六月のカエル 6


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 梅雨はまだ明けていなかったが、晴れ渡った空から降りそそぐ強い日射しに雅野は目を細めた。昨日までは雨が降っていて地面も大気もめいっぱい水気を含んでいたのに、今日は午前中から
ぐんぐん気温が上がって昼を過ぎたときには真夏並みの暑さになっていた。
 駅から歩いてきた雅野は美術館の近くのカフェに入ってやっと日射しの強さと暑さから解放されてほっとした。ほどよい席数で落ちついた店の中には平日の昼を過ぎていたこともあってかほかの客はひとりしかおらず、雅野は小さな庭に面した窓ぎわのテーブル席に座ることができた。アイスコーヒーを頼みながら雅野はガラスの向こうの庭越しに信大の働いている美術館のほうを見てみたが、近くても店内から美術館の建物を見ることはできなかった。信大との約束の時間まで待つ間も何度となく入口のドアのほうを気にして見てしまい、自分の落ち着きのなさに気がついて雅野は小さく深呼吸した。スマートフォンを取り出して求人情報を見てみたが、本気で探す気になれない。すぐにスマートフォンをバッグに戻してもう一度入口のドアを見ると、ドアが開いて信大が入ってきた。


 あの雨の夜の次の日、信大には雅野の住むワンルームマンションまで車で送ってもらったのに
ろくに話もできなかった。朝、信大のとなりで目が覚めて、昨夜のあれこれが思い出されるにつれて恥ずかしさで顔もあげられなくなってしまっていた。
 雅野が着ていた服は夜のうちに信大がハンガーにかけてくれてあり、そればかりではなく下着もきれいにたたまれて置かれていて、なんと洗濯までしてあったのだ。雨に濡れたせいだけではなく湿っぽくなってしまった下着を脱ぎ散らかしたまま雅野は眠ってしまった。シャワーを借りることもせずに信大と体を合わせてしまったし、化粧も落としていなかった。いくらなんでも女として恥ずかしすぎることをしてしまった。
 それにシャワーや化粧や服とかそういったことよりも信大とした行為そのもののほうが思い出せば出すほど恥ずかしかった。後ろからしてほしいなんて雅野はいままでに一度も言ったことはなかったのに。
 それに、わたし、いったい何回この人に……と、考えただけで雅野はぶるぶると顔を振ってしまった。何回いかされたのか、それを思い出すだけで息が詰まりそうなほど恥ずかしくなる。雅野にとってもこんな経験は初めてだった。

「昨夜はお互いに本能だけになってしまったようですね。でも僕は気にしませんよ」
 信大はいたって普通の様子で淡々と言ったが、雅野は家まで送ってもらう車の中でも顔を上げられず信大の顔もまともには見られなかった。
「そこで大丈夫です。すみません……」
 雅野の住んでいるワンルームマンションの建物の前に信大が車を止めても雅野はそう言うのが精いっぱいだった。
「雅野さん、待って」
 そそくさと車を降りようとした雅野を信大の声がやさしく引きとめた。
「これを受け取ってもらえますか」
 えっと振り向いた雅野に信大の名刺が差し出されていた。仕事で使っている白い名刺には携帯電話の番号とメールアドレスが手書きで書かれていた。
「あ、わたしのアドレスは」
 雅野があわててスマートフォンを取り出そうとすると信大は笑って押しとどめた。
「雅野さんが後悔していなければ後で連絡をください。メールは仕事中は返信できませんが、後で必ずしますので」
 そう言って信大は帰っていったが、信大の車を見送って部屋に入ってからしばらくして雅野は信大が考える時間を与えてくれたのだと気がついた。ひとりで顔を赤くしていた雅野を見かねたのだろうが、落ちついて考えて、そして雅野が後悔していないのなら連絡してほしい、信大はそう言っていた。

