六月のカエル カエルのつぶやき


カエルのつぶやき

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 危ういな。

 それが彼女を見た最初の印象だった。
 しっかり化粧をしいて服装もおかしくない。だけど、どこか頼りない。そんなふうに感じた。
 展示室に入っていく彼女を密かに目で追っていると、この美術館のメインの展示の茶碗の前へと真っ直ぐに歩いていった。ほかの物には目もくれず茶碗がそこにあるのを知っていて向かっている歩き方に、おや、と思い展示室の入り口まで行って見ていたが、茶碗を見る彼女の目は動かず一心に見ていた。
 だが彼女は惹きつけられて見ているというよりは、見るということ自体に没入しているという感じだった。そして展示ガラスの前に立つ彼女を少し離れたところから見ていて思い出した。彼女は以前にも来たことがある。

 彼女だと思いだしたのは立っている姿だった。背は平均くらいの高さなのに足がすらりと細くて腰の位置が高く、高めのヒールの靴をはいているのが良く合っている。胸も大きくて、きれいなプロポーションだった。こちらも男だからそういうことはやはり見てしまうというか、好むと好まざると見えてしまうのだからしかたないのだが。

 しばらくすると彼女は展示室から出てきたが、記憶をたどってみると以前の彼女も梅雨時に来ていたような気がした。あのときは学生っぽいカジュアルな服を着て、ひとりで来ていた。若い女性がひとりで来るということ自体がここではわりと珍しかったから、それも彼女を憶えていた理由かもしれない。

 それにしても。
 どこに住んでいるか知らないが、よくここまで無事に来たな。
 いろんな意味でそう思った。彼女なら男から声をかけられることも多いんじゃないか。ついそんな下卑たことを考えてしまったが、彼女のプロポーションは素晴らしいのに様子がどことなく変だった。ときどきふらつくような歩き方はどこか悪いのだろうか、顔色も良くない。
 そんなことを思いつつも声はかけられなかった。ひとりだけとはいえ俺はこの美術館の管理責任者だ。よほどのことがない限り客である彼女に声をかけたりはできなかった。

 それから十日ほどしてまた彼女がやってきたときには驚いたというよりは不思議に思った。この美術館は人気のある所蔵品を有しているわけでもなく、どちらかというと学術研究者などいわば玄人に知られた美術館だ。もしかして彼女も研究者かと思ったが、どうみてもそんな雰囲気じゃない。
 それでも彼女は十日前に来たときよりはいくぶん落ちついたように見えた。歩き方や表情から推察するしかないのだが、暗かった顔つきがなんとなく良くなっているように見えた。今回も黒い茶碗を一心不乱に見つめて、そして帰って行ったが、後ろ姿を見送りながら、また彼女は来るだろうかとつい考えてしまった。

 それからは毎週だった。
 彼女はきまって平日の午後に来る。梅雨入りして天気の悪い日も多かったが、彼女は変わらず来た。そして来るたびに表情が明るくなっていった。彼女に気がつかれないように見ているうちに、入場料を支払うときのしぐさや、持っているバッグや着ている服など、すべてがふんわりとした女性らしさに溢れているのに気がついた。笑っているところはまだ見たことはなかったが、きっと笑顔も素敵な女性に違いない。また来週も来たら今度こそ声をかけてみよう。密かにそう決心した日の夕方だった。彼女にまた会ったのは。

 急に強く降ってきた雨でふたりともひどく濡れてしまっていた。事務所で彼女にもタオルを渡したが、こんなところで知らない男とふたりきりになって警戒しない女性はいない。すぐに帰ると言いだした彼女に思わず来週も来るのかと聞いてしまった。驚く彼女に以前に来たことも憶えていると言ったが、彼女の警戒を解くことはできなかった。まあ、当然だ。でも彼女がもう来なくなってしまうのが惜しくて、待っていると言ってしまった。どこのだれとも知らない彼女に。

 次の週も彼女は来た。けれども喜びそうになった気持ちをぐっと押さえた。彼女の表情が険呑だ。なにかに怒っているらしい。
 いままでに見たことがない表情で目の前にいる彼女は俺に怒っているとしか思えなかったが、これは俺が待っているといったせいなのか。ほかに心当たりはなかったが、いつになく乱暴な足取りで展示室に入っていく彼女を見送るしかなかった。
 展示ガラスすれすれに顔を寄せて茶碗を見ている彼女の横顔はやはり怒っているようだった。いつもより長く茶碗を見て出てきた彼女をじっと待っていたが、歩いてきた勢いそのままで彼女の口からこの後で待っていてもいいかと言われたときには、きっと後で苦情を言われるのだろうと思っていたのだが。

