六月のカエル 8


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 面接用のスーツを着た雅野はオフィスビルの前にある歩道の日陰に入ってハンカチで顔の汗を押さえた。暑い日射しの中を行き交う人たちも手で顔をあおいだりして足早に歩いている。半袖、ノーネクタイの人が多く、こんな日に黒いスーツをきっちり着ているのは就活中の大学生と、そして
雅野くらいだろう。
 今日、雅野はある企業の面接を受けたが、手ごたえは良くなかった。中途採用や転職での採用をしている企業ではどこも即戦力になる高いスキルを求められる。就職して二年間、事務の仕事をしていた雅野にはそこまでのスキルも経験もなく、新卒の就活のときよりも厳しく感じていた。

 ワンルームの部屋に帰ると今日受けた面接の結果が早々とメールで連絡されてきて、やはり不採用だった。
(簡単に見つかるとは思ってなかったけど)
 スマートフォンを置きながら雅野はため息をついた。会社を辞めてから四ヶ月になろうとしている。少しはあった貯金もどんどん減ってもう底が見えているし、このまま職が見つからなければ
東京でひとり暮らしを続けることはできなくなってしまう。
 当面はアルバイトをしながら就活をするしかなさそうだ、と思いながら雅野はまたスマートフォンを取り上げてアルバイトの求人情報を探し始めた。


***


 次の日、雅野は信大の家に約束した時間よりも少し早く出かけた。髪もメイクも念入りに整えて、服はダスティピンクのギャザースカートとアイボリーホワイトのスクエアネックのカジュアルなブラウスを選んでナチュラル系にまとめた。着替えやらなにやらは大きなバッグに詰めたので一泊旅行に行くような雰囲気になってしまったが、一週間ぶりに信大と会うと思えばそうなってしまう。午前中には静岡の母から宅配便でたくさんの野菜が届けられてどうしようかと思ったが、迷ったすえに信大のところに持って行くことにした。大きなトートバッグがもうひとつ増えてしまったが、信大と会えると思えば重い荷物も気にならなかった。

「なんだか重そうな荷物だね」
 梅雨明けの晴れて暑くなった夕方、雅野が信大の家を訪ねると信大は家の前で待っていて雅野の持ってきた大きなトートバッグのほうをすぐに持ってくれた。
「こんなに荷物があるのなら迎えに行ったのに」
「ううん、大丈夫です」
 信大には早めに行くので迎えはいらないと雅野からあらかじめメールしておいた。それでも家の前にいる信大を見たときには雅野は荷物の重さなど忘れて走り寄っていた。
「待っていてくれたんですか」
 雅野が聞くと信大はいつもの笑顔でにこりと笑った。
「ええ。雅野さんに早く会いたくて」
 信大は仕事を終えて着替えたらしく、紺色のシャツと黒いジーンズだった。黒縁の眼鏡はいつもと変わらなかったが、カジュアルな服を着ている信大を見るのは初めてだった。すっきりとした体型の信大は長袖の紺色のシャツを着ていても暑苦しくは見えず、かえっていつもの仕事の時とは違うくだけた雰囲気が休日の前日ということを感じさせた。

「暑かったでしょう。どうぞ」
 信大がドアを開けて入れてくれた家の中はいつもの涼しさで、重いバッグを持ってきた雅野には別世界のように感じられた。
「あの、これ、静岡の家から送ってきてくれたものですけど」
 信大が台所のテーブルの上に置いてくれたバッグの中から雅野はたくさんの野菜を取り出した。ナスやピーマン、トマトやズッキーニ、いずれも雅野の母が育てた野菜だった。
「おや、これはみごとな野菜ですね」
「これで夕食を作ったらどうかなと思って。信大さん、野菜で嫌いなものってありますか」
「嫌いなものですか、べつにないですね。なんでも食べますよ。でもいいのかな、これはお母さんが雅野さんに送ってくれた物でしょう」
 信大に言われて雅野は慌てて手を振った。
「いつもひとりじゃ食べきれないくらい送ってくるからいいんです、ほんとに。それに今日届いたばかりだから新鮮なうちに食べたほうがおいしいですし」
「そうですか。じゃ、お言葉に甘えて」
 すんなりとそう言った信大に雅野はほっとして保冷袋からパックされたベーコンやビン詰めのトマトソースを取り出した。
 母は折々に野菜やいろいろな物を送ってくれたが、いままで雅野は誰かに野菜をあげたことは一度もなかった。田舎じみていると思っていたし、つきあっていた男にしても野菜は嫌いだと言って肉ばかり食べていた。それに野菜を持って行って料理するなんて慣れ慣れしいみたいで雅野は部屋を出る直前まで迷っていた。でも一方で信大ならきっと嫌がったりしないだろうという確信のような気持もあって、野菜を持って行くことにしたのだった。

