六月のカエル 16


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 特別展までの準備は順調に進んでいて、すでに事務室には特別展のリーフレットや所蔵品の目録本などがぎっしりと置かれていた。いつもより多くの来館者が予想されるため駐車場がない旨を知らせる掲示板や最寄りの駅からの案内板まであった。

 目録本は所蔵品の写真が載せられた本格的な書籍で、この本が受付のカウンターで販売されることになっていた。最近はどこの美術館でもオリジナルのさまざまなグッズが販売されているが、北之原美術館にはグッズ売り場を設けるスペースがなく、それが雅野にはちょっと残念だった。
 しかし静謐な北之原美術館の雰囲気にはグッズ売り場は合わなさそうだったし、販売に専任であてられる人手もない。佐倉と雅野とで一応は信大へグッズ販売の話はしてみたものの、やはりグッズ販売は無理そうだった。

 信大は特別展のすべての統括者として忙しく、毎日のように業者との打ち合わせや来訪があった。落ちついて自分の仕事をする時間も取れないようで、雅野は休みの日はゆっくり休んだほうがいいのではと思ったが、信大は笑って大丈夫ですよと言った。
「雅野さんといるほうが落ち着くし、なにより楽しいですからね」
 そう言ってもらえるのはうれしかったが、やはり信大が忙しいことは変わらない。
 雅野は収蔵品や日本美術に関して勉強しなければと思っていたことを佐倉に相談してみた。佐倉ならここの仕事が長いし、収蔵品に関しても雅野よりもずっと詳しそうだった。

「そうですねえ。やはり日本美術史でしょうか。それから茶の湯や陶磁器の歴史もひと通り勉強されたら良いと思いますよ」
 佐倉は柔らかな笑顔でそうアドバイスしてくれた。
「美術史ですか。そうですよね……」
 雅野もどんな本がいいのか見当がつかないままに「陶磁器入門」という本を買って読んでみたのだが、内容は現代の焼き物が中心に書かれていて、ちょっと違うなという感じがしていた。

「ここの近くに図書館があればいいんですけど……あ、そうだわ」
 雅野といっしょに開館の準備をしながら話していた佐倉が思いついたように言った。
「北之原さんならいろいろ本を持っているんじゃないかしら。北之原さん、大学院では美術史をやっていたそうだから専門家よ。聞いてみたらどうでしょう」
「え、大学院?」
 思わず聞き返してしまったが、信大が日本の大学を卒業していることは話してくれたことがあるが、大学院は聞いていない。学芸員であればそれは不思議なことではないが、信大が大学院を卒業していたことはまったく知らなかった。

「あら、ご存じなかった? でも、おふたりはおつきあいされているのでしょう。すぐにわかりましたよ」
 母親のような年齢の佐倉に言われて、雅野はなんだか自分のぼんやりしているところを指摘されたような気分になってしまった。それにつきあっていることがばれていたんだと思うと少し気まずい。
「はい、あの……、すみません」
「いえいえ、いいのよ。こちらこそごめんなさいね。プライベートなことまで詮索するつもりはないですけど、でも北之原さん、私が復帰したときには眼鏡もかけていなくて見違えてしまったものだから」
「見違えて、ですか」
 そういえば復帰したばかりの佐倉に信大の眼鏡はどうしたのかと尋ねられたことがあった。
「ええ。以前は暗かったと言ったら失礼だけど、かなり落ち込んでいたから」
 そこまで言ってから佐倉は雅野を気遣うように見た。
「北之原さんは、以前離婚されたことを雅野さんにお話ししているのですよね」
「はい」
 雅野が答えると佐倉は真顔でうなずいた。
「北之原さん、離婚して今の家に住むようになってからはまるで隠者(いんじゃ)のような生活だったのよ」
「隠者……?」
 雅野にはなんとなく聞いたことがあるという程度の言葉だったが自信がない。
「世捨て人と言ったほうがわかりやすかったかしら。いつも無表情な顔をして、仕事以外のことではほとんど出かけないで、家と美術館(ここ)とを往復するだけだったから」
 少し声を落として話す佐倉を雅野は返事もできずに聞いていた。

「私が知る限りでは何年もそういう生活で、まだ若いのに本当に世捨て人みたいだったのよ。館長も心配されて北之原さんに再婚のお見合いはどうかみたいなことをおっしゃられたことがあったけれど、北之原さんはぜんぜん取り合わなくて、もう女性とのおつきあいなんて考えてないみたいでした」

 お見合い。
 雅野にとってはもやっとする言葉だったが、北之原館長なら信大の叔父だし、佐倉のいる前でもかまわずにそういうことも言いそうな感じがする。が、館長が心配して言ったとしても信大のほうにまったくそんな気がなかったことを聞いて雅野はほっとしたが、信大がそれほどまでに落ち込んでいたとは知らなかった。
 信大自身が、離婚後はもう女性とは縁がなくてもいいと思っていた、と言っていたが、今の信大からは落ち込んでいる姿は想像できない。それに今さらながら気がついたが、信大が離婚した理由を話したことはなかったし、雅野のほうから尋ねたこともなかった。

