六月のカエル 14


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 信大はいつものように佐倉が帰る午後5時になる前に事務室へ来てお疲れ様でしたと挨拶を交わすとその足で雅野のいる受付に来た。閉館までの1時間は事務のデスクで仕事をすることが多い信大だったが、今日は受付の雅野のとなりに来ると黙って座った。なにも言わず座った信大を雅野がそっと窺うように見たが、信大はじっと前を向いたままだった。
 受付から見える入口のガラスのドアの外はまだ夕方には程遠い明るさで、西日に照らされているところはかなり暑そうだったが、すでに客はなく館内には静かな空調の音だけが聞こえていた。

「敬輔になにか言われましたか」
 信大がふいに言ったが、顔は相変わらず前を向いたままだった。
「あ……、いいえ」
 北之原敬輔の態度は不快なものだったが、言葉ではたいしたことは言われていない。そう思って雅野は小さな声で答えたが、よく見ると信大は前を向いたまま苦い顔をしていた。
「不愉快だったでしょう。敬輔は遠慮がなさ過ぎる。今度あんなことをしたら蹴り出してやる」
 信大にしては珍しく乱暴なことを言ったが、やはり信大も雅野に対する敬輔の露骨な視線に気がついていたのだろう。
「わたしなら大丈夫です。あの人は滅多にお見えにならないそうですし、わたしが気にしなければいいことですから」
「敬輔のこと、佐倉さんから聞きましたか」
「はい、財団の理事のおひとりだと」
 雅野はなるべく当たり障りなく答えた。信大が心配してくれるのはうれしいが、信大と北之原敬輔の関係が悪くなってしまったらきっとまずいだろう。なんといってもむこうは財団の理事で、信大は副館長という力関係だからだ。
「あの人も根は悪い人ではないのですが、なんというか……困った人だ」
 信大がかすかにため息をつきながら言ったが、雅野は同意するわけにもいかず黙って聞いていた。雅野にしてみたらなんとも答えようがない。
「すみません、雅野さんに不快な思いをさせてしまって」
 そう言って信大がやっと雅野に顔を向けた。信大が謝ることではなかったが、雅野を思いやって言ってくれているとわかった。
「いいえ」
 静かな声で雅野が答えると信大の左手がすっと伸ばされて雅野の膝の上に置いていた手に重ねられた。カウンターの陰で力づけるように力が込められた信大の手はあたたかくて、雅野は思わず手を見て、そして信大の顔を見た。数秒の後に手が名残惜しそうに離れると信大の顔も前を向いた。信大の横顔を見ると穏やかな表情に戻っていて雅野もほっとした。



 次の日、開館前の時間を利用して信大から雅野と佐倉に新しい展覧会について説明があった。すでに展覧会のポスターやフライヤー(チラシ)が準備されていて、ふたりの前にも置かれていた。
「まあ、新しい展覧会ですか」
 佐倉がフライヤーを手になにやら感心したように言ったので雅野も新しいポスターとフライヤーを見た。
「すぐに告知も始まりますが、これが12月から始める特別展です」
 大きなポスターとB5サイズのフライヤーには「蘇る北之原コレクション」というタイトルが古風なロゴで印刷されていた。タイトルのまわりに陶器などの写真が配されているというオーソドックスなデザインだったが、これまで公開されていなかった北之原コレクションという説明が書かれていた。
「すごいですね……」
 じっと手にしたフライヤーを見ていた佐倉が雅野のとなりで言ったが、それは言葉少ないながらも展示品の素晴らしさに唸っているようだった。佐倉も長くここに勤めていたからそれなりに美術品には詳しいらしく、フライヤーの写真だけでそれがわかるようだった。
 雅野もフライヤーの写真に目を凝らしたが、古くて貴重な品物ばかりだと見当はついてもなにがどうすごいのかよくわからない。雅野は仕事には慣れたものの収蔵品についても日本美術に関してもまだまだ勉強不足だった。こんなことなら本でも借りて勉強しておけばよかったと思っても後の祭りだ。

