六月のカエル 9


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 今日のラタトゥイユは信大が手伝ってくれたからか、いつもより美味しくできたようだった。信大もおいしいと言っておかわりもしていた。
「お母さんの野菜はおいしいですね。ありがとう、ごちそうさまでした」
 礼儀正しく礼を言った信大と夕食後の片付けもふたりで一緒にやって、いまはリビングのゆったりとしたソファーで信大が淹れてくれた紅茶を味わっていた。
「おいしい……」
 びっくりするのは雅野のほうだった。良い茶葉を使っているのだろう、澄んだ水色(すいしょく)の香り高い紅茶だった。
「僕はあまり酒を飲まないのでこれだけは贅沢しています。といっても百貨店で買ったものですが。雅野さんは酒は好きですか」
 好きかと聞かれて雅野は首を傾げた。
「いいえ、それほどでも。少しは飲めますが、なんだかお酒の味っていうかアルコールの味があまり好きではなくて」
 お子様な理由だなあと思いながら雅野は答えたが、信大が酒を飲まないというのは意外に思えた。雅野が働いていた会社では男性社員は毎日のように飲みに行っていたし、つきあっていた男もかなり飲んだ。飲んだ後で抱かれるのは嫌だったと思い出しかけてすぐに雅野は考えるのをやめた。信大といるのに以前の男を思い出すのは失礼だし、思い出す必要もない。

「このティーセット、すてきですね。渋い感じがします」
 青の濃淡だけでカップと受け皿に描かれた薔薇の花模様は手描きのように見えたが、こういうものに詳しくない雅野は感じたままを言った。
「これは元々この家にあったものです。戦前くらいのものじゃないかな」
「じゃ古いものなんですね。こういうカップで飲むのは初めて。とてもおいしいです」
「それはよかった」
 信大は静かなまなざしで雅野が飲むのを見ていた。豪華な洋食器によくあるような金の彩色や盛り上げの技法を使っていない一見地味なティーセットだったが、これはこれで希少なものでアンティークと言っていいものだった。そんなことは知らずに飲んでいた雅野は信大の視線を感じてカップから目を上げた。
「そっちへ行ってもいいですか」
 こくりと雅野がうなずくと、信大がティーカップを受け皿ごと持ってソファーの雅野のとなりに腰を下ろした。座ると受け皿からカップを持ち上げてゆっくりとひと口飲む信大をとなりにいる雅野はじっと見ていたが、信大ににこりと笑いかけられると雅野も自然に笑ってしまった。
「雅野さんの笑顔は初めて見たような気がする」
「え、そうでしょうか」
 そんなことはないはずだと雅野は首をひねりかけたが、カップをテーブルに戻した信大の手が雅野の腰に回されると向き合うように引き寄せられた。
「雅野さんが美術館に来るたびに思っていました。この人は笑顔になればもっと素敵になるに違いないと。いつか本当の笑顔が見たいと思っていましたが、こうして自分の腕の中で見ることができるとは思っていませんでした」
 間近で照れるでもなくそう言った信大を雅野は見上げていた。きつく抱き合っているわけではないのに信大の腕に囲われて身動きできない。
「やっと」
 見つめ合ったまま信大が言った。
「こうすることができた」

 まるで初めて抱き合うかのような言葉だった。そう言われて嬉しいのだが、なんと答えたらいいものか考えている雅野に信大はまた笑いかけた。
「おおげさだったかな」
 そう言った信大の黒い瞳がこれまで見たことがないくらいにやさしく見えて、雅野は答える代わりに首を振った。体を動かすことができないとはいえ苦しいわけではなく、信大に抱かれているという感覚が静かにうれしい。雅野から顔を寄せて信大の胸にもたれるとさらに体が密着して、お互いのあたたかさがじんわりと伝わってきた。
「わたしもこうしてみたかったのかも」
 信大の胸につぶやいた雅野の髪を信大がゆっくりとなでていた。
「雅野さんと会うようになってから僕はすっかり変わってしまったよう気がする。不思議ですね」
「不思議って……?」
 よくわからずに雅野は尋ねた。
「じつを言えば離婚してからはもう女性と縁がなくてもいいと思っていたんですよ。美術館とこことを往復するだけの生活でいいと思っていた。実際そういう生活を五年間していました。雅野さんに会うまで」
 五年という言葉に身じろぎした雅野に信大が少しだけ抱く力を強めた。
「それがいまは休日ごとに、いえ、毎日でも雅野さんに会いたいと思うし、会えばそれだけで楽しい。雅野さんは僕にそう思わせてくれるんですよ」
「え……」
 信じられない気持で雅野は顔を上げた。雅野にしてみたら、どちらかといえば信大よりも自分のほうが会いたがっていると思っていた。
「僕は雅野さんと過ごす時間がもっとあればと思っています。いつも一緒にいたい。いい歳をした男がこんなことを言うのは変ですか」

 雅野は手を伸ばすとそっと信大のかけていた黒縁の眼鏡をはずした。眼鏡がなくなった信大の目はなおも雅野を見ている。
 雅野を抱く信大の手があたたかくなっている。あたたかい手に抱かれている。
「わたしも一緒にいたい……」
 頭の芯がぼうっとしびれたように雅野は言った。
「信大さんはいつもやさしくて、男の人にこんなにやさしくしてもらったことがなかったけれど、でもやさしくしてくれたからというわけではなくて……きっと信大さんだから好きなんだと思います。すみません、あまり上手く言えなくて」
 口ごもってしまった雅野に信大の顔が近づけられて、すぐに唇が触れ合った。唇の表面だけが触れ合うキスをしながら信大がささやく。
「ありがとう、雅野さん。いまの僕にはなによりの言葉です」