「私も心配だったのですが、私のほうが仕事を辞めてしまったからその後の北之原さんの様子はわからなくて、でも、二年ぶりに復帰のお話をいただいたときにはまあびっくりよ」
 佐倉がにっこりと笑顔になった。
「すっかり明るくなってというか、元の北之原さんに戻られていて。落ちついた人だからあまり表には出さないけれど、北之原さんが雅野さんを見る目がとてもやさしいんですもの。なんて言うのかしら、今ふうに言えばダダ漏れ?」

 まさか佐倉から「ダダ漏れ」なんていう言葉が聞かされようとは思っていなかった雅野はそのひと言で頬が赤らんでしまった。
「だから雅野さんが来てくださって良かったって私も思っているんですよ。遠慮せずに北之原さんになんでも聞かれたらいいと思うわ。雅野さんならきっと大丈夫」
 そう言われれば雅野もそうかなという気になってしまう。
 それほど勉強熱心だとは思えない自分に比べて信大は学究肌というか、事実学芸員で研究者であるし、ふたりのタイプが全然違うと思うのだからきっとほかの人にもそう見えるだろうと思っていた。
 でも佐倉も、そして北之原館長も少なくとも雅野と信大がつきあっていることを認めてくれている。
「いま北之原さんはお忙しいけれど、特別展の前に休みがあるから聞くチャンスよ、雅野さん。がんばって」
「はい、ありがとうございます、佐倉さん」
 じつは雅野も休みのときに聞いてみようと考えていたのだ。信大の家に行くことは佐倉には言えなかったが。


***


 いよいよ特別展を前にして来週から二週間の休館に入るというときに改めて信大から休館中の予定が聞かされたが、通常の休館日の翌日から5日間は雅野と佐倉も出勤して特別展への準備をし、そして7日間の休暇の後に2日出勤して開館準備をするというものだった。このことを雅野が聞いたときには信大も同じように休みがあるのだろうと思っていたのだが、実際には雅野たちが休暇の間も信大は館内の改装があるために出勤するという。

「でも、そしたら信大さんは休みなしですか」
 その日の仕事が終わってやっとふたりきりで話せるようになって雅野は勢い込んで聞いてしまった。
「休みがないわけじゃありませんよ。雅野さんの休みに合わせて二日(ふつか)は完全に休めると思いますよ」
「えっ、たった二日ですか」
 信大は穏やかな顔でそう言ったが、雅野は思わず言ってしまった。
「すみません。改装の工事自体は一日で終わるのですが、その後の再展示とセキュリティの関係とか、いろいろやらなくてはならないことがありまして」
 逆に信大から謝られてしまったが、雅野は不満を言いたいのではなかった。
「信大さん、ずっと忙しいのに。大丈夫ですか」
「おや、心配してくれるの。うれしいですね」
 すっと信大の手が伸ばされて雅野の頬へ軽く触れた。頬からあごへ触れた手に自然に顔を上げさせられて雅野はあせった。
「信大さん、ここ、事務室」
「残念だな」
 信大は笑って手を離してくれたが、とても真面目で堅い信大とは思えない。

「雅野さんに心配かけてしまって申し訳ないけれど、大丈夫ですよ。それに僕だって休みを楽しみにしているんです。二週間も雅野さんといっしょに過ごせると思うと仕事が手に付かなくなって困る」
 このところ忙しく働いている信大だから仕事が手に付かなくなるというのは冗談に思えたが、雅野は笑顔になってこくりと頷いた。それを待っていたように信大が顔を近づけてきて、あ、と顔を引こうとした雅野を両腕で抱くともう唇がついていて、結局はキスされてしまった。
「明日」
 やっと離れた唇に雅野が目を開くと信大が言った。
「泊るための荷物を持っていらっしゃい。僕の家に置いておけばいい」
 休館日までにはまだ数日あったが、雅野は素直に頷いた。



 明日は通常の休みの日、そして次の日から二週間の休館が始まるという日に雅野はうきうきした気持ちを押さえつつ、いつもの時間に出勤した。仕事中に浮ついた行動はできないが、明日は通常の休みだから信大も一日だけではあるが完全なオフだ。
 すでに11月も終わりに近く、いままでは穏やかな日が続いていたのに急に冷え込む日が多くなっていた。佐倉が先に帰る時間にはすでに外は薄暗く、あっという間に陽が暮れてしまう。
「寒くなってきましたね。雅野さん、風邪をひかないように気をつけてね」
「はい、ありがとうございます。お疲れ様でした」
 明日の休みを前に逆に佐倉に気遣われてしまったが、このあとで信大の家に行くことを佐倉が知っているようでなんだか気恥かしい。でも雅野もいつもより明るく挨拶をした。

「お疲れ様でした」
 仕事を終えた信大がいつものように声をかけてきて、雅野もコートを着てバッグを持ち、信大といっしょに通用口を出た。施錠を済ませた信大が振り向くと、やはり彼の顔はほほ笑んでいた。道の少し先のカフェの前では控えめながらイルミネーションが光っていて気の早いクリスマス気分を演出していたが、雅野にはまったく興味がなかった。
「行きましょう」
 信大が雅野の手を取り自分の手で包み込んだ。
 いつもと同じ、でも、信大の手はいつもよりもっと温かかった。



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