六月のカエル 10


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「でも、わたしは学芸員の資格を持っていませんが」
 雅野が大学生だったときに友人から美術館や博物館で働くためには学芸員の資格が必要だと聞いた記憶があった。
「それなら心配ありません」
 穏やかな表情のまま信大が答えた。今朝の信大は休日のためか洗いざらしのコットンのシャツとパンツで、いつもの眼鏡もかけていなかった。
「学芸員は資料の収集や保管といった仕事をする専門職であって、それは僕の仕事でもありますが、今回の募集は学芸員ではなく事務をやってくれる人の募集です。学芸員の資格は必要ありません」
「そうなんですか。美術館で働くのには学芸員でなければと思っていました」
「皆さんそう思っているようですね。ときどきそう言われます」
 信大は黒目がちな目で笑ってからいつもの口調で説明を続けた。

「おもな仕事は美術館の来館者への受付けの対応と事務処理です。二年前までは事務をやってくれる人がいたのですが、その人が退職してからは僕がほとんどひとりでやってきました。けれども小さな美術館で事務の仕事は多くはないとはいえ、さすがにひとりでは無理が出てきました。所蔵品の研究や展示の企画をしようにも人手が足りませんし、通常の業務にも支障が出てしまいます。そこで館長とも相談して、事務と受付けの仕事をしてくれる人をひとり入れようということになったのです」
 そこまで言ってから信大は薄いファイルを取り出すと中から一枚の書類を取り出して雅野の前へ置いた。
「これが給与や待遇についてです。採用は最初の三か月は試用期間ということで、その後差し支えなければ正社員になってもらう予定です」
「正社員ですか」
 雅野にとっては願ってもない条件だった。今時、美術館の職員の求人を出せばおそらく多くの応募があるだろう。雅野も再就職の就活中でいまだ就職先が決まらない身だからそれくらいは想像がつく。だが、信大の話は条件も良すぎて、正直すぐには信じられない気持だった。

「あの、もしかしたら仕事自体も信大さんがわざわざ用意してくれたのでしょうか。わたしがまだ仕事が見つからないから、それで」
 雅野は思い切って聞いてみた。自分のためにといううぬぼれではなく、いまだに職が見つからない雅野に信大が見かねたとのかもしれないと思ったからだ。
「いや、仕事を用意したというのとは違いますね」
 雅野の案じるような表情に信大はいつもの口調で答えた。
「これまでにも事務の人を入れようという話はあったのですが、どうも僕のほうが新しい人と仕事をやっていくのが億劫に思えてしまって、それならこのままでもいいかと思っていました。ですが、仕事はいろいろやらなくてはいけなかったので館長からも早く新しい人を入れたらどうかと言われていたのです」
「館長さんから?」
「ええ、いつまでひとりでやっているんだとあきれられていました。ですからこれは雅野さんのためというよりは僕のためでもありますね」

 信大は美術館の毎週火曜日の休館日しか休みがないし、以前に雅野と会う約束をした休みの日も外周りのメンテナンスで半日潰れたことがあった。確かになにからなにまでひとりで全部やるのは大変だろう。雅野もこれまで働いていた経験があるからそれはよくわかる。ただ、雅野は少し違うことも気になっていた。
「あの、聞いてもいいですか」
 どうぞと信大が答えて雅野は迷いながらも質問を口にした。
「美術館の仕事は、……それはわたしでも大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫、とは?」
 おや、という感じで信大が聞き返してきたが、雅野はなんと言っていいのか分からず困ってしまった。
「えっと、あの、信大さんとわたしがつきあっていてもいいのか……ということです」
「ああ、そのことですか」
 信大はにこりといつものように笑ってみせた。
「かまいませんよ。そのことはすでに館長に確認して了承してもらっています」
「えっ、館長さんに話されたんですか」
「ええ、館長とは面接を受けてもらわなければなりませんから」
 信大の言うことは至極当然のことだったが、雅野は考え込んでしまった。希望していた職種の仕事だったからコネでも縁故でもすぐにでも働きますと言ったほうがいいとは思うのだが、なんとなく迷っていた。
「とても良い話だとは思いますが、信大さんから就職の話を聞くとは思っていなかったので……すみません、どん臭いこと言って」
「どん臭いなんてことはないですよ。雅野さんの感覚はむしろバランスが取れていると思うけどな」
 言いながら信大が立ち上がると雅野のところに来て手を差し出した。雅野にも立ち上がるようにうながす信大の手に雅野は小さくどきりとしてしまった。いつも思うのだが、キスやハグやこうして手を差し出してくれる様子が欧米スタイルのような感じがして、信大に外国への留学や滞在経験があるのかと思ってしまう。まだそれを聞いたことはなかったが。

 手をつないでリビングに行くとふたりでソファーに座ったが、信大のとなりに雅野が腰をおろしたと思ったらすっと引き寄せられて腰に腕をまわされていた。まだ数えるほどしか会ってはいなかったが、腰を抱く信大のしぐさが自然になじんでちっとも嫌ではない。
「すみませんね、朝からこんな話をして」
 雅野が顔を上げると信大もそれに合わせて顔を向けた。
「急に仕事の話をしたから驚いたでしょう。もっと早く話せばよかったのですが、実際のところ僕は雅野さんの様子を見ていたのです」
「え、見ていた、とは?」
 思いがけない言葉に雅野は思わず聞き返してしまった。

