六月のカエル 12


12

 目次



 初めての出勤日、雅野はやはりスーツで行こうと決めた。なんといっても初日だ。
 美術館ではすでに信大が来ていて通用口の扉の前で待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます、待っていましたよ、雅野さん」
 丁寧な挨拶を返した信大がまだ建物の外だからか雅野の名前を呼んだ。信大が仕事中は節度をもってと言っていたことは忘れてはいなかったが、初日の緊張のなかで雅野は名前を呼ばれてどきっとしてしまった。
「はい、今日からよろしくお願いします」
 駅から美術館まで歩いてくるだけで暑くて汗の吹き出る八月の朝だったが、いつもはクールビズでノー上着、ノーネクタイの信大が今日はスーツを着ているのを見て雅野もスーツを着てきてよかったと思った。お互いにスーツ姿を見るのは初めてだったが信大はにこりと笑ってすぐに通用口から館内へ案内してくれた。
「ここが事務室と受付カウンターです。どうぞ」
 入口ホールに設けられた来館者が入館料を支払う受付カウンターは後ろで事務室とつながっている造りだったが、事務室の前には仕切りの壁があって来館者からは見えないようになっていた。雅野は何度もここへ来たことがあったが、受付カウンターの奥が事務室になっていることは知らなかった。
「これが藤田さんの身分証ですので、ここにいるときは首からさげていてください。あとでセキュリティの説明をしますので」
「はい」
 信大は差し出したひものついた身分証を雅野が首にかけるのを見ていたが、雅野は気恥ずかしく感じる気持ちは抑えてもたもたしないように気をつけていた。
「まだ開館時間ではないので大丈夫ですよ」
 なにが、とは信大も言わなかったが緊張している雅野に信大はいつもの静かな口調で言った。
「今日は初日ですので、僕と一緒に受付に座ってください。カウンターまわりのことはお客がいないときに少しずつ説明していきましょう」
「はい」
 言われたとおり開館準備が済むとふたりで受付カウンターに座って信大が入館料のことなどを説明してくれた。雅野はこういう受付の仕事は初めてだったが、以前働いていた会社でも一階には受付があったから受付がどんな仕事をするかおおよそは知っていた。接客もバイトで経験があったから初めてではなかったが、ここはバイトのカフェではない。自分が客として来ていたときの信大の対応を思い出して心の中で復習しながら雅野は座っていたが、開館時間を過ぎても来館者はすぐには来なかった。
 信大はカウンターの内側のデスクに置いたパソコンでメールをチェックしており、雅野がちらっと見ると気がついて雅野に向き直った。
「まあ、午前中はこんなものですよ」
 客が来ないことを信大はそんなふうに言った。
「ここは東京といっても23区内でもないのでお客の出足はいつも遅いのです。今日は木曜日ですし、お客は徐々に増えると思いますよ。それまで僕はここでできる仕事をしていますので」
「はい」
 雅野が答えると信大はまたパソコンに向かった。

 館内はしんと静まり、外の音さえもあまり聞こえてこない。美術館はどこもそうだが静かで空調が整っていて、外とは区別された空間が広がっている。雅野のいるカウンターの前ならまだ来館者の出入りがあるところだが、展示室や収蔵庫などは常に美術品の保存に最適な状態を保つための独特の密閉感がある。雅野は時折展示室のほうを見てみたが、ここへ通って来ていたときと変わらず静かだった。
「あの、すみませんが」
 信大のパソコンでの仕事の切れ目を見計らって雅野は声をかけた。
「はい」
 すぐに答えた信大に向き直られて雅野はほんの少し戸惑ってしまった。
「信大さんのことはなんとお呼びしたらいいのでしょうか。館長代理でいいでしょうか」
 仕事中に「信大さん」と呼んだらまずいのだが、雅野は他に誰もいないから今だけは許してもらおうと思いつつ聞いてみた。
「そうですね」
 信大は雅野の心配など意に介さず、穏やかに答えた。
「館長代理というのもおおげさですから普通に苗字を呼んでもらえれば」
「北之原さん、でしょうか」
「そう」
 まったく気取りもなく信大は答えた。会社で出世にしのぎを削っているビジネスマンのような尊大さは信大にはなかった。
「僕だけでなくほかの職員がいたときも普通に苗字で呼び合っていましたからそれでいいですよ」
「あ、はい」

