六月のカエル 2


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 裏門を出たすぐのところにある建物のエントランスの庇(ひさし)の下へ飛び込んだときにはふたりともかなり濡れてしまっていた。雅野が雨のしずくを拭こうとバッグから小さなハンカチを取り出して差し出したが、男は「ちょっと待っていてください」と言って、いま出てきたばかりの裏門のほうへ戻っていってしまった。雅野が雨を避けるように見ていると門に鍵をかけているようだった。そうしているあいだにも雨は音をたててコンクリートの地面にたたきつけるように降っていた。男の白いワイシャツの背中が見る間にびっしょりと濡れていく。すぐに男は雅野が立っているエントランスまでほんの数メートルを走って戻ってきたが、上半身も黒い髪もすっかり濡れてしまっていた。

「すみません、わたしのせいで」
 手にしていたハンカチをまた差し出したが、男はしずくをたらしながら片手をあげた。
「いいですよ、それよりあなたも濡れてしまいましたね。ここは事務所なのでよかったら中へ入りませんか。中にタオルがありますから」

「どうぞ」
 男がドアを開けながら雅野を振り返った。
「とにかく服を拭かないと。あなたも、僕も」
 雅野よりも男のほうがひどく濡れてしまっていた。申し訳ない気持ちでためらいつつも雅野は開けてくれたドアから中へ入った。



 入口のすぐ脇にある事務所の中はからりと乾いていて蒸し暑くなかった。灯りをつけた男が髪からしずくをたらしながらタオルを持ってきて一枚を雅野に渡してくれたが、男の白いワイシャツの肩や背中が濡れていてアンダーウェアの下にある肌の色までが透けて見えていた。礼を言って男のほうをあまり見ないようにして雅野はそっとブラウスの上から胸元や肩をタオルで押さえた。雅野は細い体のわりに胸が大きくてそれを密かに気にしているのだが、今日は薄手の綿のチュニックブラウスを着ていたので濡れて透けて見えてしまうのが心配だった。
 この部屋は入り口玄関脇の部屋を事務室にしたという感じで、事務机と応接用のテーブルと椅子以外は古い家の洋室のような様子だった。どことなくクラシカルで古風な感じのする部屋は雅野には美術館と同じ空気が感じられた。たぶんここも空調が効いているのだろう。

「寒いですか」
 眼鏡をはずして髪や顔を拭いていた男が応接テーブルの向こう側から聞いてきた。
 雅野がタオルを持った両手を胸の前に当てていたので寒そうに見えたらしかったが、胸元が透けて見えないようにしていただけだ。
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
 礼を言って男を見ると眼鏡をはずした顔は色白で整っていて、どことなく人懐こさを感じさせる顔だった。いままで何度も美術館に来て、いつもこの男が受付にいたのに意識して顔を見たことはなかった。こうして目を合わせて話をするのも初めてだった。
 けれども知らない男とふたりだけというのは親切にされているとはいえ落ちつかない。雅野はもう一度礼を言って立ち上がった。
「すみません、お世話になりました。ありがとうございました」
 軽く頭を下げて顔をあげると男とまた目があった。
「まだ降っていますよ」
「いえ、大丈夫です」
「全然大丈夫そうじゃないけどなあ。じゃあ、来週も来てくれますか」
 雅野が毎週ここへ来ていることに男はやはり気がついていた。
 だけど大丈夫そうじゃないって、それはお天気のこと? それとも……と思いながら雅野がいぶかしげに男を見ると男はにこりとほほ笑んだ。
「三年前にもいらしたこと、ありましたよね」

「三年前のちょうど今頃だった」
「よく憶えていますね」
 そんな前のことを憶えているのか、いくら来館者の少ない美術館でも雅野には信じられなかった。
「先月、あなたが来てから思い出しました。あの立ち姿がきれいな人は三年前にも来た人だと。それ以来、あなたが来るのを楽しみにしていたんです。いつのまにか待っていた。正直言って来館者のお客さんにこんな気持ちになったのは初めてです」
「嘘でしょう。待っていたなんて」
 まるで信じていない口ぶりで雅野は返した。
 立ち姿がきれいだなんて、これは新手のナンパなのだろうか、それともそれを本気にするような女に見えるのだろうか、わたしは。けれどもすぐに雅野はそれを打ち消した。そんな初心(うぶ)な女じゃない、わたしは。

「嘘じゃないですよ。もし話す機会があればいいなと思っていたんです。でも、そうですね、いきなりこんなこと言ったら迷惑ですね。すみません。どうか気にしないで来週も来てください」
 そして、駅まで送りましょう、と言うと男はとなりの部屋へと入っていった。その後ろ姿をなかばあきれたような気持ちで雅野は見ていた。

 来週も来てなんて無理。あんなこと言われてまた来るなんて無理だ。
 もうここへ来られなくなったことは残念だけど、もう帰ろう。

 黙って雅野は立ち上がり出口のドアへ向かったが、事務所のドアに手をかけたところで後ろから声がした。
「来週でなくてもいいんです。あなたが来たくなったらまた来てください。僕はいつもここにいて待っていることしかできないですから。いつでも待っています」
 車のキーを持って出てきた男の顔はなぜか平静だった。また眼鏡をかけていたが、あの眼鏡の下が人懐こい目をしているとはさっきまで知らなかった。
 なにも答えずに雅野はドアから出た。なんと答えていいのか、わからなかった。


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