 自分の部屋のなかで雅野はふうっと深呼吸してまわりを見まわした。出てきたときそのままの部屋は片付いているとは言えず、放り出してあったパジャマを拾い、ゴミを片付けるとシャワーを浴びた。なにも考えずに身の回りをきれいにしているとだんだんと心が落ち着いてきて信大のことを考えることができた。信大の言ったことを考えて、そして翌日、雅野は信大へメールを送った。また会いたいです、とシンプルに伝えるだけにして。
 信大からはすぐに返事が返ってきて、来週の美術館の休館日には庭と外回りの手入れをするメンテナンスの業者が入るために立ち合わなければならず、昼過ぎには終わるのでよかったらそれから会いましょうということだった。







「すみません、お待たせしました」
 すぐに雅野のいるテーブルに近寄ってきた信大は暑い中を歩いてきただろうに汗もかかず涼しげで、いつもの黒縁の眼鏡もかけていたが眼鏡の奥の目が雅野に笑いかけていた。
「あ、いいえ、お休みの日なのに大変ですね」
 とくんと胸の鼓動が跳ね上がったのを感じながらも雅野はなるべく自然な笑顔になるように気をつけながら信大を見た。
「迎えに行けなくて申し訳ありませんでしたね。メンテナンス関係は休館日でないとできないので雅野さんに来てもらうことになってしまってすみません」
 そして、いいですかと雅野に聞いてから信大は向かいの席に腰をおろした。
 信大は仕事だったためかワイシャツとスラックスで、今日のワイシャツはごく細いストライプの入ったものだった。どこにでもいるビジネスマンのようなシャツを着ている信大は見た目は堅くて地味なのだが、眼鏡の奥の目は黒目がちな人懐こい目をしている。その目にじっと見つめられていると雅野の頬にうっすらと赤みがさしてきて、それを隠すように雅野は頬へ両手をあてた。
「すみませんでした」
「え、どうして謝るんですか」
 どうしてと言われても雅野には理由がたくさんありすぎた。けれども信大と会ったらすぐに謝ろうと思っていたのだ。
「先週のあの日のこと、ちゃんとお礼も言えずにすみませんでした。子どもみたいなことをしてしまって、いろいろと自分が恥ずかしくて……でも、後悔したんじゃないんです。後悔はしていません」
 雅野は今度こそちゃんと信大に言った。
「だから、あの、また北之原さんに会いたかったんです」
 聞いていた信大が穏やかな表情のまま頷いた。
「そうですか、それを聞いて安心しました」
 あっけないほど静かに言われて雅野はちょっと力が抜けてしまった。変わらない様子で信大は目の前にいる。

「北之原さんって……」
「はい?」
「大人なんですね」
 雅野にしてみたら正直な気持ちで言ったのだが、信大は笑いをこらえているような顔をしている。
「大人ですか。まあ、これでも三十七ですから」
「え」
 聞かされた信大の年齢に雅野は思わず驚いてしまった。黒縁の眼鏡をかけた信大は堅い印象だったので歳相応に見えるといえば見えるが、眼鏡をはずした顔はもっと若く見えた。
「意外でしたか」
「いいえ、ちょっと驚いてしまっただけです。眼鏡をしていない北之原さんのほうが若く見えたので。コンタクトはしないんですか」
 雅野が少し顔を近づけて眼鏡の奥の信大の目を見上げるようにした。
「コンタクトは合わないんです。それよりも」
 それほど顔が近づいたわけではなかったが、真っ直ぐに信大を見ている雅野の目から信大はさりげなく視線を逸らした。

「雅野さんはこの一週間なにをしていました?」
 急に信大に聞かれて雅野はちょっと首を傾げた。
「えっと、仕事を探していました。転職求人サイトを見たり、派遣会社も調べてみたのですが、事務の仕事を見つけるのは難しいようです。もう少し調べてみて転職説明会のようなものがあったら行こうと思っています」
 頷きながら信大は聞いていた。
「あと部屋の掃除や片づけをしたり、あの、ずっと手抜きしていたので。それから美容院にも行きました」
「そうですね、仕事を探すのには面接もあるでしょうからね」
 信大はそう言ったが、雅野はちょっと曖昧に頷いただけだった。会社を辞めてから行ってなかった美容院へ行ったのは仕事を探すためもあったが、それよりも今日信大と会うから、とは言えなかった。