 そのとき、ふたりの女性客が入ってきた。ふたりとも五十代くらいの友人同士といった感じだったが、すぐに立ち上がった信大が入館料を受け取るのを雅野も後ろで立って見ていた。ふたりの女性客は「ここは空いているわね」などといいながら物珍しそうにホールを見まわしていたが、すぐに展示室へと入っていった。
 それからは少しずつ来館者が続き、昼の休憩を交代で取るときには雅野も少しだけだったがひとりで受付に座った。もっとも信大が15分ほどで昼食を済ませてきたので雅野がひとりのあいだに客は来なかった。
 昼食は配達の弁当で、近くにコンビニなどもないので僕は一年中これですと信大に言われて雅野も同じにしてもらった。雅野は事務室の奥の給湯室を兼ねた控室でひとり弁当を食べながら、信大はひとりのときはいつ昼食を食べていたのだろうか、ほかの仕事で受付ができないときはどうしていたのだろうかと考えていた。のんびりした性格の雅野でも信大がひとりですべてをやるのは大変だろうと想像できる。とはいえ信大は雅野に仕事を教えなくてはならないから、信大の仕事の大変さがすぐに変わるわけではなさそうだった。

「これで閉館までのひと通りの流れは終わりです」
 閉館時間が来て受付カウンターまわりを整頓すると信大がそう言ったが、雅野はまだ慣れない緊張があって閉館と言われてもすぐにはピンとこなかった。
「今日はお疲れ様でした。時間ですのでまた明日」
「あ、はい。ありがとうございました」
 仕事の終わりを告げられ雅野が帰る仕度をすると信大もいっしょに通用口まで出てきた。
「お疲れ様でした」
 通用口の前で信大が静かな声でそう言って向き合った。
「慣れるまでが一番大変だと思いますが、少しずつやっていきましょう。また明日、待っています」
 最後の待っていますという言葉に少しだけ信大の恋人としての心情がのぞいて見えたようで雅野は今日一日の緊張がふっと緩んでしまいそうになったが、信大はまだ帰る様子には見えなかった。
「あの、北之原さんはまだ仕事ですか」
「ええ、少し。それから敷地内と館内を見回りしてそれから施錠しますので、雅野さんはお先にどうぞ」
 美術館だけあってセキュリティは厳重で、入ったばかりの雅野はまだ施錠をすることはできなかった。信大が仕事を終えるのを外で待っていようかと思わなくもなかったが、今日は信大も自分の仕事ができないでいただろう。だから今日は帰ったほうがよさそうだった。
「はい、ではお先に失礼します」
 雅野は明るい声でしっかりと言った。そうすることが今の雅野にできることだ。恋人としての会話ができないのはさびしかったが、それが我慢できないような子どもとは思われたくなかった。そう思いながら見上げた信大の顔がすっと雅野の耳に近づいた。
「気をつけて帰ってください。あとでメールしますから」
「はい……」
 やはり雅野の返事は小さな声になってしまったが、信大はいつもの笑顔に戻って見送ってくれた。

 次の日、雅野は一時間早く出勤した。早く行くことは昨夜の信大とのメールでも伝えてない。もし信大がまだ来ていなかったら少し待てばいいだけだと思いながら美術館へ行ったが、雅野が予想した通り信大はもう来ていた。
「どうしたんです。早いですね」
 おはようございますと挨拶した雅野に信大は驚きながら通用口を解錠した。
「僕も今、来たばかりですよ」
「たぶんそうじゃないかと思っていました。昨日も北之原さんは早く来ていたから」
「でも、どうして」
 信大に不思議そうな顔で尋ねられて雅野は少しだけ恥ずかしかったが思い切って言った。
「開館時間の前に少しでも仕事を教えてもらえないでしょうか。お客様が来ているときはカウンターの仕事がありますから。……あの、無理でしょうか」
 信大の都合も聞かずにそう言ってしまったが、雅野を見ている信大の顔がふわっと明るくなった。
「雅野さん」
 もう美術館の中だというのにいきなり名前を呼ばれて雅野はえっと思ってしまったが、信大は気にもしていないようだった。
「もちろんいいですよ。それではとりあえず一週間だけ開館前に研修という事で仕事をしましょう。でも無理はしないでくださいよ」
「はい、よろしくお願いします」
 雅野がお辞儀をして顔を上げると信大がにこりとほほ笑んでいた。美術館の中へ入ってしまえばはほとんど笑ったりしない信大だったがが、、雅野にはそれから一日の仕事の間中、信大がなんとなく明るい様子に見えていた。 