「いっしょにシャワーを浴びてしまいましょう」
 ずっとキスを繰り返してやっと顔を離したかと思ったらそう言われて、もう雅野は抵抗する気力もなくなって信大に腰を抱かれたまま浴室へ連れて行かれてしまった。
 脱衣所でも信大は雅野を離さず、あっというまに雅野の服が脱がされて背中のブラジャーのホックに手が触れた。
「はずさせてください」
 耳元で言われて赤くなりながら雅野がうなずくと後ろのホックがはずされて自由になった乳房がこぼれ出てきた。恥ずかしくてまだ堂々と胸を晒すことのできない雅野は胸を手で覆っていたが、信大はうしろから雅野の髪をかき上げて肩へシャワーの湯を当て始めた。
「雅野さんは色白ですね」
 言いながら信大の手がするすると背中から尻へとおろされ、そしてまた脇腹をなであげられて
くすぐったさに雅野は身をよじったが、信大の手は確実に雅野の体の中を熱くする意図で動いている。
「信大さんは、バスルームでするの、好きなんですか」
 この前もここだったと言いかけて信大の手が脇腹から胸のほうにあがってきそうになって雅野は慌てて胸を抱いてしまった。
「いいえ、以前は浴室でなんて思ってもみませんでしたね。たぶん雅野さんだからですよ。雅野さんはどこを見ても美しい。美しくて濡れている。ほら」
 後ろから雅野を抱いた信大の右手が前から差し込まれてきて、湯で濡れた茂みの奥へ入れた指の先が襞の中へ入り、とろりとした蜜に触れた。
「きゃ、あっ」
 悲鳴とも喘ぎともつかないような雅野の声があがった。信大の指がゆるゆると動きながらとろみを混ぜていく。一点を混ぜる動きに雅野は信大の腕を押しやろうとしたが、胸へとあがってきた信大の左手に乳房のふくらみを包み込まれるともう力を入れることができない。
「あっ……」
 信大の指に敏感な芯の上を何度もこすられて雅野の体も胸も揺れる。そのまま後ろにいる信大に首筋に吸い付かれて雅野は耐え切れずに達してしまった。信大に触れられているところすべてが気持ち良すぎて、ひくひくとうごめいている。
「ベッドへ……」
 雅野がやっと言うと信大は静かに笑って体を離すと大きなタオルで雅野をすっぽりと包むとささやくように言った。
「一緒にいきましょう」

 タオルを剥がされた体をベッドの上に乗せられてもまだ雅野の体の中は痺れたように熱いままだった。動けないまま両手だけを胸に乗せた無防備な姿で横たわり、信大が避妊具をつけていくのを雅野はぼおっとした顔で見ていた。
 雅野の両膝を開いて足の間に入った信大が腕を伸ばして雅野の頭の下に枕を当てるとするっと頬をなでた。雅野を見る信大の顔は少しほほ笑んでいた。
 熱くとろけたままの雅野の入口へ信大のものがあてがわれると同時に入り始めた。信大らしい徐々に押し開いてくる圧力が愛撫のように感じられて雅野はすべてを開いて受け入れていく。隙間ないほどに奥まで入った信大にさらに腰を押し付けられるたびに雅野の体が揺れる。胸に乗せていた手がだんだんと開いて体の脇へ落ちると信大が上体を倒して雅野の唇を覆った。
「ああっ……」
 唇から首筋へと移った唇がさらに下がって片方の丸みへとなぞっていく感触に雅野はびくっと背を反らした。突き出された胸の先端に信大の唇が触れ、柔らかく含まれただけで全身に震えが走る。信大の唇も舌も強くはないのに、固く突き出た乳首が痛いほどに感じられる。
「とてもきれいだ」
 信大の言葉の愛撫にさらに雅野の胸が揺れた。唇でなぶられ、舌で転がされるたびに雅野の中がきゅうきゅうと信大を締め付ける。信大が動かないのに雅野の腰が動いて中にいる信大を何度も擦っている。
「なんて……」
 言いかけたが、信大にも話す余裕がなくなってきて言葉が途切れた。波打つ雅野の体に信大もほとんど限界まで高められながら雅野のそれぞれの乳首をきゅっとつまむと雅野の中がひときわ強く締め付けられた。息を乱し、腰を浮かせて締め付ける雅野に信大は最後の熱を放つのみだった。



 雅野が目を覚ましたのは翌朝になってからだった。部屋のドアが開く音に気がついて目を開けると、着替えも済ました信大がトレーに乗せてミネラルウォーターの入ったグラスを運んできたところだった。
「目が覚めましたか。喉が渇いたでしょう、飲みますか」
 雅野は赤くなりながら起き上がってうなずいた。しわになったベッドのシーツや掛け布団はいかにも昨夜のことを思い出させる。信大はサイドテーブルにグラスを置いたが、雅野は掛け布団を膝の上に引き上げながら小さくため息をついた。
「なんだか自分がすごくいやらしくなった気がします」
「確かにいやらしかったですね」
 うわ、追い打ちだ、と雅野は泣きたい気分で信大を見たが、信大は穏やかに笑っていた。
「いやらしくて、とてもかわいかった」
 すっと信大の顔が近づけられて雅野の赤くなった頬にキスがされた。
「おはよう」
「お……おはようございます」
「起きられるようなら朝食にしましょう。雅野さんに話したいことがあるんです」

「えっ……」
 朝食のテーブルでミルクティーのカップを手にしたまま雅野は目を瞠って信大の顔を見た。
「それは本当の話ですか」
「本当です」
 信大は落ちつき払ってうなずいた。
「北之原美術館で事務の職員の募集をすることになったのです。それで雅野さんにどうかと思いまして」
 信大の話というのは雅野が思ってもみなかった仕事の話だった。



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