六月のカエル 11


11

 目次



「僕の父はアメリカで航空機の技術者をしているんですよ」
 館長宅へと向かう車の中で信大が運転をしながら話し始めた。
「航空機って飛行機ですか?」
 雅野が尋ねるとそうですと信大が頷いた。
「信大さんとは全然分野が違う仕事をされているんですね」
「まあ、そうですね。父は小型飛行機が専門で、今はウィスコンシン州に住んでいますが、僕が生まれたときは仕事であちこちの研究所や会社を渡り歩いていましてね、母の日本での仕事の都合もあって僕は小学生になるまでは母と日本で暮らしていました。その後にアメリカへ行ったのですが、大学を卒業するまでは僕は日本とアメリカを行ったり来たりしていたんですよ」
「あ、それで」
 信大のハグやキスが欧米人のように感じたのだと雅野が言うと信大は薄く笑った。
「そうですか? そう言われたのは初めてだけど、でも雅野さんのことは恋人だと思っていますから」
 それは雅野だけにハグやキスをすると言われているようで雅野はなんだか心がむずがゆいような感覚だった。信大は人前でやたらといちゃつくようなことはしない。ふたりきりの恋人のときだけそうするのだという、うれしいような照れくさいような言葉だったが、言った信大はなんでもないことのように運転していた。
「これから面接なのにそんなこと言うなんて」
 雅野は小さな声で言ってしまったが、信大には聞こえなかったようだ。
「え、なにか言いましたか」
「いえ、なんでも。それなら信大さんはアメリカの大学ですか」
「いや、日本ですよ。卒業するまではアメリカの両親に代わって北之原の叔父がいろいろと面倒見てくれましてね。父の弟ですが、その叔父が北之原美術館の館長なのです」

 えっという驚きとともに雅野は目を見張った。北之原美術館の館長は北之原家の当主が務めていると信大から聞いたことがあったが、それが信大の叔父だとは。雅野は信大が親戚だと言うからもっと遠い親戚だと思っていた。
「そうなんですか……」
 北之原美術館は北之原家の当主が代々蒐集してきた美術品が納められた美術館であることは雅野も知っていた。雅野が見るために通っていたあの黒い茶碗も明治期の北之原家の当主と作家の交流があったから小説に書かれたのだ。今さらながら北之原家という家がかなりな家柄のような気がしてきていた。
「じゃあ信大さんも北之原家のおもな人なんですね」
 姓だけではなく、いわば本家のなかのひとり。
 雅野はそう思って言ったのだが、信大は雅野のほうを見ずに運転を続けていた。
「いや、さっきも言ったとおり僕の父はアメリカで技術者になって北之原家を継がなかったので、僕は親類であっても美術館の雇われに過ぎませんよ」
 前を向いたままの信大が言ったが、口調が単調でなんとなく冷めた言いかただった。なにか気に障るようなことを言ってしまったかと雅野は考えてみたが思い当たることがない。
 雅野がしばらく黙っているとそれを察したのか赤信号で車を止めた信大が雅野に顔を向けた。
「叔父にはいろいろと世話になっていますし、美術館で働けるということは恵まれていることだと思っています。でも北之原家が行っている事業のほうは僕には関係ないし、興味もありません」
 北之原家の事業ってなんだろうかとつい雅野は考えてしまったが、雅野の知識では思い当たるようなことはなかった。
「北之原の名前から離れることはできないかもしれませんが、僕は自分の仕事として美術館の仕事をしているまでです。それだけですよ」
「……それは信大さんが親戚ということは関係なく美術館の仕事がしたいからしているということですか」
 繰り返しになってしまうが、雅野は確認のように尋ねた。
「そうです。雅野さんがそう思ってくれるのなら僕もうれしい」
 そう言うと信大はにこりといつもの笑顔で雅野に笑いかけた。その笑顔が信大の仕事に対する気持ちのようで雅野もはい、と答えていた。





