六月のカエル 13


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 休み明けの日に北之原美術館に来たのは五十代後半の小柄な女性だった。
「こちらが佐倉さんです。佐倉さん、先週から入った藤田雅野さんです」
「藤田雅野です。よろしくお願いします」
 信大が紹介して雅野が挨拶すると佐倉という女性も品の良い笑顔で挨拶した。ショートカットの髪は染めてないようで少し白髪が混じっていたがきれいに整えられていて若々しい顔と良く合っていた。
「こちらこそよろしくお願いしますね。私はパートとして働かせてもらいますが二年もブランクがあるのでお役にたつかどうかわかりませんが」
 佐倉は信大の言う通りしっかりした人という印象だった。
「佐倉さんは当面は週に五日、夕方5時までのパート勤務をしてもらいます。それと月に一度ご主人と病院へ行かれる日は休まれますので藤田さんも承知しておいてください。それ以外の休みや勤務時間などは予定表を作っておきましたので三人でスケジュールを調整するようにしましょう」
 用意の良い信大が一か月ごとの勤務予定表を作ってあった。
「すみません、主人が病院へ行くのにどうしても付き添わなければならないものですから」
 そう言いながら佐倉は信大だけでなく雅野にまで頭をさげた。
「いえ、それを承知でこちらも働いてくださるようお願いしたのですから。佐倉さんにいてもらえたら藤田さんも交代で週休を二日取ってもらえますしね」
 あ、そういうこともあるのかと雅野は考えながら信大と佐倉の会話を聞いていた。
「とりあえず僕のほうの予定を書いておきました。今週は僕のほうに来客の予定がいくつかありますのでよろしくお願いします」
「はい」
 雅野と佐倉が同じように答えたが、佐倉は雅野を立ててか小さな声で答えていた。

「ここは全然変わってないですね。私が二年前に辞めたときそのまま」
 信大が開館の準備に行ってしまうと佐倉が事務室に並んだデスクをなつかしそうに見回した。
「佐倉さんのデスクはこちらでいいですか。以前もこちらをお使いだったと北之原さんが言われてましたので」
 デスクに準備しておいたボールペンなどの事務用品は雅野が揃えておいたものだ。
「ありがとうございます。藤田さんのようなお若いかたと仕事をするのは初めてだけどよろしくお願いしますね」
 佐倉は変にベテランぶったところなど見せずに静かな笑顔で雅野が用意しておいた事務用品を有難そうに受け取った。佐倉が穏やかな人柄らしいのが感じられて雅野はつられてほほ笑んでいた。

「そういえば」
 佐倉がデスクの前に座るとちょっと考えるような仕草をした。
「北之原さんと久しぶりにお会いして驚いてしまいました。あの北之原さんがって」
「え、なんのことでしょうか」
 急に信大と言われて雅野はどきっとしてしまった。
「黒縁の眼鏡はやめたのかしら。藤田さんは北之原さんが眼鏡をかけていたことをご存じですか」
「あ……!」
 雅野は佐倉に言われて初めて信大が眼鏡をかけていないことに気がついた。いつから眼鏡をかけていないのだろうと思いだそうとしてみたがはっきりとは思い出せなかった。
「えっと、先週くらいまでは眼鏡をかけていたと思いますけど」
「そうですか。仕事に関係ないことを聞いてしまってごめんなさい」
 雅野が自信なげに答えたためか佐倉は笑ってそう言ってからもうそのことに触れることはなかった。
 一緒に仕事をするようになると佐倉はさすがにここの仕事を長くしていただけあって雅野のほうが仕事を教えてもらうことが多かったが、しかし佐倉は偉ぶったりもせず淡々と仕事をするタイプの人だった。そして雅野も気がつかないうちに佐倉はすっかり今の北之原美術館に馴染んで落ちついていた。



「美術館で働く人って似たようなタイプの人が集まるのですか」
 休みの日、雅野は真顔で信大に聞いてしまった。
「似たようなタイプですか。僕と佐倉さんが?」
「えっと、信大さんと佐倉さんは仕事の仕方が似ているように思えます。それに、いつも落ちついているというか」
 雅野が言うと信大は夕食のカレーを煮込んでいる手を休めてちょっと笑った。
「僕も事務に関していえば佐倉さんに教えてもらいましたから仕事のやり方が似ているのは当然かもしれませんね。でも、どんな仕事にも向き不向きというのはあるんじゃないでしょうか。だから向いている人が集まるというか残るということはありえますね。美術館の展示の監視、あれはずっと座って見ていなければならないでしょう。ああいう仕事は苦手で、できればやりたくないという人も結構いますよ」
「そうですか? わたしはそう思ったことはないですけど」
「それは雅野さんも美術館の仕事に向いていたってことですよ」