「雅野さん、会社を辞めてから落ち込んでいたでしょう。美術館に来始めた頃はひどかった」
 雅野は返す言葉もなかった。確かに最悪な状態だったと自分でも思う。それに今ならばそれがわかるが、あの頃はほとんど自覚していなかった。
「でも雅野さんは来るたびに元気になっていって就活も始めて、僕も安心しました。雅野さんが就職先が決まらなくて苦戦しているのは聞いていましたが、仕事のことを話してしまうとそれで雅野さんを釣っているようで嫌だったのです。雅野さんが僕と会いたくて来てほしかったから」
 すぐ近くで見ている信大の顔は落ちついてはいたが、雅野が答えるのを辛抱強く待っているような顔つきだった。

「わたしは……信大さんが好きだから会いに来ているだけで……ほかに考えたことなかった」
 答えた雅野の顔に信大の指が触れた。雅野の頬をなぞるように軽くなぞっていく。
「雅野さんは無欲なのですね」
 雅野はよくわからないというように首を振った。自分が無欲だとはとても思えなかったし、信大は自分のことをかいかぶっていると思ったが、それを言ってしまうともっと自分を卑下してしまうようで黙っていた。それでも信大の手は離れなかった。
「僕としてはぜひ雅野さんに働いてもらいたいと思っています。美術館の仕事は毎日がめまぐるしく変わるような変化のある仕事ではないので面白味がないと感じる人もいるかもしれませんが、むしろそういう仕事のほうが雅野さんには向いているような気がします」
 確かに雅野はガンガン働くタイプでもないし、積極的に先頭に立って皆を引っ張っていくタイプでもない。こんな自分を信大は良く見ていると思ったが、会社の上司でもここまで言ってもらえることはないだろう。

「それに僕とつきあっていることも気にしなくていいと思いますよ。職場では節度が必要だとは思いますが、社内恋愛だと思えばいいんじゃないかな」
「社内恋愛って会社に入ってから恋愛するんじゃないんですか」
 逆に雅野から問い返されて信大は笑った。
「はは、そうですね。少し言い訳が過ぎました」
 自分の突っ込みをあっさりと信大が認めたので雅野も笑顔になった。やはり今回の話はなんとなく唐突さが感じられて、それで雅野も迷っていたのだ。雅野の笑顔を見ている信大の顔もほほ笑んでいる。雅野にとってこんなに心強く感じることはなかった。

「……面接、受けてみたいです」
 雅野がそう言うと信大もほっとしたような顔になった。
「よかった。では館長に連絡しておきますので、雅野さん明日の予定は」
「えっ、あっ、明日?」
 雅野は急に大事なことを思い出して思わず声がひっくりかえってしまった。
「どうかしましたか」
 信大が不思議そうに雅野を見た。
「変な声出してごめんなさい。あの、わたし、バイト始めることにしていたんです。明日から」
「え、バイト? 明日から?」
 信大にしては珍しく驚いた顔で聞き返してきたので、雅野はあせって汗が噴き出てきた。
「なんのバイトですか」
「あの、カフェのバイトです。大学生のときにも同じチェーン店でバイトしていたことがあって……、すみません、話してなくて」
 雅野の声がだんだんと小さくなる。
 申し訳なさそうに肩をすぼめる雅野と、驚いた顔のままで見ている信大と。
 妙な沈黙だった。

「あ、いや、そうですか。それなら」
 急に信大が我に返って立ち上がった。携帯電話を手に取ると雅野に「ちょっと待っていてください」と言ってからリビングを出て行った。廊下の奥のほうから信大が電話で話す声がかすかに聞こえてきていたが、雅野はどうすることもできずに座ったまま待っていた。しばらくすると信大の声が聞こえなくなってリビングへ戻ってきた。
「館長に連絡して今日これから面接してもらうことにしました」
「えっ、これからですか」
 いきなり言われて雅野は驚いてしまった。
「ええ、明日のバイトを断るにしてもこちらの面接が終わって結果が出ているほうがいいでしょう」
「結果って、すぐにわかるんですか」
「館長も忙しい人ですから、すぐに合否を出すそうです」
「ええっ、でも……」
 急に話が進んで雅野は完全についていけなくなっていたが、信大は一向に気にした様子も見せずに続けた。
「館長のところには僕が連れていきますから大丈夫ですよ。ここからなら車で30分くらいですから」
「でも、わたし、スーツなんて持ってきてないし」
「そのままでいいですよ」
 またしても信大の性急な発言に雅野は唖然としてしまった。雅野が着ているのはTシャツを長くしたようなワンピースで、信大の家で着るために持ってきた部屋着みたいなものだ。面接にはとても着ていけない。
「ちょっと待ってください。着替えを……すぐに着替えますから」
「じゃ、僕は台所を片付けておきます」
 さっさと台所へ入ってしまった信大を見ながら、雅野はなぜか乗せられてしまったような気がして仕方がなかったが、それでも着替えのために立ち上がった。



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