「僕も手伝いましょう」
「あ、いえ……すみません」
 野菜を洗おうとしていた雅野のとなりに来て信大が代わって手伝い始めた。ズッキーニやナスをざるにあげて、さらにピーマンやトマトを洗っている手つきは雅野よりも慣れたものだった。
「ところで、これでなにを作るのかな」
「あ、えっと、ラタトゥイユです」
 信大の手元を見ていた雅野は我に返って答えた。
「わたし、料理はあまり得意じゃなくて、これは母から教わったんです。母の実家がトマト農家で、母も野菜作りをしているのでこれくらいは作れるようになりなさいって仕込まれて」
「それじゃ本格的なのかな。楽しみですね」
 そう言って雅野を見た信大の目が笑っている。
「え、そんなことないですよ。わたしはお料理、上手じゃないって言ったじゃないですか」
 信大に期待されたら困ると雅野は慌てて白状した。
「いつも母から叱られているんです。手際が悪いって。信大さんのほうがお料理上手そう」
「いや、それほどでもないですよ。ひとり暮らしだから必要に迫られてやるだけです」
「でもこの前のパスタ、おいしかったです」

 雅野がこの前泊ったときに信大が作ってくれたのはペペロンチーノだった。スパゲティとにんにくと唐辛子だけというシンプルな料理だったが、いままで男性に料理を作ってもらったことがなかった雅野は感心して見入ってしまった。
「じゃあパスタも茹でましょうか。ラタトゥイユにも合いそうだ」
「あ、それいいですね。母の作ったトマトソースもおいしいですよ。これ、わたしが好きだからいつも送ってくれるんです」
 明るい声で答えた雅野に信大がすっと顔を近づけてきた。えっと思い咄嗟に顔を引いた雅野の顔をのぞき込んで信大が言った。
「いいお母さんなのですね」
「はい……」
 答えてから雅野は素直すぎる答えに自分でも驚いてしまった。

 会社を辞めてしまった雅野に母は以前よりもひんぱんにいろいろな物を送ってきていた。野菜や米はもちろん母の手作りの焼き菓子などもあって、いつも必ず雅野が好きな物がひとつは入っていた。母がいろいろ送ってくれても以前はありがた迷惑くらいにしか思っていなくて食べきれずに捨ててしまったこともあったが、いまはかなり食費が浮いて助かっている。
「きっと心配しているんだと思います。仕事のこととか……」
 雅野もいまは素直にそう言える。
 あまり要領の良くない雅野とは違って母はなんでもてきぱきとこなす人だったので、会社を辞めてからしばらくは電話であれこれ言われるのが嫌で母の声を聞くことも気が重かったのだが、このごろは母からの宅配便が届くたびに電話するようにしていた。

「就職活動のほうはどうでしたか」
 信大に尋ねられて雅野は首を振った。言いにくいことだったが、信大に尋ねられたら答えないわけにはいかない。
「きのうも面接を受けたけどだめでした。求人自体も多くないし、わたしはたいしたスキルもなくて、派遣会社でも一般事務は厳しいみたいです、……すごく」
「そうですか……、ですが今は時期も悪いと思いますよ。新卒の就活時期でもありますからね」
 案じているような信大の声にやはり心配してくれていたのだと気がついて雅野は顔をあげた。 
「でも、あきらめずに探していくつもりです」
 そうでないときっと母から帰って来いと言われてしまう。けれども静岡に帰ったら信大とあまり会えなくなってしまう。そうはなりたくないからなんとしても東京で仕事を見つけたいと思っているのだが、いまのところ思うようにはいってない。それでも顔を上げて信大を見ているとすっと信大の顔が近づいてきた。
「お母さんもわかってくれていますよ。雅野さんが就活にがんばって取り組んでいること」
 ほかの人に言われたら月並みなことでも信大に言われたらうれしい。就活のいちいちを信大に話しているわけではなかったが、それでも信大は雅野の気持ちを察してくれているようだった。
 信大の思いやりに礼を言うつもりで雅野が口を開きかけると信大の腕が体に回されて抱きしめられた。映画やテレビドラマでは見たことがあっても実際にはしたことのないハグに一瞬雅野は驚いたが、信大の胸に顔をつけらながら自分から信大の背に手を回した。こんなにやさしいハグは初めてだった。
「信大さん……」
 雅野が信大の胸につぶやくと少し体が離されて信大と目が合うとそのまま唇が触れてきた。柔らかく触れた信大の唇が雅野の唇を開いて舌が絡む。強引でないのに雅野の唇をしっかりと捉えて離さない親密なキスだった。
「あ……」
 やっと信大の唇が離されると思わず雅野から声がこぼれてしまった。
「そんな声を聞くとすぐにでもベッドに連れていきたくなってしまうな」
 耳元で言われて雅野の耳が一気に熱くなった。
「でも、まだ野菜が」
「そうでした、料理の途中でしたね。どうも僕は雅野さんといるとコントロールが効かなくなるようだ。すみません」
 謝りながら信大は雅野の体を離してくれたが、コントロールが効かないというのは自分のことを言われた気がして雅野は耳へ手をあてた。会って抱かれるたびに他のことが入ってくる余地がなくなってしまうのは雅野のほうで、いまだって信大に本当にベッドへ行こうと言われたらきっと行ってしまっただろう。そういう流されやすいところが自分にはあると雅野は今頃になってわかってきた。



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