 信大が車を止めたのは都内の高級住宅地にあるマンションだった。北之原家の当主の住まいということで雅野はなんとなく日本建築の家をイメージしていたのだが、実際の住まいは最新の高級マンションだった。
 マンションの入り口で信大がインターフォンで話すと奥のエントランスへ入るガラスのドアが自動で開かれた。信大と一緒にエレベーターへ乗り、最上階の五階まで上がるとワンフロアに二軒だけというぜいたくな仕様だった。
(すごい……)
 こんな高級マンションに入るのは雅野も初めてだった。歩きながらついまわりを見回してしまったが、フロアや廊下にも大理石をふんだんに使った重厚な造りは別世界のようだった。
 北之原家の玄関の前でも信大がインターフォンで話してからやっとドアが開けられて、中にはノーネクタイでジャケットを着たいかにも会社の経営者か重役といった雰囲気の男性が立っていた。
「ご無沙汰しております。今日は急なお願いをしてしまい申し訳ありません」
 信大が挨拶すると北之原家の当主は気軽に家の中へと招き入れてくれた。
「かまわないよ。私は昨日ドイツから帰ってきたばかりでね、今日は午後からの出社だったんだ。家内はあいにく出かけてしまっているが気にしないでくれ」
 大きなソファーセットが置かれた広いリビングに通されると座る前に信大が雅野を紹介した。
「こちらが面接をお願いした藤田雅野さんです」
「藤田雅野です。よろしくお願いします」
 雅野が緊張しつつ頭を下げると館長は世慣れた様子で雅野の顔を見ていた。
「この人が。きれいなお嬢さんじゃないか」
「館長」
 信大のちょっと咎めるような言葉に北之原家の当主は笑ってふたりに座るように言った。信大が自分のとなりに雅野も座るように言ったので、雅野も信大とあまりくっつきすぎないように気をつけて座った。
 信大が雅野の履歴書をセンターテーブルの上へ差し出すと館長はしばらくそれにじっと目を通していた。
「明昌学院大学を卒業後コウドウテック東京本社に勤務、現在は求職中という事ですか」
 雅野は以前の会社を辞めた理由を聞かれるかと思って頭の中で用意していた理由をおさらいしていたが、館長はそれには触れなかった。
「それでこの人が信大君の交際している女性でもあるということだね」
「はい」
 館長に言われて返事をしたのは信大だったが、思わず雅野は信大の顔を見てしまった。信大からつきあっていることは館長に話してあると聞いていたものの、面接でこんなことを言われるとは予想もしていない。これではまるで交際相手を紹介しているようだった。

「結構ですね。藤田さん」
 館長が雅野のほうを向いて履歴書を閉じた。
「細かいことは信大君から聞いていると思いますが、あなたが美術館の仕事を希望してくださるのなら私としては異議はありません。採用としましょう」
「ありがとうございます」
 信大が代わって返事をしたが、あまりにもあっさりと言われて雅野はめんくらってしまった。すぐに結果は出ると信大から聞いていたが、まったく実感がない。
 館長はこれで面接は終わりというように雅野の履歴書を信大へ返してきた。

「信大と会って話すのも久しぶりだな」
 館長はふたりを前にしたままゆったりと信大に話しかけた。さっきまで「信大君」と言っていたのが名前だけになっている。
「いつも美術館のほうを任せきりにしてしまって悪く思っているが、これでも忙しくてね。あ、藤田さんにもこれを渡しておこう」
 館長がそう言うと雅野に名刺を差し出してきた。ありがとうございますと言って雅野が両手で受け取った名刺を見ると「興北商事 取締約社長 北之原正範」とあり、雅野はまじまじとそれを見てしまった。
 興北商事はだれもが知っている一流企業で、雅野も当然社名は知っていた。だが、北之原家の当主がまさかこんな大企業の取締役だとは思っていなかった。名刺からして普通のビジネスマンが持っているような物よりもはるかに上質な手触りの物だった。
 やはり北之原家というのはすごい家だったんだと改めて知ってしまい、雅野はじっとその名刺を持って見つめていたが、北之原正範と信大が自分を見ていることにようやく気がついて慌てて「失礼しました」と言って頭を下げた。

