六月のカエル 19


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 特別展の初日から開催セレモニーやイベントを入れずにむしろ地味なスタートにしたのは信大の狙いだったが、客の出足は順調で有名どころの美術館や博物館の展覧会のような何時間待ちといった行列はないものの館内は常に客が途切れることがなく続いていた。これは普段はあまり来館者が多くない北之原美術館にとってはかつてない事と言ってよく、展示されている品々への注目の度合いが雅野にも良くわかるものだった。
 また、メディアからの取材も受けるといっていた信大の言葉通り年末までには雑誌の取材がいくつか入ってテレビ番組の収録も行われることになったが、これを一番喜んだのは佐倉だった。

「『ミュージアム逍遥』ですね、もちろん見ていますよ。イケメン俳優さんが美術展を案内するというあの番組ですね」
「佐倉さんからイケメンなんて言葉が出てくるとは思っていませんでしたよ」
 信大は笑ったが、『ミュージアム逍遥』というテレビ番組は結構人気があるらしい。
 テレビも持っていないし俳優にも興味のない雅野は恥ずかしながらそのテレビ番組を知らなかった。あとでチェックしてみようと思ったのだが、佐倉がその番組本を持っていたので見せてくれた。
「あ、この俳優さんですか。イケメンですね」
 番組本の写真を見て雅野が言うと信大がちょっとつまらなそうな顔したので佐倉がくすっと笑っていた。
「北之原さんも出演されるんですか」
 雅野が聞くと信大はあまり気乗りがしないという感じで答えた。
「そうですね。僕が出なくてもいいと思うのですが」
「あら、展覧会の会場で学芸員が解説するっていう番組じゃないですか。北之原さんが出ないとお話しになりませんよ」
 佐倉は詳しかったが、雅野はテレビ番組へ出演なんてすごいと感心するばかりだ。

「というわけですので年末年始は忙しいことになりそうです。すみませんが収録の日には雅野さんも出勤してもらえますか」
 信大が申し訳なさそうに言ったが、佐倉はもちろんのこと雅野もできたら収録の様子が少しでも見たかった。テレビ番組の収録は年末の休館に入った12月30日が当てられていたので佐倉と一緒に出勤にしてもらえれば空いている時間に事務の仕事もできる。
「はい、大丈夫です。年末年始は帰省しないつもりで、もう家にも言ってありますから」
「あ、帰省ですか。僕は帰省の経験がないのですっかり忘れていました。それじゃ、ご両親にも申し訳ないですね」
「いいですよ。べつにお正月でなくても帰ろうと思えばすぐに帰れますから」
 が、たとえ年末年始の休みがたくさんあっても雅野は実家に帰りたいとは思っていなかった。
「あの、その代わりと言ったら変ですけど、テレビの収録が終わったら信大さんの家に行ってもいいですか」
 それはもちろん年末年始を信大と一緒に過ごしたいということで、今さらとは思うが雅野はずっとそう言いたくて待っていたのだった。
「おや、僕が言いたかった事を先に言われてしまった」
 信大が笑いながら言ったが、いつもと変わらない信大の笑顔に雅野もなんとなくほっとした。

 特別展が始まって以来やはり一番忙しいのは信大で、雅野たちが帰ってしまってからも美術館に残って仕事をしていた。もともと少ない人数で仕事を回していかなければならず、開館時間中にできない仕事はすべて残業になっていた。
 雅野もこんなときこそなにか信大の力になりたいと思うのだが、やっと一人前という雅野では自分の仕事をこなしていくのが精一杯だった。風邪などひいて休んだりして信大の負担を増やさないためにも自分の体調管理をしっかりすることが仕事のうちなのだと思っていた。
 特別展はまだ始まって二週間余り、三月までの開催が終わるまでまだ先は長かったが、それでもやはり休みの日には信大と会わずにはいられない。年末年始も少しでも一緒にいたいというのが雅野の正直な気持ちだった。



 収録当日、雅野は佐倉と一緒に邪魔にならないように収録の様子を見ていた。
 収録のクルーたちとは別に後からメイン出演者の俳優が車で到着したが、芸能人だけあって着ているデザイナーズブランドの服も髪型も最先端という感じだった。信大だけでなく雅野や佐倉も紹介されたが、俳優は気取りなく挨拶をして佐倉もうれしそうだった。ただ、俳優を紹介した撮影クルーの男がかなりはっきりと雅野の胸を見ていて、雅野は早々に事務室に引っ込むことにした。
 事務室ではいったん戻ってきた信大が書類を置いてまた出ていこうとしたが、雅野が見るとネクタイが少し曲がっていた。
「北之原さん、ちょっとネクタイが」
 呼び止めて事務室にはふたりだけだったので雅野がネクタイを直してやった。
「変でしたか。ありがとう」
 信大らしくきちんと礼を言ったが、やはり撮影前だけあってどことなく緊張した面持ちだった。
「メイクさんみたいな人はいらっしゃらないんですか」
 雅野が言うと信大が少し首を傾げた。
「あの俳優にはついているみたいですけど、僕は芸能人じゃありませんから」
「そうですけど、でも」
 雅野が途中で言い止めたので、信大はおや? という感じで雅野を見た。
「あの俳優さんよりも信大さんのほうが素敵です」
 恋人のひいき目ではなく雅野はそう言った。信大と同じくらいの年齢の俳優は確かにイケメンなのだが、やはり別の世界の人という感じがする。派手さはないが、黒目がちの目がやさしい信大のほうが雅野には好ましい。というか好きなのだ。
「雅野さんにそう言ってもらえるとなんだか照れますね」
 ようやく信大がいつもの笑顔で笑った。
「だって本当のことですよ」
 お世辞でもなんでもなくそう思っていると雅野が続けようとしたそのときに事務室の外から声がかかり信大の出番を知らせてきた。
「では行ってきます」
「はい、がんばってください」
 キスをしたそうな顔で信大が言ったので雅野は笑ってしまいそうになったが、小さく手を振って信大を送り出すことができた。