 八月の夏休み中なためか小学生くらいの子ども連れで来ている来館者もいたが、それはやはり少数で、北之原美術館では大人の、それも年配の来館者が多かった。冷房の効いた館内では椅子の置かれたロビーで涼んでいく客もいたが場所柄のせいか声高に長話しをしていく客はおらず、館内ではあいかわらず静かな時間が流れていた。
 雅野の事務の仕事も忙しくはなく、というよりも信大の教え方は順序良く教えてくれるのでわかりやすくすぐに呑み込めた。カウンターでの受付とそこから見える展示室の監視のほうがおもな仕事だったが、信大のほうに仕事があれば雅野ひとりで受付にいる時間も徐々に増えていった。とはいえ信大は事務室か二階の研究室のどちらかにいるのでなにかあればすぐに来てもらえる距離だった。

 雅野は美術館の受付や事務は初めての仕事だったが、こうして実際に仕事をしてみると北之原美術館というところが静かで落ち着いた空気の流れで動いているということがわかってきた。
(こういう職場ってあったんだな)
 ここは人数が少なく、落ちついていて静かな職場だった。雅野が以前働いていた会社とは全然違った雰囲気で、それが雅野の正直な感想だった。
 以前働いていた会社は多くの社員がいて会社の規模も大きく、雅野も事務職の社員として仕事をしていたが、あくまでも大勢の社員の中のひとりだった。しっかり働かなければならないことはどこでも変わらないが、この静かな雰囲気が雅野には合っている気がして、北之原美術館の仕事が雅野に向いているのではないかと言った信大の言うとおりだった。
 それに美術館の静かな整った空気も仕事のしかたも信大の管理というか性格が表れているような気がする。美術館はそういうところなのかもしれないが、中で働く人たちの雰囲気というものが職場には確かにある。以前の職場では目立つことはなくても本当の意味で自分のほうが馴染んでいなかったのだと今さらながら雅野は気がついた。