「雅野さんは二十五歳でしたね」
 今度は雅野も「藤田さん」から「雅野さん」になっている。北之原正範は意外にも気さくそうで、そんなところは少し信大に似ていた。
「はい」
「そうすると信大とはかなり歳が離れていますが、あなたは気にならないのかな」
「叔父さん、僕はまだ年寄りじゃありませんよ」
 すかさず言った信大を北之原正範は笑って制した。
「そんなことは言ってないじゃないか。だが、信大がまた女性と交際する気になってよかったと思っているんだ。心配していたからね」
「それは」
 信大がなにか言おうとしたが、館長は雅野に向けて信大とどことなく似ている顔を向けてきた。
「信大は一度結婚したがその後離婚している。あなたはそれをご存じですか」
「はい、信大さんから聞きました」
「それは結構。信大もちゃんと大事なことを言っているというわけだ。そういうことなら私が言うことはないよ。雅野さん、これからは仕事をよろしく頼みます。私もそろそろ名前だけの館長の職を信大に任せたいと思っているんだが、信大は受けてくれなくてね。でもあなたが働いてくれたら信大もやる気が出るというものだ」
「は……はい」
 まだ面接なのに信大をもっと働かせるように言われているみたいで雅野は戸惑いながらも答えたが、戸惑っているのが顔に出てしまったのか信大が雅野に笑いかけた。
「大丈夫ですよ。叔父には当面このまま館長でがんばってもらいますから」
「いや、信大はそう言うがね、私だってそろそろ引退を考える歳なんだ。美術館は財団法人として独立させてあるから館長職だけでなくいつでも信大が引き継いでもいいんだぞ」
「叔父さん、そのことは断ったはずです」
 いつもの黒縁の眼鏡の奥で信大が困惑の表情を浮かべていた。叔父に対してやんわりとした言いかたではあったが、雅野には信大がかなり迷惑そうにしている様子が見えた。けれども雅野は口を挟むこともできず黙って聞いているしかなく、そんな雅野に気がついたのも信大が先だった。
「すみません、雅野さんには関係ない話ばかりで。では面接の結果も聞きましたのでこれで失礼しましょう」
 信大が先に立ち上がりながら雅野も立たせた。
「なんだ信大、もう帰るのか。昼を一緒に食べに行かないかね。雅野さんも一緒に」
「それはまたの機会に。では館長、お忙しいところありがとうございました。雅野さん、失礼しましょう」
 信大はそう言って挨拶するとさっさと玄関に向かってしまったので雅野も慌てて北之原正範にお辞儀をして信大の後についていった。

「あの、よかったのですか。信大さんだけでもご一緒しなくても」
 信大の車へ戻って雅野が尋ねると信大はちょっとため息をついた。
「叔父と昼食を食べても面白くありませんよ。あの人と話していると同じことばかり聞かされる」
 信大には珍しく辛辣な言いかただったが、声は穏やかでさほど怒っているようでもなかった。
「それよりも無事に採用も決まりました。今日の目的は達しましたから僕としては安心しました。雅野さんは?」
「はい。ありがとうございます。まだちょっと信じられないけど、採用ですよね」
 ちょっとどころではない、雅野にしたらあまりにも急で話を聞いているだけで精一杯だったのだが、それでも採用がもらえたのは事実だ。
「疲れたでしょう。せっかく一緒にいられる休日が面接になってしまって申し訳ない。でもこれで雅野さんと一緒に働けることになったのだから許してください」
 許すもなにも仕事まで世話してくれて申し訳ないのは雅野のほうだった。それにこれから信大と一緒に働くと思うとそれだけで緊張してしまいそうだ。
「信大さんと同じ職場で働くんですよね」
「そうですよ」
 やさしく信大が答えた。
「どうしよう。だんだん不安になってきました。美術館の仕事って初めてだから」
「その不安を消すには早く仕事に慣れてもらうしかありませんね。でも僕のほうもセキュリティ会社に連絡するほかにもいくつか準備をしなければなりませんので雅野さんに出勤してもらうのは明後日からということでいいですか」
「あ、はい。そうしてもらえると助かります。バイトのほうも断りを入れないと」
「そういうことなら、このまま僕の家に帰ってもいいかな」
 信大の言葉に雅野が彼の顔を見ると眼鏡の奥で信大の目が笑っていた。少年のような信大の目の表情に雅野がうなずくと信大は素早く顔を近づけて雅野の耳へささやいた。
「今日も泊っていってください」

 途中で昼食を済ませて信大の家へ帰ると雅野はすぐにバイト先へ電話をして、申し訳ないが就職活動で採用が決まったと言うとバイト先のほうはすぐに取り消しを了承してくれた。あらかじめ転職の就活中だと話しておいたのが良かったのかもしれない。
 ほっと安心して電話を切るとリビングの少し離れたところで待っていた信大がすっと近づいてきた。
「バイト先のほうは大丈夫でしたか」
 雅野が電話で話していたことはほとんど聞こえていたと思うのだが、信大は律義に確認してきた。
「はい、申し訳なかったですが、わかってもらえました」
「急に決めてしまって悪かったですね。慌てさせてしまったみたいで」
「いいえ、いいんです。それくらいしてもらわないとわたしって決められないだろうから」
「そう言ってもらえて僕も安心しました。いささか強引だったかと思っていましたから」
 眼鏡をはずした信大が雅野の唇にそっと唇を触れさせてまた離れた。
「強引だったけど、でも……」
「でも?」
 信大の手が雅野の体に回された。雅野に期待させて、期待通りにすべてをとろけさせてくれる手が。
 雅野が自分から顔を近づけてキスをするとそれを待っていたように信大の腕が雅野を抱きしめた。触れ合った唇がすぐに絡むようなキスに変わり、雅野が言うつもりだった続きの言葉が溶けていく。

 これで信大さんのそばにいられるから……。



   目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2016 Minari Shizuhara all rights reserved.