 信大はなにげないふうにさらっと言ったが、雅野は美術館の仕事に向いていると言われて恥ずかしいようなうれしい気持ちになってしまった。信大の性格を映したようだと感じていた北之原美術館の雰囲気、それに雅野が向いていると言われればうれしくないはずがない。
「信大さんにそう言ってもらえるなんて」
 雅野が少し照れながら言うととなりにいた信大が向き直った。
「もう少しして雅野さんが正社員になったら週休二日にできますよ」
「え、本当ですか」
 いまのままでも雅野はいいと思っていたが、休みの日が増えることはうれしい。信大と過ごせる時間が増えるからだ。と思ったが、信大も一緒に休みになるとは限らない。
「わたしだけ? 信大さんは?」
 思わず聞いてしまった雅野の顔を見て信大も笑った。
「そんなふうに言われたら僕も週休二日にしたくなってしまいますよ。でもしばらくは無理かな。来年から新しい企画をすることになっていますから」
「新しい企画?」
「決まったら話しますよ。まだ企画の細かいところを詰めている段階なので」
 新しい企画ってなんだろうと疑問顔の雅野の頬をちょんとつつくと信大はお玉で鍋のカレーを少しすくって乗せた小皿を雅野の前に差し出した。

「味見してみてください」
「あ、はい」
 雅野は信大の顔を見上げながら小皿の上のカレーを小さく舌を出して舐めた。
「おいしい……。すごくスパイスが効いていて、ルーで作るカレーと全然違う」
「僕のオリジナルですから。気に入った?」
 雅野がはいと答える前に信大の顔がすっと近づくと雅野の唇が信大の舌で舐められた。
「うん……、いいですね」
 雅野の唇に残ったスパイスの香りを舐め取った信大の唇がまたつけられてキスに変わる。キスはすぐに舌を絡めあう深いキスに変わり何度も繰り返された。こうなると雅野からは顔を離せなくなって信大が唇を離すまでは息を継ぐことしかできない。
「こっちのカレーのほうがいい味ですよ」
 とても甘いキスなのにいくつものスパイスの混ざった辛さの残る口の中を愛撫されて雅野はなぜか恥ずかしくなって顔を赤らめた。口の中に残る味を探られるという原始的な本能を刺激するキスを信大がする、それだけでも体が熱くなる。
「食事は後にしてベッドへ行きましょうか。それとも一緒にシャワーを浴びる?」
 普段は真面目で固い雰囲気なのにふたりでいるときの信大は自分の熱情をさらりと言うから、それだけでも雅野はくらくらしてしまいそうだ。
「両方……」
 欲張りな雅野の答えに信大が笑うと雅野は手を伸ばして信大の髪を乱した。大人なのに、いや、大人だから色っぽいことも平気で言う信大が憎らしい。
 今日も信大は眼鏡をかけておらず、髪を乱されて前髪が額に落ちて笑っている目元がはっきりと雅野に対する欲望を表している。そして見つめる信大の熱のこもった視線によって雅野もいとも簡単にスイッチを入れられてしまう。心をなでる信大の思いやりの言葉と心地良い手に引き込まれてしまいたいと願ってしまう。

「ここに座って」
 低くささやく信大の声に導かれるように雅野は暗い部屋の中でベッドに腰掛けた信大の上にそろりと腰をおろした。シャワーを浴びたばかりでまだ湿り気の残っている雅野の肌に手がかかり、後ろから支えられて雅野の開いた足のあいだへと当たる固い感触を感じる。
「……は」
 雅野の体が下がるのにつれて信大の固い楔(くさび)を飲み込んでいく感覚に息を詰めたがシャワーを浴びながらくまなく愛撫された体の中は充分過ぎるほど濡れていて、動かない信大のものが少しずつ奥を占めていく。
「力を抜いて」
 雅野を支えながら信大が雅野の耳へささやくと、ためらいの残っていた雅野の体から力が抜けて完全に信大の上に座った。それだけでも体の最奥に届いている信大を感じずにはいられないのに、後ろから回された信大の手でたっぷりとした乳房を包まれている。
「あ……」
 肩へつけられた信大の唇が背中へと這っていく感覚が体の芯へ伝わって雅野はふるっと体を揺らした。体が揺れれば乳房も大きく揺れて、信大の男の手でも包みきれない丸みの先端が指の隙間からはみ出している。
「あ……、ふっ……」
 思わず声が出てしまったが、首筋にまで唇を這わされながら背中から包まれているのがひどく心地良い。雅野の体のすべてが信大に抱き込まれているようで、信大を受け入れているところがじんわりと熱く、信大が動かないのに雅野の中はとろとろと蕩(とろ)け続けている。
「いや……、くすぐったい」
 信大の手に乳房を持ちあげるようにゆるゆると揉まれるのがくすぐったいのに気持ちが良くて、笑いをもらしながら雅野が言うと後ろで信大もほほ笑んでいる気配がする。
 この頃の信大は堰を切ったような激しさを潜めて雅野をじっくりと丁寧に抱くようになっていて、それが雅野には果てしなく続く愛撫のように感じられてしまう。笑いながらささやきあっていると熱が下がることはなくいくらでも湧いてくるのだ。

