六月のカエル 15


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 しばらくして雅野は佐倉と受付の仕事を交代したときにトイレへ行ってこっそりと自分のスマートフォンで「ED」の意味を調べてみたのだが、やはり「男性の勃起不全」という意味だった。北之原敬輔もその意味で言っていたのだろうが、EDという言葉の強さと意味にすっかり当てられてしまったようだった。なんだか変なことを聞かされてしまったという感じで、そんなことをずけずけと言ってしまう敬輔のことが雅野にはよくわからなかった。

 その後、たっぷり二時間ほどの後に北之原正範と連れの監査役、そして敬輔が階下へ降りてきたが、敬輔は受付の雅野を見てもそしらぬ顔で、北之原正範と監査役に付いて何事もなく帰っていった。

「おふたりともご苦労様でした」
 三人を見送って館内へ戻ってきた信大が雅野と佐倉に声をかけてきて、佐倉が「北之原さんもお疲れ様でした」と答えたが雅野は小さく頭を下げただけだった。信大がちらっといぶかしげな目で自分を見たのがわかったが、雅野はなんとなく落ち着きの悪い気持ちのまま受付の仕事を続けた。

 佐倉が先に帰る時間になると信大はいつものように事務室へ降りてきて仕事をしていた。佐倉が帰ってしまうと静かな館内では信大が後ろの事務室で仕事をしている気配が雅野にも感じられて、それはいつもと同じだった。
 ぽつぽつと来館者が来るのでぼーっと考えてばかりはいられず、雅野は気持ちを引き締め直して対応をしていたが、客がいなくなると考えるのは敬輔の言ったことだった。
 敬輔から押し付けられた名刺はまだ雅野の手元にあって、すぐに捨てようと思ったが事務室のごみ箱には捨てられない。かといって持っていたいわけではないので、どうしようかと考えていた。名刺は敬輔の北興商事の専務としてものだったが、裏には携帯の電話番号が書かれていた。メールアドレスも。

 あの人、女性に手が早いそうだけどこんな名刺をばらまいているのだろうか。それにしたってあんな人のどこがいいのだろう。やっぱりあの若さで北興商事の専務で北之原家の跡取りだから? お金持ちかもしれないけれどあんな失礼な人、わたしは嫌。それに比べて信大さんはいつもまじめで礼儀正しくて、やさしくて、そして……。

 そこまで考えて雅野ははたと思いついた。

 EDって、つまりセックスができないってこと、だよね……。

 でも信大がEDでないことは雅野が知っている。知りすぎるほどに知っている。
 だってあんなにも……と思い出しかけて雅野は慌てて手で口元を押さえた。信大とのことを思い出すにはここはふさわしくない。

 でも、気がついてしまうと可笑しくてしかたがない。
 敬輔が言った事はただの言いがかり。それか、つきあわせるための口実だ。
 それにすぐ気がつかずに動揺させられた自分も馬鹿だったが、引っかけようとした敬輔も馬鹿らしく思えた。笑いが込み上げてしまったが仕事中だ。下を向いて咳払いをしてなんとかこらえた。
 信大には自分が気にしなければいいのだからと言ったのに、いつのまにか敬輔の思うツボになるところだった。

 雅野は気持ちを切り替えて敬輔の名刺をカウンターの中にある来館者から渡された名刺を保管しているフォルダへ入れた。ここの名刺はすべて信大が目を通した後のものを保管しているだけだったので、処理済みとしておける。
 これで終わり、と雅野は心の中でつぶやいた。

 そしていつものように閉館時間になるとカウンターの後片付けを終えた雅野のところに館内の見回りをした信大が戻って来た。
「藤田さん、事務室で辞令を渡しますので来てください」
「あ、はい」
 辞令のことなどすっかり頭から飛んでいた雅野だったが、事務室へ入ると信大のデスクの前で辞令が渡された。
「今日付けでこれからは正規の職員として働いてもらうことになりました。引き続きよろしくお願いします」
「ありがとうございます」
 辞令を受け取り、型通りに書かれた内容を見て雅野は礼を言った。試用期間が終わることなどすっかり忘れていたが、これもなにもかも信大のおかげだ。
 もう一度礼を言おうと雅野は目を上げたが、そこにいる信大はじっと雅野を見つめたままだった。
「また敬輔がなにか言いましたか。それともじろじろ見られたとか」
 信大はずっとそれが聞きたかったらしかった。信大が心配してくれていることはわかったが、いくらなんでも雅野の口からEDなんてことは言えない。
「いいえ、大丈夫です。べつになにもありませんでした」
 落ちついてそう言うと
「そう、ですか」
 信大はまだなんとなく心配しているようだったが、それでも雅野の言うことを受け入れてくれた。
「ああ、雅野さんのことが心配で後回しにしてしまいましたが、正規職員になったこと、おめでとう」
「ありがとうございます。これもみんな信大さんのおかげです。これからも一生懸命仕事しますのでよろしくお願いします」
 ここは事務室だったが、迷わず信大さんと言った雅野に信大が小さく笑った。
「お祝いにこれから食事を一緒にどうですか。明日は休みではないですが」
 明日は休みではないがと言った信大の言葉に雅野は思わず笑顔になった。いつもふたりが会うのは休みの前夜からだったが、それが今夜はどうかと誘われている。食事だけでなくきっとその後のことも。
「うれしい」
 夢中で雅野は答えた。一緒に通用口を出て信大に手を取られるともう雅野の胸のどきどきが止まらない。仕事場で毎日顔を合わせても、休みの前の日は必ず抱き合っても、やっぱりこんなにも好きなのだ。





