六月のカエル 1


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 週に一度はここに来ているな、となかば自嘲ぎみに雅野(まさの)は口の中でつぶやいた。
 五月に二度来て、そして六月には毎週だ。
 北之原(きたのはら)という個人の姓をつけた小さな美術館は平日の来館者は少なく、入口を入ったところにある受け付けカウンターにいる男性職員のほかはたいてい雅野ひとりだった。

 いらっしゃいませ。ひとり、お願いします。
 受付で男性職員と雅野とで交わされる会話もそれだけ。黒縁の眼鏡をかけた男性職員は三十代半ばくらいの男だったが、何度も来ている雅野に常に変わらず入場料を受け取るだけだった。
 そして美術館特有の照明の明るさが抑えられ温度湿度が一定に保たれた空間を雅野は音もなく歩き、ある茶碗の前に行く。
 この美術館はこの茶碗のためにあるといってもよく、仏画や墨跡などの東洋古美術も展示されていたが、メインは常にこの茶碗であった。

 この茶碗を初めて見たのは大学生のときで、日本文学を専攻していた雅野は明治期のある作家の小説を卒論のテーマにしていた。明治期の小説や作家など流行りのテーマでもなく、まったくもって地味な卒論だったが、その小説にこの茶碗が出てくる。都内の個人がやっている美術館にあるから見ておくようにと教授に言われて見に来たが、茶道の心得があるわけではなく、焼き物に詳しいわけでもない雅野には黒っぽい茶碗としか思えなかった。中国の宋の時代の茶碗といっても、大学生の雅野にはまったくの見たとおりの黒い茶碗でしかなかった。まあ、一度見たからいいだろうくらいの気持ちでそれから以後はここを訪れることはなかった。

 ――変わってない。
 今日もガラスの向こうに置かれた茶碗は黒い釉薬のところどころに青黒い模様を鈍く光らせて、雅野が先週見たときとまったく変わっていなかった。

 どうしてまたこの茶碗を見に来ようと思ったのか、雅野にもよくわからない。
 大学を卒業してからずっと勤めていた会社を辞めて二か月、ひとり暮らしのワンルームからほとんど出かけることがなかった雅野だったが、携帯電話の梅雨入りのニュースをぼんやり眺めていてふと思い出した。そういえば学生だったときに梅雨入りして雨の降る日に美術館へ行ったことがあったと。卒論のために茶碗を見に行っただけだったが、あの美術館は空いていた。誰かと話したりしなければならい場所には行きたくなかったので、ふらっと行くだけだと思いながら来た美術館はやはり予想通り空いていて、客は雅野ひとりだけだった。受け付けカウンターだけで今流行りのミュージアムグッズ売り場もなにもない入口ホールに立っただけで展示室も空いていることがわかって雅野はなんとなく安心した。

 それ以来雅野は平日を選んで週に一度のペースでここへ来ていた。六月になってから今日が三度目だ。
 黒い茶碗は何度見ても同じ空間に同じ向きで置かれていて、なんの変化もなく鎮座している。
 今日も雅野がひとりだけで見終わると美術館のまわりを少し歩いてみた。夕方から雨の予報だったが、バッグに折りたたみ傘を入れてきている。
 美術館のまわりには閑静な住宅が並んでいたが、数十メートルほど歩いた先に小さなカフェを見つけた。店の横に庭のあるカフェは静かそうだったので入ってみるとほかの客はひとりだけで、庭の見えるテーブルの席には誰も座っていなかった。ここも美術館と同じくらい静かで、雅野はひとりでゆっくりとコーヒーを飲んだ。コーヒーを飲みながら窓から見える庭木やどんよりと曇った空を眺めているとバッグに入れた携帯電話からかすかに振動が伝わってきたが雅野は無視した。こんな時間に電話をかけてくるのは母親くらいしかいない。

 会社を辞めたと両親に伝えたのは六月になってからのことだ。
 以来、何度か母親は電話をかけてきている。会社を辞めてどうするのかと言われて、バイトでもすると曖昧に答える雅野に母親の声がだんだんと尖ってくる。
『雅野、聞いてるの。どうしてあんないい会社辞めてしまったの。せっかく入った会社なのに。言いたくないならいいけど、バイトなんて言ってないで仕事探しなさいよ。こっちに戻って来るんだったらそれでもいいけど、そのこと、お父さんにちゃんと言いなさいよ。お父さんだって心配しているんだから』
 母親の言っている内容よりも母の声そのものが聞きたくなくなって、最後は携帯電話を耳から離してしまう。
 聞きたくはないのだ、いまは母の声を。





