六月のカエル 5


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 気がついたときには唇を合わせていた。
 事務所の鍵を開けて中へ入ると男はすぐに雅野を引き寄せていた。
「……名前も聞いてないです」
 唇を解放されて雅野が言うと、男はすまなそうに謝った。
「すみません。あなたがかわいすぎて我慢ができなくなった」
 そして黒縁の眼鏡をはずすと雅野の手を引いて二階へと階段を上っていった。男がひとりで事務所の二階に住んでいると言って入れてくれた部屋にはモスグリーンのカバーがかけられたベッドがあった。
 男はドアを閉めるとまた雅野を抱きしめてキスをした。いきなり深くなったキスに雅野がわずかに身を引くと男はからめていた舌を緩めて雅野を抱き直した。
「あなたを抱きたい。いいですか」
 そんなふうに言った男に雅野はまた驚いてしまった。いままでそんなことを聞かれたことはなかった。もうキスまでして、こうして抱き寄せられているのに、男が丁寧に言ってくれる、それが雅野には不思議にうれしかった。
「いつもそういうふうに聞くんですか……?」
 薄暗い中で男が笑った。
「いつも? まさか、あなただから聞くんですよ。慰めたくて抱いたのに後悔させたら僕が立ち直れなくなる。まあ、この歳になれば経験がないというわけじゃありませし、むしろしなくてもいい経験もいろいろしてきました。五年前に一度結婚してすぐに別れました。子どもはいませんが、それであなたが気にするのならと思ったまでです」
 そうなのか、と雅野はぼんやりと考えた。
 男は思ったほど世間からかけ離れているわけではないらしいが、そういうことを隠さずに先に言ってくれるだけいい。
「抱いてください」
 雅野が初めて口にした言葉だった。そう言った自分がほほえんでいるのが雅野にもわかった。それを見て男も同じようにほほ笑んだ。
「あなたの望むように」



 男の唇がまたつけられて、雅野の体を引き寄せながらもう片方の手が胸のふくらみを探り始めていた。服の上からでも容易にわかる胸の先端を指で挟んで乳房を揉む男の手はやはりこういうことに不慣れな手ではなかった。
「どうしてほしいですか」
 耳元にささやく男の声に雅野の背筋がぞくっと震えた。男の手が雅野の服を脱がせてブラジャーのホックをはずすと、揺れて出てきた乳房に男の目が細められた。
「さわってもいいですか」
 顔から火が出るかと思うほど赤くなって雅野は自分の胸を両腕で抱くように隠した。別の男には何度も触られたことがあったのに、この男には見られているだけですごく恥ずかしい。さわっていいかと聞かれたらなおさらだ。
「あっ……」
 腕で囲った中の盛り上がりに男の指がすっと近づいただけで破裂しそうに膨らんで飛び出してしまいそうに感じてしまった。
「さわられるのは嫌?」
「い、嫌じゃないです」
 雅野の腕の内側に固く立った先端が当たっている。以前はさんざんいじられて嫌だったのに、今はそこに触れて欲しいと訴えているかのようだった。それなのに、どうしても恥ずかしい。体の芯までもが熱くなっている。
「言ってください。どうしてほしいですか」
 男の言葉が雅野の内部を煽る。胸もうっすらと赤く染まっている雅野に、男は雅野の両腕に手を当てて返事を待っていた。
「後ろから、して、ください」
 初めて抱かれる男に後ろからという女ってどう思われるだろう。そう考える余裕もなくなって雅野は振り絞るように言った。
 男は少しほほ笑むように軽く雅野の唇にキスをして、そしてまた言った。
「あなたが望むのなら喜んで」


 男の手がするするとショーツを引き下ろして足から抜いてしまうと、雅野は男の顔を見ずにくるりと向きを変えてベッドのすぐそばの床に膝をついた。男もなにも言わず雅野の後ろに同じように膝をついた。
 モスグリーンの布が掛けられたベッドに雅野が手をつくと男の手が尻にかかった。ゆっくりと撫でてから股を左右に開くと、男の指が雅野の谷間へと入ってきた。自然に開いている柔らかな襞をなでられる、たったそれだけでこの男に初めてそこに触られる羞恥と、後ろを晒しているという羞恥とで雅野の体が熱さを増した。
 指は谷間の中を前後に這い、突起の上をかすめるように何度も滑った。強くない微妙な力加減で滑る指にもっと、と言ってしまいそうになったが雅野は息を荒くして耐えた。入口を探られるとすでに潤んだそこからはとろりとした露が出ていて、男の指が小さな水音をたてるのが聞こえてくるほどだった。雅野自身が信じられないくらいに濡れていた。
「とても濡れている」
 感嘆しているような声音で言った男の声はどこかうれしそうだった。この人を喜ばせている。そう思っただけで雅野の奥がきゅっと震えた。なんの抵抗もなく入った男の指が動いて雅野の中をかき混ぜると露がさらに溢れ出て、ぷっくりとふくらんだ突起にも広げられて滑った。さっきよりも強い刺激がくるくると突起を這いまわり、雅野の中で急激に快感が高まる。背を反らしてせり上がってくる快感に息を詰めると男の指を押し出してしまったが、なおも内部はひくつき続けて雅野はひとりで達してしまった。
 うつぶせにベッドに倒れて快感に身を任せていると、後ろで避妊具をつけおえた男の手がまた尻に触れてきた。
「すてきな姿態だ」
 雅野の耳にささやかれると準備のできた男のものがゆっくりと雅野の中へ入ってきた。
「……は」
 まだ引きつっている入口を押し開かれてゆっくりと圧力が入り込んでくる。なじみのない入りかたに雅野の腰が動いてしまいそうになったが男の手が支えていた。肘をついてはあっと息を吐いた雅野の中が少し緩んで、その隙を狙ったように男が奥へ進む。締まっている中を押しながら男のものが奥を開いていく。
 ベッドの端に上半身を乗せた雅野の背後から両脇に手を突いて同じ姿勢で覆いかぶさった男が緩いほどにゆっくりと腰を前後させる抽送で雅野の最奥を何度も突く。ふたりの体のあいだからは絶えず水音が溢れ出て、初めての相手とは思えないほど奥深くまで繋がりながら体を押されるたびに繰り返し強まってくる快感にどうすることもできず、また雅野は達した。