「11月の休みの日程が決まったのですよ」
「え……、休み……?」
 胸に唇をつけられながら信大に言われたが、この体勢では雅野はうまく答えられなかった。
「特別展の前に休みがあると言ったでしょう?」
 雅野はよく思い出せないままにこくこくと頷いた。ベッドの上で信大の腰をまたいで固くそそり立ったものの上に雅野が腰を沈めたところで、信大は上体を起こして自分の前に座った雅野の胴を抱き、ふるんと張り詰めた乳房に唇をつけていた。
「そのときに一週間、いやその前の週もですが……、ここへ来てもらえませんか」
「信大さんの家に……?」
 そうだというように信大の唇が乳房の上を動くにつれて雅野の腰が浮きそうになってしまうが、信大に抱きしめられているために動けずにのけぞってしまう。信大の顔の前にある盛り上がった乳房の赤い先端を口に含まれるともう話すどころではなくなってしまった。
「あ、あ、いやぁ……」
「嫌ですか」
 嫌なわけがない。でも今夜の信大はちょっと意地悪だ。
「こ……こんなときに、……言われても……」
「すみません」
 謝りながらも信大の動きは止まらない。ころころと舌で転がしていた先端がきゅうっと吸われて雅野はもがくように腰を振った。
「悪い人だな。そんなことをしたら僕もすぐにいってしまう」
 いたずらっぽく言う信大の乳房にあたる息が熱く感じる。
「でも、答えて」
 無理だ。答えることなどできない。
 雅野の口からは喘ぎ声がこぼれるばかりだ。信大の家でふたりきりとはいえあまりに喘ぐのは恥ずかしいのに信大は雅野の声を楽しむように乳首を吸い上げている。固く膨れ上がった乳首が信大の口の中でいっぱいになっているように感じられて、雅野は中にいる信大をきつくきつく締めつけた。
「は……、たまらないな……」
 かすれ気味の信大の声に胸をなでられて、それだけで雅野は絶頂に押し上げられてしまった。反らせた腰の中で信大のものが何度か上下して、そして長い息が吐き出された。



 汗ばんだ体を抱かれたままで雅野は満ち足りた快感の名残りと、だるいような体の疲れと、そして肌に感じる信大の存在にうっとりと息をついていた。

 信大がEDだなんて、とんでもない言いがかりだ。
 こんなにも気持ち良くされて、さんざんに啼かされているのに、でももっとうれしいのは信大自身も達しているからだ。信大はいつも避妊具の後始末もきちんとしているが、信大が達している証拠は雅野も目にしていたし、なによりも雅野の体が感じていた。

 いつも信大に抱かれるたびに上手だと思っていた。年齢もずっと年上だし、そもそも経験値が違うのだと。
 そんなことを思うときも結局は信大の愛撫にいつの間にか忘れてしまっていた。与えられる快感が大き過ぎてすっかり夢中になっていた。
 それに信大のゆったりとしていながら熱い抱きかたは、たいして好きという気持ちさえないままに男に抱かれていた雅野に、好きな人に抱かれることがなによりも快感なのだと教えてくれた。

 くすっと漏れてしまった笑いに信大が顔をあげて雅野に近づけてきた。
「なにを笑っているの。かわいい顔で」
「信大さんが好きなんだなあって。幸せで、気持ちが良くて」
 ふふっと笑う雅野の頬に信大の唇がついてくる。
「そういうことを言うともっと喜ばせてあげたくなりますよ。素直でいやらしい雅野さんを」
「えっちなのは信大さんですよー」
 雅野が人差し指でつんと信大の唇をつつくと信大が目じりをさげて少年のような顔で笑った。
「そうかもしれませんね。雅野さんといると自分でもそう思います」
 つまりはお互いが求めあっているということだ。
「だから雅野さんがお客の男と話しているだけでなんとも言えない気分になりますね。これが妬けるってことかと思って若い男が来たりすると気が気ではありません。今日だって敬輔が来るというだけでむかつきました」
「ええっ」
 そんな素振りなど一度も見せたことのない信大だったから雅野は単純だけどまた驚いてしまった。でも自分よりずっと大人な信大が妬いてくれるならそれはそれでうれしい。
「だから休みのあいだはここにいて僕に独占させてください。いいですね」
 独占、そう言われただけで雅野は体の奥が熱くなってしまった。それが信大にも伝わったのか抱き寄せる力が強くなった。
 やっぱり敬輔の言ったことを信大さんに言わなくてよかった。そう思いながら雅野は11月の休館中の休みは信大の家で過ごすことを約束した。



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