 会社を辞めて、その後の当てがあったわけではない。
 なにかやりたいこととか。新しい仕事とか。結婚とか。
 それがないからこうして平日にぼうっとコーヒーを飲んでいたりする。あきらめにも似た気持ちで小さく息を吐いて雅野は立ちあがった。また美術館に戻るわけではないが、カフェを出て駅に戻る道沿いに美術館もある。
 駅へ向かって歩き出すと曇っていた空がさらに暗くなり、ぽつっと雨が顔に当たった。ケロケロケロ……と、こんな住宅街には珍しくカエルの鳴き声が聞こえた。
「もう降っているんだけどな」
 カエルって雨が降る前に鳴くんじゃなかったっけ、と口の中で続けながら鳴き声の聞こえたほうを見ると美術館の建物の後ろ側に緑の木々が見えた。

 ――庭?

 雅野が背伸びをしてそちらを窺っても木々の梢の先しか見ることができなかったが、美術館の建物の後ろ側には木々の植えられている空間があり、その向こうには美術館の壁に良く似た白っぽい建物が見えた。
 美術館の中は空調が調整された空間で窓もなく、雅野は何度も来ていたのに裏側に庭があることに気がつかなかった。美術館の前まで来るとまた裏のほうからケロケロケロと鳴き声が聞こえてきた。

 ――あの庭にいるのかな。

 子どものときに見たことのあるアマガエルは小さくて黄緑色で、ぺたっとした体に黒い目で意外とかわいかったと思い、まだ美術館の塀の門扉は開いていたので雅野が入ってみると建物の脇に石敷きの通路が奥のほうへ伸びているのが見てとれた。通路の途中には外国の公園にあるような渋い色のアイアンのベンチが置いてあり、雨でも色濃い芝生が垣間見えていたが、もう閉館時間になっていたのでさすがにそれ以上入っていくことはできなかった。雨も降ってきているし、と思い直してバッグに入れてあった折りたたみ傘を取り出そうとしていたときだった。不意に建物の横から人が出てきた。通用口らしいドアを開けて出てきた男は黒い縁の眼鏡をかけていて、雅野にはその眼鏡に見覚えがあった。美術館の受け付けにいつもいる男性のものだったが、男はちょっと離れたところにいる雅野に気がついて急に驚いたような顔をした。男の顔がとても驚いたように見えたので雅野も思わず男の顔を見てしまった。

「なにかご用でしょうか」
 男はすぐに普通の表情になって聞いてきたが、雅野は怪しく思われたのかもしれないと思うと急に恥ずかしくなった。
「あの、雨宿りをさせてもらおうと」
 言い訳めいていたが、まだ折りたたみ傘をバッグから出してなかったので雅野はそう答えた。
「今日も来館してくださったかたですね」
 今日も、という男の言葉に雅野はどきりとした。
 ほかに職員がいるのかどうかわからなかったが、いつも受付にいるのはこの男だった。だから毎週のように来ている雅野の顔を憶えていても不思議ではないのだが。
「美術館は開館時間を過ぎましたので入ってもらうことはできないのです。すみませんが」
「あ、いいえ、いいんです」
 男がすまなそうに言ったので、かえって首をすくめたくなるような思いで慌てて言ったが、雅野が引き返そうとしたそのときに急に雨が強く降ってきた。大粒の雨が音をたてて降り始めて、もはや
カエルの鳴き声など聞こえない。

「こっちへ」
 あまりに急な降りかたに足が止まってしまった雅野に男がまた声をかけてきた。
「向こうに事務所がありますから、そちらならどうぞ」
 男の手が通路の奥を指していた。一瞬躊躇した雅野に雷の音が追い打ちをかけるように鳴りだした。雅野のほうを見つつ先導するかのように男が先に立って歩きだすと雅野もそれに引かれるように走りだした。建物の後ろにある庭の脇を通り、裏門らしき塀の扉へ向かって。


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