 雨の中、傘をさして事務所の前で立っていた彼女は不安げで、悲しそうで。
 まるで美術館に来始めたころの彼女に戻ってしまったかのようだった。

 ヤルだけの女。
 彼女は唐突に自分のことを話しだした。つきあっていると思っていた男がそう言っていたと。
 それを聞いて腹の底にじわりと怒りが沸いた。男のほうは最初からそのつもりだったのだろうし、ほんわりとした雰囲気を持っている彼女につけこんだのだろう。強く言いだせずにいた彼女も悪かったのだろうが、言って別れが決定的になってしまうのを無意識に避けた彼女の気持ちもわかる気がする。かつての自分も妻と別れる前はそうだった。妻との仲は結婚後すぐに冷めてしまっていたのに最後のひと言が言えなかった。

 傷つけられた痛みは男も女も関係ない。
 傘の中で泣いている彼女を見ながら考えていた。
 彼女を慰めてやりたい。それは男と女としてのやりかたになってしまうだろうけど、彼女が望むのなら立ち直るのに手を貸したい。

 しかし、男に捨てられて泣いている彼女が別の男に慰めてもらいたいと思うだろうか。心のダメージが男というものを拒否させてしまっても無理からぬものだ。だから帰るのなら送るという選択も用意したうえで聞くと彼女は俺の腕の中でふるっと首を振った。

 もしも彼女がキスや愛撫を拒むのなら慰めるだけでいい。泣きたいのなら気が済むまで泣かせるだけでもいい。そう思うくらいの理性は残っていたが、けれども抱き寄せた彼女は素直に俺からのキスを受け入れた。事務所の二階の部屋へ連れて行っても逃げ出す様子はなかった。抱きたいと、きちんと言葉にだして言ったが彼女は拒まなかった。
 男に弄ばれて傷つけられたのに、彼女は拒否しなかった。
 どうしてだろうかと疑問に思ったが、俺のことを拒否しなかったことのほうに気持ちは高揚していた。
 けれども本当の意味で興奮したのは、彼女が驚くほど欲望に素直なのだとわかったときだった。

 彼女を抱こうとしたときに「後ろからして欲しい」と言われて内心はかなり驚いた。まさかいきなりバックとは。彼女のことはいたわって慰めたくて抱こうと思っていたのに、つい我を忘れてしまいそうになった。

 素直すぎるほどに反応していた彼女のなかは熱くて、惜しげもなく濡れていた。逸る気持ちを抑えて優しく愛撫してやればあっけなく上り詰めてしまった。かわいい目を快感にとろんとさせている、それなのに自分がこんなにも魅惑的だと自覚がない彼女。
 そんな彼女は、離婚してから誰ともつきあわず、もう女性とは縁がなくてもいいと思っていた俺には甘すぎる露だった。

 ふるりと揺れて出てきた乳房も。
 きゅっと締まった胴に、胸と同じくらい魅惑的な尻も。
 そして最も敏感なところを広げて晒している姿態も。
 すべてが甘く俺を絡め取って離さない。

 いや、彼女が離さないんじゃない。
 俺が離れられなかった。
 俺を入れたまま快感に震えている彼女の背中に覆いかぶさって重なったまま、ずっとずっとこのまま抱いていたい。
 彼女のなかの締め付けに耐えながらそう思っていた。

 これじゃまるでカエルだ。
 交尾のあいだじゅう後ろからメスに抱きついて離さないオスのカエルだ……。





 くったりとして眠りこんでしまった彼女の寝顔を見ながら心地良い疲れに浸っていた。こんな心地良い疲れは久しぶりだった。
 小さな寝息をたてながら彼女は子どものようにあどけない顔で眠っていた。さっきまでの姿態が嘘のようだ。ここまで無邪気だといっそすがすがしい。
 外からは雨の降る音が聞こえている。なにもかもが濡れているこんな夜に彼女とならカエルになるのも悪くない。
 もう彼女を手離したくないが、いまは彼女の眠りを邪魔しないでおこう。きっと眠れない夜を過ごしていただろうから。
 それに。

 慰められたのは俺のほうかもしれないな……。



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