六月のカエル 3


 目次



 また雨だ。
 降り続く雨に雅野は窓のそばに置いたベッドの上でため息をついた。積極的に出かけたいとは思わないが、雨が降ればやはり閉じ込められているようで憂鬱になる。朝から晩まで、ひとりで部屋でじっとしていると考えることはひとつで、しかも堂々巡りのように何度も何度も同じことを思い出して考えてしまう。会社を辞めてもう二か月以上経っているのに思いだすことはいつも同じだ。



『ヤルだけの女だよ、雅野は』
 喫煙室から聞こえてきたのはつきあっていた男の声だった。

『呼び出せばすぐに来て、不平不満も言わず、いつでもヤラせるいい女だよ。いまだって連絡しなくてもなにも言ってこないし』
 殴られたようなショックだった。

『なんだったら先輩に譲りましょうか。先輩、乳の大きい女が好みでしょ。俺が言えば大丈夫ですから』
 喫煙室の中からはどっと笑う何人かの男と女の笑い声が聞こえた。
『やだあ、菅野君たらそんなこと言って。いままでずっと雅野さんとヤッてきたくせにぃ』
 おもしろがっているような甲高いその声は雅野が喫煙室に呼びに来た、同じ部署の女性社員だった――。



 雅野は、首を振って別のことを考えようとしたが、頭の中にこびりついたように離れない。

 つきあっていると思っていたのに。
 連絡が全然こなくなって変だと思っていた。でも、もともと出張の多い人だからそのまま待っていた。
 そしたらあの人が別の女の人と結婚するって聞いて。あの人からはなにも言ってこないままでそれっきりだった。

 どうしてなにも言えなかったのだろう。
 あの人とはつきあおうと言われて会った一度目から、子どもじゃないんだから大人のつきあいをしようよと言われて抱かれてしまった。
 出張の多い人だったけれど、いつもでも急に呼び出されて、それなのに何時間も待たされたこともあった。そして会えば抱かれるだけ。
 いつも胸をしつこくいじられて嫌だったけれど、ときどきは気持ち良くされて、いいだろうって自慢げに言われた。
 だけどわたしがなにか言ってもろくに聞いてなくて、もっと言おうとするときまって不機嫌になった。不機嫌のまま、また手荒く抱かれて……。

 どうして嫌だって言えなかったんだろう。
 もう好きでもなんでもなかったのに……。



 雅野はベッドの中でため息をついて何度も寝返りして気持ちを逸らそうとしたが無駄だった。
 雅野が胸の中で言い募ることはいつも同じだった。
 自分のしたこと、しなかったことで悪いことばかり連鎖のように考えてしまう。ああすればよかったのにという後悔ばかり。そうしなかった自分にますます落ち込んで息苦しくなってしまう。
 美術館に行くようになってここしばらくは思いだすことも少なくなっていたのに、また抜け出せなくなっていた。もう美術館に行けないかもしれないと思うと余計に後悔する。

 先週、北之原美術館で雨に降られ、美術館で働いている男に事務所のほうで雨宿りをさせてもらって、そして告白めいたことを聞かされた。いや、告白だったのかもしれないが、あんなふうに言われてしまったらもう行けない。

 あの人、やさしそうな人だったのに。

 あの男は雅野が美術館に行ってもいつでも変わらない態度だった。男は美術館の職員で雅野は客だから当然といえば当然なのだが、今思えばいつも真面目な態度ではあったが、物腰は柔らかかった。

 だけど、待っていたと言われた。これからも、いつでも待っていると……。

 そこまで考えて雅野はまた首を振った。

 あの人だって下心があってわたしのことを見ていたのかもしれない。
 わたしはたったひとつの行き場所を失ってしまったのに。

 それが雅野にはとてつもなく理不尽に感じられた。
 明け方まで眠れないまま雅野は明るくなってきてようやく眠ることができたが、昼過ぎに目が覚めても理不尽だと思った憤りだけは胸に残っていた。
 やり場のない憤りにだんだんと体が目覚めてくる。思いついたようにベッドから起き上がると手荒く顔を洗って着替え始めた。今日は先週美術館へ行った日と同じ曜日、火曜日だった。



 駅から傘をさして美術館へ行く道は降り続く雨でどこまでも濡れていた。しとしとと降り続いていて、なにもかもが湿っているような気がした。まだ梅雨は明けない。
 見慣れた美術館に着くともう夕方だった。閉館時間まで一時間だが、ドアを開けると空調の効いた内部は別世界のように雅野には感じられた。が、やはり男はいた。
 雅野に気がつくと男はカウンターの向こうで立ち上がったが、雅野の顔を見て少し驚いたような顔をした。それはこの前美術館の脇を見ていた雅野に気がついたときの驚いた顔とは別の驚きのようだった。
「おとなを一枚」
 そう言って入場料を支払おうとした雅野に男は
「来てくれたんですね」
 と言って以前のようにほほ笑んだが、雅野はなにも答えなかった。雅野が入場券を受け取って展示室のほうへ向かうと男は雅野を見送るようにカウンターから見ていたが、もうその顔は笑ってはいなかった。
「なによ。なんなの」
 男には聞こえないようにだったが、雅野にしては珍しく乱暴に吐き捨てた。

 けれども言ってから後悔した。
 くすぶる腹立ちに任せて来てしまったが、こんな気持ちのまま見ても黒い茶碗はいつもと同じだった。ガラスの向こうにある黒い茶碗を眺めるうちに少し雅野の気持ちが落ち着いてきた。涼しく静謐な展示室の空気を吸うと否応なく気持ちが鎮められるような気がする。
 息をゆっくりと吸い込むと展示のガラスに顔を近づけてまた茶碗を見た。息がガラスにかかりそうなほど近づいているのに黒い茶碗は変わらなかった。永久に変わらない茶碗との距離だった。
 しばらくして顔を離すと展示室の出入り口から男が雅野のほうを見ているのに気がついてびくっとしてしまった。べつに怯えたわけじゃない、そう思いながら雅野が出入口まで歩いていくと男はやはり静かな職員としての顔で雅野を見ていた。さっきまで腹がたっていたのに、やはり男の顔が
ほほ笑んでないことが嫌だと思った。
「ここが終わるまで外で待っていてもいいですか」
 雅野のほうからそう告げると男の目の表情が少しだけ変わったように見えた。
「事務所か、それともどこか近くの店で待っていてもらえますか」
 それはあのカフェのことかなと雅野は思ったが、いいえ、事務所の前で待っています、と答えた。
「それならこの道をぐるっと回れば事務所の前に行けますよ。僕は美術館を閉めてから行きますので」
 男の声もさっきよりずっと穏やかなものに変わっていた。


   目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2016 Minari Shizuhara all rights reserved.