「雨が降ってきましたね」
 体へ直接響く信大の声に雅野が顔を上げた先に見える天窓に九月の夜の雨が当たり音をたて始めたが、雅野が雨を気にする余裕はすでにない。それでもなんとか顔を上げたのは止むことなく続けられる信大の愛撫に体中が占められて持っていく行き場のない快感を少しだけ逃がしたいだけ。徐々に強くなってきた信大の突き上げに雅野が体を伸び上がらせるとふっと乱れた信大の息が雅野の背に伝わってきた。
「ここにも雨が降っている……」
 言いながら雅野の足のあいだへ信大の片手が滑らされて隙間へと差し込まれると思わず腰を浮かしてしまいそうになってしまったが、信大の上から離れられるわけがない。雅野が腰を反らすほど、喉をのけぞらせるほど、信大の手は張り詰めた乳房の先を指で揉み込み、信大に中を占められているだけでもたまらないのに痛いような快感がふたつの先端から絶えず伝わってきて雅野はもっと体を動かしてしまうが、そのたびにふたりの肌の重なったところから水音が漏れる。
「し、信大さん」
 けれども信大は答えずに溢れ出たとろみで濡れたそこから信大の指先が擦るたびに濡れた音がはっきりと聞こえて雅野の体はびくびくと縮み上がった。
「すごく締め付けていて……雅野さんに抱かれているようだ」
「そんな、あっ……」
 自分ばかりが啼かされていると思うのに、もう雅野には抗う術は残されておらず、体の揺れと共に途切れがちな、それでいて長く吐き出される息が甘い震えを帯びて止めどなく湧いてくる。際限なく感じる快感に頭を振る雅野の目に涙がにじんでほろりとこぼれた。その涙に気がついた信大のさらに強い突き上げを感じながら雅野は目に見えない雨に打たれて揺れ続けた。
「一緒にいきましょう」
 短く言った信大の言葉に雅野は答えることもできずにもがきながら体を反らした。雅野の固く上を向いた乳首がきゅっと信大の指に挟まれて最後の高まりへと導かれながら最奥で避妊具の膜越しに信大の熱い迸りを感じるとまた達してしまった。自分でも不思議に思うほど信大には何度でも達せられて、またいかされてしまう。
 そうして何度尽き果てた後でも顔を寄せて投げ出した手足をやさしく抱いてくれる信大。裸の体を隠すこともできない雅野をきれいだとささやいてくれる信大。そんな信大に雅野は好きと繰り返すことしかできないが、お互いの体に触れあうこの時が今の雅野にとっては仕事のこともすべて忘れて夢中になれる悦びだった。
「わたし、絶対に信大さんの中毒になっている……」
 目を閉じながら信大の胸に言ったが、信大に聞こえているのかいないのか、抱き合ったまま信大も眠りへと落ちていった。



 ***


 九月も末になってようやく秋の気配が感じられるようになっていた。北之原美術館は夏休み以後はそれほど来館者も増えず、落ちついた状態だった。外界は残暑が厳しかったが相変わらず館内は涼しく、季節を感じさせるものは受付にいる雅野や佐倉の服装だけといってもよかった。小規模の美術館であるせいか季節ごとのイベントを行うこともなく、変わりのない毎日だったが九月になってから少しずつ来客が増えているように雅野には思えた。来客というのはおもに信大への客で、信大からは新しい企画のために展示に関する変更があると説明があったので来客もその関係の業者や営業が多かった。その男が来たときも雅野は業者関係の人かと思ったが、男は美術館の前に車を止めてひとりで入って来た。