「今日もお疲れ様でした。今日は日曜日で来館者が多かったですね」
 一日の仕事を終えて雅野が集計したレジを信大が事務室で確認していた。
「どうですか。だいぶ慣れてきましたか」
「はい、まだまだですけど、なんとか」
 控えめに答えた雅野に信大は何枚かの書類を確認しながら雅野へ向き直った。
「これからの藤田さんの仕事についてですが」
「はい」
「じつは来週から以前ここで事務をしていた人にまた来てもらうことにしました。佐倉さんという人ですが」
「え、そうなんですか」
 以前事務をしていた人という信大の言葉に雅野は一瞬驚いた。信大とふたりだけの職場だと思い込み過ぎていたのかもしれない。
「驚かせてしまいましたか。でも大丈夫ですよ、来てくれる人はしっかりした人なので。その人はご主人の体の具合が悪くなって退職されたのですが、その後良くなられたと聞いていたので今回来てもらえないかとお願いしてみたのです。やはり事務と受付に藤田さんひとりだけでは大変ですし、僕も外出や出張があるときもありますので」
 まだ仕事を覚えている段階の雅野には仕事が大変だからと言われても答えようがなかったが、信大の出張と言われれば頷ける。
「北之原さん、出張もおありなのですか」
「たまに行きますよ。いままではどうしても行かなければならない出張のときは休館にして行っていましたが、これから僕のほうで出張や外出が多くなりそうなので休館ばかりするわけにはいかないのです。ですが、セキュリティがあるとはいえ女性ひとりで仕事をさせるわけにはいきません。いずれ男性の職員も増やすことも考えていますが、まずは事務のほうからということで佐倉さんに来てもらうことにしました」
「あ……、はい」
「大丈夫ですよ」
 雅野が不安そうな顔に見えたのか信大がまた大丈夫だと言った。
「佐倉さんはベテランのかたですから。僕もここの事務の仕事は佐倉さんから教わったんですよ」
「そうなんですか」
 信大の話しぶりからすると佐倉という人はかなり年上でベテランの人らしい。雅野はこれまで年齢的にもベテランだという人とは一緒に仕事をしたことがなかった。その人に仕事を教えてもらうというのはまた別の緊張を感じるが、会う前から不安がってもしかたがないと思って信大にお辞儀をした。
「わかりました。よろしくお願いします」
 雅野としては普通に答えたつもりだったが、雅野が顔を上げるととなりのデスクの席に座っていた信大の顔が驚くほど近くにあった。
「佐倉さんに来てもらうのは来週からで、明日まではふたりですが、僕は明日の仕事が終わるのを待っていますので」
 間近なうえに信大の顔が恋人の顔になっていて、どきんと雅野の胸の鼓動が跳ね上がってしまった。
「明日って……」
 雅野ははっきりとは言えず口の中でもごもご言ってしまったが、明日は休館日の前日で、今までも火曜日の信大の休みごとに会っていたのだ。信大の言う意味は充分わかる。
「ということで明日、仕事が終わったら食事にいきませんか」
「え、はい、大丈夫です」
 こんな会話をしてもいいものかどうか雅野はためらったが、信大は職場であることを気にするそぶりも見せなかった。
「じゃ、約束ですよ」
 信大が小指を立てた右手を差し出してきた。にこりと笑って手を差し出している。雅野は頬を赤くして自分の小指を絡めたが、ほかの人がいないとはいえ職場で指きりは恥ずかしすぎる。
「……お疲れ様でした。ありがとうございました」
 指を離すと雅野は精一杯平静に答えて挨拶したが、信大の顔がまともに見られない。そんな雅野を信大はいつも通り通用口まで出て見送ってくれたが、雅野は心の中で「信大さんたら。信大さんたら」と繰り返さずにはいられなかった。

 次の日は朝から浮足立っているような気分だった。雅野はこんなことではいけないと思うのだが、来館者がいないときにこっそり信大を目で追ってしまった。昨日と変わらず落ちついて仕事をしている信大を見習って、いまは仕事なのだからと気持ちを切り替えるのに苦労したが、こんなときに同じ職場だということにちょっぴり後悔する。
「ご苦労さまでした。終わりましたか」
 ようやく一日の仕事が終わり、レジの締めやほかの書類などを信大のところへ持っていくとこれもいつも通り丁寧に検算がされて何事もなく済んだ。やはり仕事が無事に終わるということにほっとした雅野がデスクの上を片付け終わると館内の見回りを終えて事務室に戻ってきた信大と目があった。
「片づけは終わりましたか」
「はい」
「ではこれで今日の仕事は終わりましょう。お疲れ様でした」
 それぞれのバッグを持って事務室を出るとふたり並んで通用口へ向かったが、通用口までのわずかな距離を信大も雅野も黙って歩いた。通用口を出て施錠して門の鍵を締め、まだ熱気の残る夏の夕暮れの空気の中で振り向いた信大の顔はやはり穏やかだった。
「お疲れ様でした、信大さん」
 信大さんと名前を呼んだ雅野に信大がほほ笑む。雅野が見たいと思っていた笑顔だった。
「どこか涼しいところへ食事に行きましょうか。なにか食べたい物はありますか」
 食べたいものと聞かれて雅野は考えるふりをして小首を傾げた。
「母の自慢のパスタソースなんてどうでしょう。また送ってきてくれたんです。こんどはバジル入り」
 雅野が差し出したエコバッグには母お手製のパスタソースのビン詰めが入っている。
「いいのですか、僕の家で」
 信大が受け取るように雅野の差し出しているエコバッグのほうへ手を伸ばした。
「いいんです。だって涼しいし……」
 言い終わらないうちに信大の手がエコバッグを持つ雅野の手をつかんだ。くいっと引っ張られて上げた顔の先で信大が雅野の顔をのぞきこんでいた。
「今日は……帰れなくなりますよ」
「帰るつもりなんてありません」
 雅野にしてはきっぱりとした言葉だった。ちゃんと信大を見ながら言っている。雅野の顔を見ている信大の顔がふっと笑った。
「雅野さんならそう言ってくれると思っていました。行きましょう、早く」
 ぎゅっと手を握った信大に導かれるように雅野は歩きだした。