「佐倉さんと藤田さんにも展覧会にそなえて概要を説明しておきましょう」
 雅野が内心激しく後悔していたのが通じたのかわからなかったが、信大が説明を始めた。
「今回特別展で展示するのは代々の北之原家の当主が蒐集してきた物のうち、五年前に北之原館長の父である北之原謙二郎氏が亡くなった後にこの美術館に寄贈されたものです。これらはすでに美術館に移されていたコレクションとは別のもので、謙二郎氏が個人で所有していた物です」
 北之原謙二郎という人は信大にとっては祖父にあたる人だと雅野は気がついたが、信大は淡々と『謙二郎氏』と他人行儀な表現を続けていた。

「謙二郎氏の所有していたものは、自身で蒐集した物よりも明治期に当時の当主が集めた物を引き継いだ物がほとんどです。北之原コレクションとは言っていますが、明治期に蒐集されたものは良く言えば当主の好みで、悪く言えば金にあかせて買い集めた物ですから、出どころのわからない物もありますし、残念ながら贋作(がんさく)と思われる物もありました。それが謙二郎氏が調査や鑑定を拒んでいた理由だったのかもしれませんが、国宝級といわれる物がいくつもあったのにもかかわらず謙二郎氏の所有品は長らく幻と言われていました」
 自分の先祖のこととはいえ信大の説明はなかなか正直だった。
「謙二郎氏の死後に寄贈されてからは調査分類をして、修復が必要なものはそれを依頼したりでかなり時間がかかってしまいましたが、今回やっと展示の運びとなりました。これで北之原コレクションを見てもらえるようになったということです」

 信大の説明が終わると雅野のとなりにいた佐倉がそっと拍手をした。控えめに音を出さないようにしているが信大への拍手だった。
「北之原さん、おめでとうございますと申し上げてもよろしいですか」
 佐倉の感嘆した様子と拍手に雅野はびっくりしてしまって佐倉と信大を見ていたが、信大はちょっと照れるようにしてふたりの前でほほ笑んだ。
「大袈裟ですよ、佐倉さん」
「でも、あれだけの品物をおひとりでよくご研究されました。私が二年前に退職したときには公開がこんなにも早くされるとは思っていませんでした。ひょっとしたら公開されることはないのかもしれないと思ったほどです」
「僕も正直言って途中で何度も行き詰まりました」
 そう言って信大はさりげなく雅野のほうを見た。
「自分で言うのはなんですが、僕は研究者としてはまだまだひよっ子みたいなものでした。それでもなんとかここまで漕ぎつけたのは外部の研究機関が協力してくれたおかげでもありますし、館長が僕に任せてくれたおかげでもあります。そして事務をしてくれている佐倉さんや藤田さんのおかげでもありますね。ひとりではなんともならない事もあるのだとつくづく思い知らされた五年間でした」
 静かに、それでいて諦念めいたふうにも聞こえる信大の言葉を雅野は聞いていたが、自分の仕事として美術館の仕事をしているといつか信大が雅野に言った言葉が思い出された。

「特別展は一回で終わりというわけではありません。今後もより多くの人に見てもらうためにも展示を入れ変えながら年二回の特別展を行っていく予定です。すでに研究者や専門家の関心も高く、一般の来館者も多く見込まれます。特別展の開催中には雑誌やテレビなどのメディアからの取材も受けることになっています」
 まあ、と驚きの声を上げた佐倉と雅野は思わず顔を見合わせていた。メディアの力の大きさは佐倉や雅野でもわかることだった。

