六月のカエル 18


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 信大との短い休みはあっという間に過ぎてしまった。
 明日からまた仕事だと思うと心が重くなるが、働くのが嫌なのではなく、休みが終わってしまうことが嫌なのだ。
 この二週間、やさしすぎるくらいにやさしい信大に雅野の身も心もぐずぐずにされっぱなしだった。

 信大が仕事へ行っているあいだ、信大が持っている本の中から選んでくれた本を思ったよりもたくさん読むことができた。もちろん一度読んで終わりではないが、自分のできる家事をして、空いている時間に本を読んで信大の帰りを待つ。
 信大は家の中にあるものは何でも使っていいと言ってくれたが、雅野はこれまでに何度も泊っていたので着替えや日用品などもいくつか置かせてもらっていたからなんの不自由も感じなかった。リビングの窓ぎわにある座り心地の良いソファーをひとり占めして本を読んでいるうちにうとうとしてしまい、帰ってきた信大にキスで起こされたこともあった。
 雅野のほうが休みで家にいたのに眠ってしまい、夕食の準備さえしていなかったから雅野はあっと気がついて起き上がろうとしたのだが、信大はそんなことはかまわずにキスをしてきた。
 仕事以外では信大はいつも気楽でこだわりがないから一緒にいて雅野もすごく楽なのだが、こんな時は信大の甘さに抵抗できない。
「夕食は後でいいでしょう?」
 信大のたったそれだけの言葉に雅野が弱すぎるほどにぞくぞくと感じているのが信大にもわかっている。お互いがキスだけで止めることができるはずもなく、ソファーの上で雅野は何度も感じさせられてしまった。



 このまま一緒にいられたら。
 信大の家で過ごしながら雅野はそう考えてばかりだった。
 二週間は短い。抱き合っていられる時間はさらに短く感じられて雅野はこっそりとため息をついた。
「どうしました?」
 ソファーで寄り添いながら雅野の髪をなでていた信大が聞いたが、雅野は顔を上げずに信大の胸に抱きついたままだった。
「帰るのが寂しくなってしまいましたか」
 言われるままに雅野は頷いた。信大の家から帰るときはいつも寂しい。
「もっと一緒にいられたらいいのですがね」
 思っていることを言い当てられて思わず雅野の唇が震えた。そう言いたくて、でも我慢していたのだ。仕事場でも信大と会えるとわかっていても、この気持ちが抑えられなくなっていた。

「ずっと……信大さんと一緒にいたい。子どもみたいだけど、離れたくなくて……」
 不器用に途切れがちに言う雅野に信大は顔を下げて唇を触れさせた。
「できるなら雅野さんを帰したくない。僕もそう思っています。ですが、すみません。今はそうできないのです。もう少し、今回の特別展が終わるまでは……」
 珍しく信大の語尾が途切れて消えた。いつもの信大らしくない言いかたに雅野は信大の顔を見たが、信大の目元にはどことなく疲れがたまっているような影が見えた。
 いままで信大が疲れているだろうなと思っていても、抱き合う信大はそんな疲れは感じさせなかった。いつも丁寧な愛撫で思いきり啼かされてぐったりしてしまうのは雅野のほうで、抱き合うときだけでなく一緒に過ごす休日も信大の思いやりにどっぷりと包まれていた。

「信大さん……」
 そっと手を伸ばして信大の頬に触れた。
 休日でざっと整えただけの黒い髪は信大を若く見せていたが、小さな皺のある目元はやはり歳相応だ。
 どうして気がつけなかったのだろう、と思うと雅野は自分が情けなくて涙が出そうになった。
 特別展を前にして信大は忙しさも企画や責任者としてのプレッシャーもあるのだということに。それなのに雅野はつい離れたくないと言ってしまった。
「ごめんなさい。信大さんは今が一番忙しいのにわたしったら甘えてばかり……」
「いや、雅野さんが謝ることじゃないですよ」
 そう言うと信大は頬に触れていた雅野の手を取ると細い指先に唇を当てた。
「雅野さんはいつでも僕を満たしてくれる。満たしながら雅野さんも喜んでくれるからもっと抱きたくなる。好きな人を抱く喜びをもらっているのは僕のほうなのです」
 雅野の手をとったまま信大は続けた。
「今は特別展の始まる直前で忙しいだけです。だから雅野さんはどうかそのままでいてください。そのままの雅野さんが好きなのです」