 空いていた店内だったが、近所の人らしい中年の男女数人が暑いねと言いながら連れだって入ってきた。カフェのマスターに涼みにきたよと言っている。それを見た信大がすっと二人分の伝票を取り上げた。
「雅野さん、よかったら後で食事に行きませんか。まだ時間がありますし、ちょっと聞きたいことがあるので事務所のほうに来てもらってもいいですか」
「あ、はい」
 聞きたいことってなんだろうと思いながら、ここにはほかの客もいたので事務所と言った信大の言葉に雅野はすぐに立ち上がった。

 信大と連れだって歩く道は強い日差しで道からは照り返しの熱気が昇ってくるほどだった。カフェからすぐの美術館は門が閉められていたが、塀の外側の低い植え込みはきれいに整えられていた。美術館の前を通って角を曲がると事務所で、事務所の横に植えられている樹も刈り込まれたばかりだった。
 雅野が前に来た時には気がつかなかったが、事務所はかなり古い建物のようだった。直線的なモダンなデザインで、洋風建築といってもいいような建物だった。
「こちらからどうぞ」
 以前入れてもらった事務所の玄関ではなく、建物の脇にあるドアを信大が開けてくれた。信大はこちらを普段の生活の出入口にしているという。
「お邪魔します」
 雅野がそう言って入るとドアの中は広くないながらも上り口があり、廊下に面していてきちんと
スリッパが置かれていた。
「あ、涼しい」
 思わず雅野は言ってしまった。蒸し暑い外から入ってきた建物の中は空調が効いていて廊下までもが涼しかった。
「ここは建物全体に空調が効いているのですよ」
「美術館と同じなんですね」
「そうですね。美術館は現代の建物ですが、こちらは北之原家の昔の家だったんです。戦前の高名な建築家の設計ですから文化財に指定されてもおかしくないようですよ」
「え、そうなんですか」
 信大はなんでもないことのように言ったが、雅野は急に不安になってしまった。
「わたしがお邪魔してもいいのでしょうか」
「なにを言ってるんですか」
 くすっと信大が笑った。
「このまえ泊っていったじゃないですか」
「あ、そうでした……」
 そこで信大に手を引かれた。信大は雅野の手を握ったままドアを閉めると、眼鏡をはずしながら雅野の体に腕を回してきた。
「あがってください。早く」
 雅野の心臓が一気に波打ち始めた。



 二階の信大の部屋はひんやりと涼しかった。
 部屋の中に入るなり信大に引き寄せられて唇をつけられていた。夢中でキスをかわすうちに雅野の足から力が抜けそうになったが、それでもなんとか顔を離した。
「あの、聞きたいことって……」
 ちらっと信大の顔に苦笑いのような表情が浮かんだ。
「すみません、そのつもりでしたが気が変わりました。話はまた今度にします」
 信大の顔がまた近づいたかと思うと唇が触れてきた。信大を見上げるように見ていた雅野の唇はすぐに信大に絡めとられて開かれてしまった。
「あ……」
 強引ではなかったが、ゆっくりと雅野の口の中をなぞる信大の舌になんの抵抗もできなかった。柔らかく動く信大の舌に誘い出されて雅野も自分から舌を絡めた。何度も深くキスをして、やがて信大の唇が雅野の首筋へと降りていった。
「この一週間ずっと待っていたんです。雅野さんに会いたいと何度思ったかしれない」
 信大の声にささやかれて、雅野の体の芯が熱を帯びていく。
「あなたを抱きたい。いいですか」
 信大の言葉はあの雨の夜が戻ってきたかのようだった。服の上から信大の手で胸からウエストへとなでられただけで雅野はびくっと反応してしまった。
「わたしも会いたかったです。会って……」
 顔を赤らめずには言えなかったが、雅野は自分を見る信大から目を離さずに見つめ続けていた。体の熱さとそして胸の鼓動の高鳴りを抑えながら雅野は小さな声で言った。

「抱いてほしいと思っていました……」



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