 信大の家の古いドアを開けると美術館から信大の家までの短い距離なのに速足で歩いてきた雅野は家の中の涼しさにほっと息を吐いて暗い家の中へ入った。外の蒸し暑い空気を背にして一週間ぶりに入る信大の家の中はドアを閉めると完全に別の空間だった。美術館と同じだと考えていた雅野に信大が黙って振り向くと雅野の腰へ手を伸ばし、引っ張られるままに雅野が抱きつくとすぐに唇が重なった。
 なにも言わずにキスを繰り返す。雅野の持っていたバッグも信大の持っていたブリーフケースも床に落ちたままだ。言葉もなくただひたすらに唇を吸いあって舌を絡めあう。
「……長かった」
 少しだけ唇を離した信大が雅野の顔を手ではさんで上向かせていたが、暗い家の中で雅野には信大の顔が暗くてよく見えないがそれでもじっと見上げていた。
「長くて、さすがに後悔しました」
「後悔?」
 少し顔を上げた信大の表情がやっと見えて雅野は聞き返した。
「この一週間、自分でも馬鹿なことをしてしまったんじゃないかと思っていました。毎日雅野さんに会えるのに仕事でしか話せないのですから。こんなことなら雅野さんと同じ職場ではないほうがよかったんじゃないかと思ったくらいです」
 いつもの信大らしくない言いかたに雅野は驚いて目を見張った。
「え、でも信大さんがそんなふうに思っていたなんて」
「気がつかなかった? 何度帰る雅野さんを追いかけようと思ったかしれない」
 言いながら信大の手が雅野の腰を抱いて家の奥へと導くと二階の部屋はやはり暗かったが、信大はドアを閉めると明りもつけずにまた雅野に向き直った。
「一週間待ちました」
 信大の手が雅野に触れている。静かな、それでいてかすかにかすれた信大の声だった。
「わたしも……待っていました」
 雅野にとっても長い一週間だった。そばにいるのに触れ合うこともできなかったのは雅野も同じだった。
「ずっと……信大さんと同じようなことを考えていました。ふたりで会えなくて、さびしくて……」
 唇がつけられて雅野の言葉が信大に飲み込まれていく。舌を絡めて求め合うふたりにもう言葉の入る余地はなかった。





「はっ……」
 鎖骨から胸へと信大の唇が触れた跡が雅野の体にほのかな感触を残していく。雅野の唇からもれた小さな声を確認するかのように信大が顔を上げてベッドの上にほっそりとした手足を広げた雅野を見おろした。
「いい?」
 つんと立った雅野の胸の先端の上で信大が柔らかくほほ笑みながら聞いた。こくりと頷いた雅野の乳首に信大の唇が降りてくる。
「あ!」
 柔らかく含まれただけなのに体がびくっと動いてしまった。もう片方の乳房も信大の手に包まれていて雅野の体はもがくように動いてしまうが、動いても信大の体の下から離れられるわけがなく、雅野は丸いふたつの乳房を突き出すように胸を反らしてしまった。高く張り詰めた乳房の先が舌で転がされ、もう一方が指でやわやわと揉まれると雅野の体がまたしても揺れる。決して強くはない愛撫なのにそれが感じ過ぎてしまう。
「し、信大さん……」
 たまらず雅野は信大を呼んだが、信大は雅野の胸から目だけを上げて返事はなかった。また目を伏せた信大が唇で固く立っている乳首を挟むようにして吸うと痺れるような快感が雅野の胸の先端から体の奥へ走った。左右をかわるがわる吸われるたびに体の中に震えがおこってしまう。
「あ、あっ」
 雅野が動いてしまうのに信大の手も唇もけっして雅野から離れない。愛撫されるたびに体中の熱さが増してもそれを逃がすこともできず腰を反らせて信大に押しつけてしまうのに、それでも信大の指は離れないのだ。
「……っ」
 雅野からまた声が出かかったが、一瞬息を詰めた後で甘い吐息に変わっていく。閉じようもなく開いている中心に当てられた信大のものが雅野の潤みの中へとゆっくりと入ってきていた。避妊具をつけていても引っ掛かりもなく入ってくる信大に熱くほてった雅野の内部が押し開かれる感覚だけでもたまらない。信大が入ってくる、それだけで雅野は達してしまいそうだった。
「とても……熱い」
 体を起こした信大が雅野の上でほほ笑んでいる。信大のほほ笑みがそのまま快感になって伝わってくるようだ。雅野は喘ぐ息を抑えてなんとか手を伸ばした。
「信大さん、好き……」