「信大いるか」
 カウンターのほうへ歩いてきた男は黒いスーツを着ていたが、それがビジネススーツではあったがいかにも高級そうなスーツだった。そして男は信大と同じくらいの年齢だったが、無造作に呼び捨てにした。この人なんだろうと一瞬雅野は疑問に思ってしまったがすぐに座っていた受付の椅子から立ち上がった。
「副館長でございますか」
「あんた、新しく入った人?」
 高級なスーツに似合わないぞんざいな口のききかたで言いかけた雅野を遮った男はカウンターのすぐ前まできてじろじろと雅野を見ていた。
「あ、はい、そうですが」
「へえ、あんたがねえ」
 なにか含みのある言いかただった。それに信大を呼び捨てにしたことも雅野には引っ掛ってすぐには言葉を継ぐことができなかった。
「あ、これは北之原様」
 話し声が聞こえたからかすぐに佐倉がカウンターの後方の事務室から出てきた。佐倉はこの男を見知っているようで、確かに「北之原様」と言った。
「藤田さん、内線で副館長に北之原理事がお見えだと伝えてください」
「あ、はい」
 佐倉が出てきてくれたことにどこかほっとしながらも雅野は急いで二階の収蔵庫にいる信大に内線電話をかけた。
『……北之原理事?』
 佐倉に言われたとおりに伝えたが信大は明らかに不審そうに言った。この時間に会う約束もしていないようだった。
『わかりました、すぐに行きます。北之原理事は館長室のほうへ案内しておいてください』
「副館長はすぐに参りますので館長室のほうでお待ちください」
 電話を切ってすぐに雅野は言ったが、カウンターを挟んで雅野が電話をするのを聞いていた北之原理事という男はふんと鼻を鳴らした。
「すぐに来るんだろう。ここでいい」
 あまりに失礼な男の態度に雅野は驚いてしまった。こんなに横柄な人は見たことがない。北之原一族らしく服装からしてビジネスマンらしかったが、整った服装とは裏腹にあまり良い印象は受けない。
「北之原様、どうぞ館長室のほうでお待ちください」
 佐倉も言ったが、男はカウンターの中の雅野をじろじろと見ていて返事もしなかった。その遠慮のない視線が自分の胸に注がれているのを感じて雅野は少しだけ佐倉の後ろへと下がった。
 ――胸を見られている。
 大きな胸のせいでこれまでにも男の視線を感じたことはあるが、この男の無遠慮な視線は近すぎて不快だった。少し後ろに下がったくらいでは男の視線を避けることはできないが、なるべく目立たないように雅野は身を縮めていた。

「北之原理事には館長室でお待ちいただきたいと伝えたはずですが」
 不意に信大の声がして信大がカウンターの前へ出てきた。カウンターと男との間に立つようにしながら信大は言ったが、男はなおも雅野を見ていた。
「北之原理事、館長室で話をうかがいます」
 ことさらに慇懃に信大が言うと男はやっと雅野から視線を離した。
「いいんだ。これを持ってきただけだよ。親父からだ」
 男は書類が入っていると思われる立派な封筒をひらひらとさせて信大の前へ出した。
「わざわざご足労いただかなくても受け取りに行きましたのに」
 無表情で封筒を受け取った信大が言ったが男はまた雅野に視線を戻して見ていた。
「俺もこの美術館の財団法人の理事のひとりだからな。新しい展示をするそうだが、ここも採算が合わなければやっていけないんだからせいぜいがんばってくれ」
「ありがとうございます。書類は確かに受け取りました。北之原館長にもよろしくお伝えください」
 礼は欠いてなかったが、ただそれだけといった信大の答えに男はなんとなく粘るふうで雅野を見ていたが、信大がさらに前に出たのでくるりと踵を返した。男の車には運転手が待っていたらしく、出口を出ると運転手が慌てて出てきて車のドアを開けた。
 なにも言わず車に乗り込む男を信大が頭を下げて見送る。信大がそこまでする相手が何者なのか雅野はわからなかったが、佐倉と共に美術館の中から頭を下げて見送った。雅野が顔を上げたときにはすでに信大が中へと戻ってきていたが、信大の顔はまったくの無表情だった。
「収蔵庫に戻ります」
 ふたりにそう言って信大はすぐに二階へ上がっていったが、雅野が振り返って見た信大の後ろ姿はどこかしら怒っているようだった。

「あの、佐倉さん、あのかたは」
 信大の姿が見えなくなってしまうと雅野は小さな声で佐倉に尋ねたが、佐倉はなんとなく案じ顔で答えた。
「北之原館長の息子さんで、美術館の財団の理事のひとりでもある北之原敬輔さん。北興商事の専務ですよ」
 ああ、やっぱり北之原社長の家族なんだと思ったが、でも鷹揚な北之原社長とは似ても似つかない態度だった。信大とは従兄になるのだろうが、信大もあの人が得意ではないように見えた。

「藤田さん、こんなこと言うのはなんだけど」
 佐倉の心配そうな声ではっと雅野は引き戻された。
「北之原敬輔さんは女性に手が早いそうだから気をつけたほうがいいわ。気をつけてね、藤田さん」
「え、でも」
 北興商事の専務ともあろう人が、と言いかけて雅野はさっきの雅野の胸を見る北之原敬輔の視線を思い出してしまった。あそこまであからさまに見られたことは最近なかったが、不愉快なのは変わりはなかった。



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