機嫌ではなかったものの、今日はまだ一度も信大が笑った顔を見ていなかった。見上げる雅野に穏やかにほほ笑みながら信大が答えた。
「ええ、よろこんで」



 もう何度一緒に風呂に入ったか覚えてはいないが、始めの頃は感じていた恥ずかしさがだんだんと薄れていくのが不思議だった。
「おいで」
 信大に呼ばれて雅野はゆっくりと浴槽の湯に体をつけた。信大の足の間に体が納まると温かな湯とともに信大の腕が回された。
「あったかい……」
 そう言うと後ろにいた信大が顔を近づけて雅野の耳にキスをして、そのままぴったりと抱きしめられた。信大に体を預けて寄りかかるとお湯と共に信大の体の温かさが伝わってきて雅野はほうっと息を吐いた。
 今日はなんとなくいつもより疲れた。佐倉が休みで忙しかっただけの疲れではなかったが、雅野でさえそう感じるくらいだから信大はもっと疲れているはずだ。いつもはもっと話す信大が口数が少ない。
「信大さん、疲れた?」
「うん、そうですね……、疲れました」
 意外にも信大はそう言った。普段はあまり疲れた様子を見せない信大だけに正直にそう言うのは珍しい。
 信大もインターネット上で言われていることを知っていた。自分だって検索したくらいだから信大も見ていてもおかしくない。雅野はそう思うと胸がつかえるような思いがしたが、今はどうしようもない。

「信大さん、疲れているんだったら……」
 今日は早く寝よう、そう思って雅野が立ち上がろうとしたが、あっけなく引き戻された。
「まだですよ」
 もう一度信大の胸に抱かれて信大を見ると、彼の顔が笑っている。
「よく温まらないと」
「えっ、あっ」
 まわされた手が柔らかく乳房を揉み始めて雅野は思わず体を離そうとしたが、狭い浴槽の中ではそれができない。
「いや……、だって、信大さ……」
 信大が身を乗り出して雅野の唇に唇をつけた。信大の手は乳房にあてられたままで雅野は声を上げたが、唇に入ってきた信大の舌に言葉が消されていく。
「こんなに気持ちがいいのに嫌ですか。本当に嫌ならばやめるけど」
 そう言った信大の顔はやさしい笑顔なのに左手は雅野の乳房を包み、右手は雅野の足のあいだへと差し込まれている。
「嫌、じゃないけど……、でも、信大さんが」
「いつも言っているでしょう。僕を元気にしてくれているのは雅野さんだと」
 笑顔のままで雅野の乳房と、狭いところを開くように入っている指先に小さな突起を押されてふるっと震えあがった。湯の中なのに突起はなめらかに滑り、信大の指先が動くと雅野の腰までも動いてしまった。
「あっ、あっ……」
 信大が疲れているのにと思っていても、だらしがないほどに快感に抵抗できない。
 とどめのように信大がささやいた。
「そういう雅野さんが大好きなんですよ」

 狭い浴槽の中なのに信大の上で雅野の背が反ってしまう。腰を浮かせ、背を反らすほど足のあいだに差し込まれた指が襞を広げている。湯が跳ね上げられる音とともに襞の中からくちゅっといやらしい音が聞こえてくる。揉まれているのは片方の胸だけなのに雅野の両方の胸の先端が赤く尖って突き出されて、しかも尻の下には信大の硬いものが当たる。
「あっ……、あっ……」
 荒い息とともに喘ぐが、信大に抱かれた上では体を震わせるだけでどうしようもない。なんとか手を伸ばして信大の硬いものを握ろうとするのだが、上手く握れない。
「僕のほうはもう少し待って」
 それでも信大の硬い屹立は雅野の腰や尻を押してくる。体じゅうで感じさせられて、信大の指が前後する動きにもう声も出なくなって、雅野は高まってくる快感に目をつぶった。のけぞって胸を天にむけて達しながら体の中に収縮が広がっていくのを任せていた。

「もう一度いかせてあげたいけれど、このままじゃのぼせてしまう」
 信大が体を起して支えてくれたがすぐには動けない。雅野はくったりと信大に寄りかかって起きることができなかった。
「雅野さん、少しだけ立ち上がって」
 なんとか立ち上がると信大が大きなタオルで包むように拭いてくれたがまだ足に力が入らない。息をつきながら二階の信大の部屋へ連れてこられたが、ベッドの上に膝をついたところでそのまま伸びてしまった。
「わたしばっかり……」
 うつぶせで倒れ込んでいる雅野が言うと、後ろで避妊具をつけていた信大が笑ったようだった。
「そんなことありませんよ」
 声とともにするっと雅野の背中がなでられてタオルがはずされた。信大の手は背中から尻へと下がり、雅野があっと思ったときには腰が持ち上げられていた。
 音もなく入ってきた信大のものが中を満たす。ぴったりと腰が押し付けられるまで入った信大のものは雅野を押し分けて動かない。信大のものは熱く、雅野の中へじわじわと熱さが広がっていく。
「あっ……」
 信大が動かないのに雅野は声を上げた。差し込まれた信大の熱さと硬さに雅野の中が強くひくついている。
「はっ……、あっ……」
 背中に覆いかぶさってきた信大の動きとともに雅野が息を吐いた。湿り気の残っている肌を重ねながら信大の重みを感じ、奥を突かれ、胸が揺れた。
 初めて体を重ねたときと同じように信大に覆いかぶさられて、それがより一層雅野の中を熱くしていた。   
 もう考えることなどできない。ただ本能の悦びを感じて登り詰めていく。
 濡らした肌を隙間なく重ねた生き物のように、何度も。






「……まさの」
 名前を呼ばれたような気がして雅野は寝返りをうった。
 あれ……、いま、信大さんが「雅野」って呼んだみたいだった。いつもさん付けなのに……と、思ったところではっと目が覚めた。
 あれからふたりでぐっすり眠って、というよりも死んだように眠っていた。眠る前にかろうじてパジャマは着たけれど、パジャマの下はなにも着ていない。いつもと違ってちょっとすうすうしていたが、そんなことも気にならないほど爆睡だった。
 雅野がとなりにいる信大を見ると、ちょうど起き上がるところだった。手には携帯電話を持っていた。
「はい、北之原です」
 信大も今起きたはずなのにいつもの平静な声で携帯電話に出た。え、誰からなの?と雅野は思ったが、信大はすでに話し始めていた。
「――入院、ですか?」
 急に信大の声が大きくなった。誰からの電話かわからなかったが、雅野を不安にさせるひと言だった。



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