「さっそくですが今日からおふたりにはポスターとフライヤーを発送する仕事をお願いします。送り先はリストアップしておきましたので。通常の仕事の傍らにやってもらうことになりますが、よろしくお願いします」
 ほかにも信大からいろいろな指示が出されて、今日から雅野と佐倉も仕事が増えていた。
「それから特別展の前には準備のために二週間ほど休館することになりました。佐倉さんと藤田さんには休館中にも一週間ほど準備のために出勤してもらいますが、一週間は休みになります。詳しい日程は決まったらまたお知らせしますので」
 信大からさまざまな予定が書き込まれた予定表を示されて雅野はこれから忙しくなりそうだと思いながら聞いていたが、一週間も休みがあると聞いてむしろ意外だった。信大の説明によると展示場のレイアウトを変えるために専門の業者に依頼して工事を行うという。今よりも展示会場を広げるそうで、それだけでも今度の展示会が重要なものだということが雅野にも感じられた。

「あ、それから来週には館長が来られることになりました。北興商事の監査役をされている杉本さんも一緒です。特別展で展示する物をあらかじめ見てもらうためという事で対応は僕のほうでしますが、来られる日は通常の開館日ですので来館者に差し支えのないよう迎えてください」
「はい」
 佐倉と一緒に雅野も気持ちを引き締めて返事をした。そして自分用にもらったフライヤーの一枚を雅野は大切にファイルへ入れておいた。



 館長である北之原正範と連れの監査役が来る日はすでに十月になっていた。館内にはすでに12月からの特別展のポスターが目立つ位置に展示されていて、黒塗りの車から降り立った北興商事の社長でもある館長の北之原正範と、似たような年齢で恰幅の良い監査役がポスターの展示された前へ入って来た。
「いらっしゃいませ」
 受付にいた雅野と佐倉が挨拶をすると信大もすぐに出てきた。
「信大君、久しぶりじゃないか。今日は先代のコレクションを見せてもらえると言うので社長に無理を言ってついてきたんだ」
「この人は数寄者で有名だからね。私などよりもよほど見る目がある」
「なにをおっしゃる」
 信大をはさんで、見るからに取締役という感じの北之原正範と監査役は親しそうに話していたが、ひょいっという感じで北之原正範が佐倉と雅野へ向き直った。
「佐倉さん、久しぶりですな。信大から聞いていましたが、よく復帰してくださった。これからもよろしく頼みますよ」
「お言葉痛み入ります。ありがとうございます」
 佐倉がきっちりと礼を述べてお辞儀をした。雅野もつられてお辞儀をすると北原正範はゆったりとした笑顔で応えた。
「ところで藤田さん、どうですか。もう仕事には慣れましたか」
「はい、あの、まだまだですが、副館長と佐倉さんのおかげです」
 自分にも話しかけられて雅野はどきまぎしながらも答えた。
「それは結構ですね。藤田さんには引き続き正規の職員として働いてもらうことになったので、あとで信大から辞令を受け取ってください」
「あ、ありがとうございます」
 試用期間が終わることを雅野はすっかり忘れていた。というか意識していなかった。
「よかったですね」
 となりで佐倉が小さな声で言ってくれて、やっとそうだったと実感が湧いてきた。
「藤田さん、よろしく頼みますよ。とくに信大のことは」
「館長」
 雅野がえっと思うよりも前にすかさず信大が話を遮った。
「ここは受付の前ですから」
「お、すまん、すまん。だが相変わらず堅いな」
 北之原正範は鷹揚に笑ったが、信大は真面目な顔で叔父を見ていたものの視線がちょっと厳しい。この人はなにを言いだすんだと信大が思っていることは明らかだったが、しかし北之原正範の後ろで杉本監査役までもが笑いをかみ殺しているような顔つきだったので雅野は恥ずかしさに顔が熱くなりそうだった。

「ではおふたりは2階の研究室へどうぞ」
「あ、それから」
 信大が案内しようとしたが、北之原正範が思い出したように雅野と佐倉のほうに言った。また信大とのことを言われるのかと雅野は身構えてしまったのだが。
「あとから敬輔が来るので、よろしく。一緒に来るはずだったんだが、出先で渋滞にはまって少し遅れると言っていたので」
「敬輔が来るのですか」
 信大も知らなかったらしい。
「ああ、昨日急に一緒に行くと言い出してな。敬輔も私と同じで美術品には関心がないと思っていたが、理事のひとりにしていることだし、きちんと収蔵品を見ておくことも悪いことではあるまい」
「そうですね。では敬輔が来たら研究室に案内してください」
 信大がさらりと言って佐倉が「かしこまりました」と答えたが、雅野は佐倉と一緒にお辞儀をすることしかできなかった。さっきまで北之原正範の鷹揚な言葉にどぎまぎしていたのに急に空気までも変わってしまったかのようだった。



