六月のカエル 4


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 道沿いの一角を曲がるとこの前の事務所の横に出た。普通の住宅ばかりが並んでいる向こう側が美術館と事務所のある敷地だった。美術館は塀に囲まれていて閉館してしまえば立ち入ることはできないが、事務所は塀の外なので大丈夫なのだろう。
 雨が降っていたが、もう六時を過ぎているというのに空にはなんとなく明るさが残っていた。そういえば今日は夏至だったと雅野は思いだした。晴れていればこの時間でももっと明るいに違いない。しのつく雨の中でじっと傘をさしていると水分に閉じ込められるような気分になってきたが、それでも雅野は立ち続けていた。足元が濡れるのを見ながら、さっきまでの自分を思い出してだんだんと気持ちが暗くなってきた。憤る気持ちで来てしまったが、そんな気持ちで男と会って、いったいどうしようとしていたのか。

「お待たせしました」
 穏やかで礼儀正しい声がした。雅野が振り向くと男が美術館の塀の裏口から出てくるところだった。先週のあの日のように施錠して、そして雅野に向き直った。
「時間がかかってしまってすみません。あなたが帰ってしまったらどうしようかと思っていました」
 やっぱりこの人にはやさしく話してほしい。心の中でそう言って雅野は傘の中から男の顔を見た。男も黒い傘の中から雅野を見ていた。

「このまえ、わたしのことを待っていると」
「ええ、言いました」
 黒い傘が動いて男が雅野に近づいてきた。
「男の人からそんなことを言われたのは……初めてです」
 すぐに来いと言われて行ったら何時間も待たされた。雅野がつきあった男はいつもそうだった。
 ひどい男だった。それなのにずるずるとつきあっていた自分もひどかった。
 そう思うと雅野の頬にぽろっと涙が落ちてきた。会社を辞めたときだって泣かなかったのに、どうしていま涙が出てくるのか雅野にはわからなかった。わからないままに涙が落ちていく。

「どうしたんです」
 男は驚いて雅野を見ていた。
「すみません、よく知らない人の前で泣くなんて、わたしってほんとに駄目な人間です」
 手のひらでなんとか涙をぬぐって雅野は答えた。
「そんなことありませんよ」
 穏やかな声が返ってきた。
「あなたみたいな若い女性で古い茶碗をじっくりと何度も見に来てくれる人は滅多にいません。ああいうものを静かにしっかり見るということは、できそうでできないことなのですよ。あなたはそれができるでしょう」
「でもわたし、美術とか茶碗とか、そういうのに興味があって来ていたんじゃありません。行くところがなくて、ここの美術館なら静かで何度行ってもかまわないところだと思ったから来ていただけなんです」
 雅野が正直に言うと男は傘の陰からじっと雅野を見ていた。
「それでも僕にはあなたは好ましく思えましたよ。ひとりでじっと展示を見て、静かに帰っていく。美術館だからそういうものだって思っていますか? でも、本当の意味でそれができない人だって多いのです。暇そうな職員にわざわざ話しかけてくる女性のお客さんもいるんですよ。いや、べつに話しかけてくれてもいいんですけどね。だけどそういう人は大抵はなんのために来ているんだって感じの人ですから」

 意外に饒舌にしゃべる男の話にそんな人もいるんだと雅野は思ったが、会社にいたみょうに男たちに声をかけまくる女性社員を見ていれば思い当たる。
「じゃあ、あなたはただヤルだけが目的でわたしに声をかけたんじゃないんですね」
 男が驚いたのがわかったが、雅野はまた傘の中で続けた。
「そういう女なんです、わたしって。会社でつきあっていた人がいて、いえ、自分ではつきあっていると思っていただけなんです。だんだんむこうから連絡が来なくなって、そしたらその人が結婚するって聞いて……。一年も付き合っていたのにその人にとってはただ会ってヤルだけの女だったんです、わたしって」
 傘の中へ声をこもらせながら雅野は続けた。
「もともと出張の多い人だったからむこうの時間がとれたときに会うだけだったけれど、いつもむこうから呼び出されてわたしの都合では会ってくれなかった。わたしがなにか言うと不機嫌になるのが嫌で、そのうちに言われたとおりにしているほうが楽に感じてしまっていたんです。そうしたら不平も不満も言わず、呼び出せばすぐに来て、いつでもヤラせるいい女だって、その人、ほかの人たちに言ってました。男性の社員たちだけでなく女性社員の人にも」

 男性社員だけでなく、女性社員にまで。
 女性社員たちまでもがずっとそういう目で雅野を見ていた。本当を言えばそのことのほうが雅野にはショックだったのだが、それも男になにも言わないことのほうを選んでしまった自分のせいだ。

「だから会社を辞めたんです。そうなってもしかたのない女だったんです。あなたが思うような人間じゃない。わたしは」
 そう言うと雅野は黙りこんでしまった。急にしんと静まったまわりからはやはり静かに降る雨の音しかしない。

「……ひどいな。つらい思いをしたんですね」
 男の声がひどくやさしく聞こえた。
「それであなたは五月に来たときはちょっと顔色が悪かったのですね。ふらふら歩いているような感じだった。僕もそれが気になっていたのですが、来るたびに良くなっていたからそのまま見ていましたけど、もっと早く声をかければよかった」
 そんなことまで見られていたのか、と雅野は消えてしまいたい思いにかられて頬が熱くなった。こんなやさしい言葉をかけてもらったのも雅野は初めてだった。

「なにを言っているんだ、この女はって思わないんですか」
「思わないですよ。あなたがそんなふうに言うのも理由があったからでしょう。でもあなたがそんなふうに言うのを聞くと悲しくなる」
 男は雅野のすぐ前に立っていて、自分の傘を雅野の傘よりも上にあげてさしているので雅野の傘から落ちるしずくが男の服へかかっていた。またにじんでくる涙でぼやけながら雅野は濡れていく男の服を見ていた。
 今日もまた、わたしはこの人を雨に濡らしてしまっている……。

 不意に男が動いて雅野の傘が押しのけられた。男の胸に抱き寄せられて、男のシャツが雅野の頬に触れた。
「あなたに必要なのはきっと慰めですね」
 顔をあげて男を見た雅野の頬に男の傘からぽたりと雨が落ちてきた。
「……慰め?」
 思ってもみなかった言葉だった。
「僕では役にたてませんか。あなたのことが好きなので」
 さらりと言われたが、好きという言葉が雅野の頭の中で何度も響く。
「いや、さっきはヤルのが目的じゃないのかと言われてどきっとしましたけどね。僕だって男ですから。でも」
 男はごく自然に雅野の頬へキスしてきた。親愛のキスだとでも言いたげに軽く触れたキスだった。雨の中とはいえまわりは住宅があり人も通るかもしれないのにごく自然にそれができる男に雅野は内心で目を見張った。
「あなたが帰りたいのなら駅まで送ります。送りましょうか」
 ささやかれて雅野は首を振った。

 もうひとりになりたくない。
 ひと晩だけでもこの人と一緒にいたい。この人に慰めてもらいたい……。


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