 ――そのままの雅野。

 なんだかとてもうれしい言葉だった。そのままの、という言葉が魔法のように感じる。そしてうれしいのに驚いてしまっている雅野の手が信大にしっかりと握られている。
「キスしたくなる唇だ」
 驚き顔で半開きだった雅野の唇にすいと信大の唇が触れた。なんの防御もなく開いている雅野の唇に音もなく信大の唇が絡む。
 やさしいキスが信大の気持ちなのだと感じて雅野は目を閉じた。






 今日から北之原美術館で特別展が始まる日の朝、雅野が出勤するとすでに何人もの人たちが列を作って開館を待っていた。開館までにはまだ二時間近くあったのだが、すでに信大は来ていて美術館前を担当する警備員たちの指示を出していた。
「だんだんお客様が増えてきていますね」
 佐倉とふたりで外の様子を確認すると、やはり美術館の前で待っている客は増えていた。
 特別展が始まるとはいえ特別なセレモニーを行う予定はないのだが、いよいよ入口を開けるというときに信大は受付カウンターの佐倉と雅野の前に立った。
「おふたりとも準備はいいですか」
 今日の信大は黒紺のスーツだった。いつもはノーネクタイのことが多い信大がきちんとネクタイを締めた姿はいやがうえにも雅野の緊張を高める。
「はい、よろしくお願いします」
 佐倉といっしょに答えながら雅野は声が震えそうになってしまったが、そんな雅野に気がついたのか信大がちらっと雅野を見て目だけで笑いかけてきた。信大自身はそれほど緊張しているようには見えず、淡々と落ちついた表情に雅野は力づけられるようだった。

「では開館します」
 信大と警備員によって入口が開かれると同時に客たちが入ってきた。若い人から年配の客まで入り混じって受付カウンターへ並んだが、警備員による入場案内で客の流れはスムーズで、前売り券で、あるいは入館料を払った客たちが「順路」と書かれたサインポールに誘導されて展示室へと入っていく。
 展示室の入り口には信大が立って客たちに目を配っていた。このような特別展が初めて開かれる北之原美術館にとっては初日の開館のときがある意味山場なのだと雅野も信大から言われていたが、客の流れは滞ることなく続いていて、気がつけばあっというまに昼を過ぎていた。

 午後には館長である北之原正範も息子の敬輔と一緒に来て、信大と共に知り合いの来客者に挨拶をしていた。北之原正範が来ると言うので北興商事の関係者も大勢訪れていて館内はかなり賑やかになっていたが、そのざわめきも展示室までは及ばなかった。
 雅野は敬輔の姿を見たときに、またなにか言われたら嫌だなと思ったのだが、敬輔は今日は父親の供に徹するつもりらしく真面目な顔で父の後についていた。それに敬輔が話しかけてこないというよりは来館者が途絶えずに入ってくるので雅野も佐倉も受付の仕事から手が離せず、敬輔と話す暇などなかった。おかげで雅野は敬輔と話をせずに済んだのだが、北之原正範と敬輔が帰ってしまうとやはりほっとしてしまった。

「順調ですね。ご苦労様でした」
 ようやく初日が終わって、特別展の開かれているあいだは閉館時間までいることになっていた佐倉が帰ってしまうと信大が雅野のいる受付に来た。
「グッズのほうはどうですか」
「はい、大丈夫だと思います」
 目録本やグッズを買い求める客と入館する客とがかち合わないようにカウンターの位置を調節したおかげでこちらもほぼスムーズだった。
 篆刻(てんこく)文字に似たロゴデザインで「北之原美術館」と入ったマスキングテープが意外にも売れているのがグッズの販売を提案した雅野としてはうれしいところだった。
 信大も初日を無事に終えてなんとなくほっとしているようだった。ふたりで受付と事務室を片付け、翌日への準備をしながら今日一日の興奮を分かち合うように話をしたが、雅野もこうして信大と仕事の話ができることで一人前の職員に近づいたような気がする。
 そのままの雅野でいいと言ってくれた信大の言葉が雅野に小さな自信を与えてくれていた。



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