 信大たちが研究室へ行ってしまうと、館長たちのお茶の接待は後で良いと言われていたので雅野と佐倉は通常の仕事に戻った。今日は平日で一般の来館者もいる。12月のからの特別展が告知されたからか、まだ特別展は先のことなのにだんだんと訪れる人が増えてきているようだった。受付前に置かれた特別展のフライヤーもほとんどの人が手に取っていく。

「親父たち、先に来ているだろ」
 思った通り、入ってきて挨拶もなしに北之原敬輔が受付カウンターへ来て言った。
 敬輔が入ってきたときに雅野は佐倉といっしょに受付にいたので、佐倉と一緒にお辞儀をした。
「いらっしゃいませ。館長たちは研究室にいらっしゃいますのでご案内します」
 答えた佐倉に敬輔は一瞥しただけで返事もせずにとなりにいる雅野を見ていた。
「あー、行く前にちょっと水飲ませてくれる? 車混んでてさ、急いで来たから暑くて」
 ざっくばらんというか傍若無人というか、雅野ばかりを見て話しかけてくる。
「ここへ持ってきてくれればいいよ」
 敬輔はそう言ったが、受付の前で水を飲まれるのはちょっと困る。間の悪いことにちょうどそのときふたり連れの来館者が入って来た。
「藤田さん、奥へご案内して」
 来館者に対応するために佐倉が素早く言ったため、雅野はすぐにカウンターを出て敬輔を事務室のほうへ案内した。

「ミネラルウォーターでよろしいですか」
 事務室奥の冷蔵庫から来客用に用意してあるミネラルウォーターのペットボトルとグラスを盆に載せて持ってきたが、敬輔はペットボトルだけを取ると自分でキャップを開けて飲み始めた。直接口をつけて飲んでいるので雅野は立ったまま待っていたが、飲み終わると敬輔はにっと笑顔になって礼を言った。
「ありがと。残り、もらっていい?」
「どうぞ、お持ちください」
 敬輔の笑顔と礼を言われたことに雅野の警戒が少しだけ緩んだ。
「では2階のほうへご案内します」
「うん」
 雅野が前に立つようにして階段を上がったときだった。ふいに敬輔の声が後ろから聞こえてきた。
「親父から聞いたけど信大とつきあっているんだって?」
 雅野は、やっぱりこの人失礼だと思ったが、なにも答えなかった。
「雅野ちゃん、なんとか言ってよ。べつに悪いことだと言ってるんじゃないんだからさ」
 いつのまにか『雅野ちゃん』だ。
「つきあうんなら俺にしない? 俺のほうが北之原家の跡取りだよ」
 まったく雅野にとって愚にもつかないことばかりを言う。
「すみません、そういうことは」
 信大の冷静さを精一杯まねて雅野は答えたが、やっと答えた雅野に敬輔はまたにっと笑った。
「言えないか。そうだよね。だけど雅野ちゃんは信大みたいなEDでもいいの? あいつが離婚した原因ってそれだからね。そういう男でもいいわけ?」

 ……え?
 ED?
 聞いたことあるけど、確かそれって……。

 敬輔の言っている言葉の意味が咄嗟にはわからなかった。びっくりしてただ敬輔を見るばかりだったが、敬輔はそんな雅野をにやにや眺めている。
「ま、なにか困ったことがあったら連絡してよ。そっちのほうの相談にもいつでも乗るから」
 なにも言えないでいる雅野の手の中へ名刺を入れると敬輔は自分から失礼しますと声をかけて研究室のドアを開けて入っていった。



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