 ……好きだからこんなにも感じる。
 好きだから寂しかった。
 信大さんが好きだから……。

 答える代わりに信大は雅野の手を取ると指先に唇をつけた。そして顔を近づけると耳元で雅野にしか聞こえない声で言った。
「好きだ」
 いつもの信大から丁寧さが抜け落ちてしまった言いかただったが、雅野にはただそう言ってくれただけでよかった。

 ……こんなに好きになった人はいない。
 いままでにこんなに体が感じたことはない。
 たまらなく気持ちがいいのも、信大さんが好きだから……。

 信大を受け入れたままの雅野の体がふるふると動き始めた。細かく波打つように雅野の乳房が揺れるとふたりの体のあいだからかすかに濡れた音が漏れ始め、雅野が自分を押しつけるたびに蜜があふれてきた。
「ああ……」
 声を上げたのは信大のほうだった。雅野の乳房を支えるように両手を当てて見おろしながら目を細め、雅野が動くのを味わっているかのような顔だった。やがていつのまにか信大の腰も雅野に合わせて動き出していた。

 ……こんなにもあなたが好きなの……。

 自分と同じ快感を信大も求めてくれている。そう思うだけで雅野の中が信大を締め付ける。胸も体の中もすべてから快感が溢れて信大の動きを求めている。喘ぎ声さえも信大の唇に閉じ込められて雅野は首を振った。もうこれ以上は耐えられないほどの高まりに雅野はしがみついたまま信大にすべてを任せて達した。



 力を入れることもできずくったりと横たわった雅野を信大は後ろから抱きしめていた。しっとりと汗ばんだ雅野の体を抱いているうちにやっと静かになってきて信大の腕の中で脱力していた。
「信大さん、激しすぎる……」
 雅野が寝言でも言うようにぼんやりした声で言ったが、それも無理はない。立て続けに三度も雅野を上り詰めさせて信大自身もつき果てていた。
「すみません、年甲斐もないことをしてしまった」
 横向きに抱いた雅野の髪をなでながら言うと、雅野はやっとのろのろと顔を上げた。
「信大さんて、すごく余裕あるんだから……いつも……」
「余裕なんてありませんよ」
 あっさり否定されたが、雅野はいつも最後は信大に翻弄されてしまうようで、やっぱり信大は大人だと思う。そう言うと信大はくすっと笑った。
「離婚してからはほぼ禁欲状態でしたから、いったん箍(たが)が外れると自分ではコントロールしがたくなっているのかもしれませんね」
「たが……?」
「こういうことですよ」
 笑顔のまま信大は雅野の体を引き寄せると雅野の肩に広がる髪に口づけしたが、隙間のなくなったふたりの体のあいだで信大の元気を取り戻したものが雅野の尻に当たった。
「信大さん、もう……?」
 困ったように雅野は言ったが、信大が雅野の胸へ回した手で胸のふくらみを包むとさっきまで力が抜けて無防備だった雅野の体が生気を帯びている。
「好きな人を抱くのがこんなに嬉しいとは思っていなかったな。みんな雅野さんのおかげですよ」
「おかげだなんて……、んっ」
 信大が上になるとまた唇がつけられた。キスをすると果てしなく湧いてくる熱がふたりにはあるかのようだった。お互いの熱を引き出すためのキスが続く。唇に、頬に、そして胸に。

 ふたりの本能の睦み合いは夜じゅう続く。



   目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2016 Minari Shizuhara all rights reserved.