 雅野がびくびくと震えながら締めつけているあいだも男の体が後ろから抱きついてなおも離れずにいた。肌と肌とを隙間なく触れ合わせ、胴を抱かれた姿勢のままで息をついていた雅野の中で震えがおさまってくると、それまで動かなかった男の固い芯がゆるりと動きだした。
「あっ、あっ」
 焦ったように雅野が声をあげた。快感の波が引ききっていない雅野の中は少し動かれただけでまた高まってしまいそうになっているが、抱きつかれている男の腕から逃れる術がない。
 雅野の後ろで男の腰が動くたびに雅野の乳房が揺れてモスグリーンの布に押しつけられる。雅野の最奥にある堰(せき)を押し続けながら男の手が雅野の胸へまわされて両方の先端を強くつまむと、雅野は思わず悲鳴のような声をあげて達してしまった。前にも増して固く締めつける雅野の中で動きを速めた男がぐっと腰を押しつけてきて、何度か押しつけてから男の動きが止まり、雅野にも男が放ったのだとわかった。それでもなおも震え続ける内部の感覚に気の遠くなるような満ち足りを味わいながら雅野は下半身を崩れさせていった。





 目覚めると男の胸に抱かれていた。
 交わった余韻の残っている体は気だるくて、頭の中もぼうっとしていたが、目が覚めてまだ抱かれているなんて初めて、と心の中で言って雅野が男の体に遠慮がちに手を触れると男も気がついて目を開いた。
「目が覚めた? まだ夜だけどね」
「夜? あ、そうでした。眠ってしまいました。すみません」
 すっかり暗くはなっていたが、ベッドサイドの灯りがひとつだけつけられていた。
「いいですよ、あなたの寝顔が見られたから。もし差支えなければこのまま泊ってください。明日、送っていきましょう」
「でも、あの」
 雅野ははっきりしてきた頭で思いだしていた。

 男は雅野を慰めたいと言っていた。好きだから慰めたいと。
 雅野にとってはじゅうぶん慰めてもらった。慰めという言葉以上に濃密な交わりだった。今日、初めて体を重ねたということが嘘のように思えるほどだった。彼にお礼を言わなければ。
 だけど、あんなふうに抱き合ったのに、いまだに名前も知らない同士だ……。

「どうしました?」
 男が顔をあげて胸のうえの雅野を見ていた。
「まだあなたの名前を聞いてない」
 雅野がそう言うと男も思い出したようだった。
「そうでした、失礼しました。信大(しんだい)です。北之原信大」
「え!」
 美術館の名前と同じ姓に雅野は思わず起き上がった。
「それは……」
 雅野はなにかすごいことを聞いてしまったような気がして信大を見たが、信大は枕の上の顔だけを雅野に向けていた。
「ここの美術館を持っている北之原家とは親戚なんです。でないと僕みたいな若造に管理を任せるなんてことありませんよ。ときどき北之原家の跡取りと誤解されて女性に突撃されたりしますけれどね」
「そうなんですか……」
 突撃という信大の冗談についていけなくて雅野はぺたんとシーツに座り込んだが、それを見る信大の目が笑っているのに気がついていない。
「そうなんですよ。それよりその姿は目の毒だ」
「えっ、あ!」
 起き上がった信大の手がするりと伸びてきて、なにも着ていない雅野の乳房の下側を撫でた。
「この美しい乳房の持ち主の名前を僕にも教えてもらえませんか」
 遠慮なく裸のままの雅野の体を引き寄せて信大は尋ねた。
「雅野、藤田雅野です」
「雅野さんですね」
 信大は雅野の名を繰り返してから、雅野の体にまわした腕を組み直した。
「名前だけでなくもっと雅野さんを知ってもいいですか」
 それは雅野も同じだったが、相変わらず礼儀正しい口ぶりに雅野はうれしくなってうなずいた。もう信大には自分の愚かだったところも情けなかったところも話して、そのうえで体もすべて晒してしまったというのに、信大はもっと知りたいと言ってくれた。
 それだけで雅野は自分がもう空っぽな人間ではなくなったような気がして、「好きです」と信大の耳へつぶやいた。



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