 雅野たちは受付から収録の行われている展示室のほうを垣間見るだけだったが、収録は順調に進んで予定通り三時間で終わった。俳優と並んで展示品の説明をする信大は離れて見ていても落ちついていて、クルーたちの指示にもそつなく対応していた。さすが信大さんと雅野は心の中で自慢しながら撮影が終わるのを待っていたが、収録が終わった後の番組宣伝用の写真撮影も含めて終始スムーズに行われた撮影だった。
 
「放送はいつなんでしょうか」
「一月の中旬だそうですよ」
 収録のクルーたちが帰ってしまうとようやく三人もほっとした気分になって話をしながら事務の仕事を片付けた。これで年内の仕事は終わりで、美術館を出ると信大と雅野は信大の家へ向かった。これから短い年末年始の休みだったが、また一緒に過ごせる。年が明ければ引き続き特別展でこのままいくかと思えたが、雅野にも信大にも予想外と思えることが待っていた。





「お客様が急に増えているような気がしますが」
 開館前に外の様子に気がついた佐倉が首を傾げながら信大へ言ったのを雅野も聞いていた。特別展の開催当初こそ開館前の行列があったものの、その後は落ちついていた。年初の開館のときも行列はなかった。
「やはり昨夜の放送があったからじゃないですか」
 信大は冷静にそう言ったが、『ミュージアム逍遥』の北之原美術館の回の放送が行われたすぐ翌日にこんなにも来館者が増えるものなのかと雅野は単純にテレビの力の大きさに感心してしまった。

 雅野も佐倉も放送から数日すれば来館者も落ちつくのではと考えていたのだが、来館者数は増える一方だった。ふたりで受付にいても女性客が多いのが目に見えてわかる。
 放送から数日後、佐倉と雅野が受付にいたときに展示室の入り口の前で信大に何人かの若い女性が近寄っているのが見えた。質問をするような感じで女性客が話しかけていて信大が答えていたが、ひとりが話しかけると何人かが続いてしまい、まわりの女性客がざわめいていた。それを察したのか信大が展示室の入り口から受付のほうへ移動したが、信大のあとをまわりの女性客の視線が追いかけている。受付にいた雅野と佐倉が思わず顔を見合わせてしまったほどだった。

「北之原さん、すごい人気ですね」
 閉館後の事務室で佐倉に言われた信大は渋い顔で聞いていた。信大がこんな顔をするのは珍しいのだが、信大自身も今の状況を良くは思っていないらしかった。
「北之原さんがいるだけで女性のお客様がざわめきますものね。インターネットでも話題になっているみたいですよ」
「おかげでというか、そのせいでホールにも出られませんよ」
 女性客が増えたせいで館内が華やかに感じられるほどだったが喜んでばかりもいられない。展示室ではさすがにそんなことはないのだが、受付のある入口ホールでは信大が女性客から握手や一緒に写真撮影を求められたりしていた。信大はそのつど丁寧に断っているのだが、そんな様子を雅野と佐倉も毎日のように目にしていた。
「来館してもらえるのはありがたいのですが、どうしてこんなふうになるのか理解に苦しみますね」
 信大にとって北之原美術館の特別展の宣伝とPRになると思って出演したテレビ番組だったが、予想していなかった反応は困ったことも引き起こしていた。

「放送から一週間のあいだに来館者が急に多くなっているのは確かです。グッズが売れているのは良いのですが、受付のほうがかなり忙しくなっていますね」
 マスキングテープやメモパッドや一筆箋などのグッズを買っていく客は女性が多い。ときには買い求める人で列ができてしまうほどだった。このところの館内は以前の北之原美術館の静謐な雰囲気とはなにかが違ってきている。
「グッズの販売も入場チケットのチェックもこれ以上混むようだと受付が回らなくなってしまいます」
 信大の言う通りで、雅野と佐倉も頷いた。雅野はともかくパートタイマーの佐倉も特別展が始まってから目いっぱいの勤務時間で、そのうえに忙しくなっていた。
「北興商事の関連の人材派遣会社から人を派遣してもらえないか問い合わせているところですが、グッズと目録本の販売をその人たちに担当してもらうつもりです。急なことですが、決まり次第人を増やしますのでよろしくお願いします。それから展示室と外の警備員は明日から増やします。なにかあってからでは遅いですから」
 来館者が増えたことで受付だけでなく館内の雰囲気も落ちつかない状態になり始めている。信大だけでなく雅野と佐倉もこのことを感じていた。



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