夜の雨 30


30

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 なにも言えず秋孝さんの顔を見ることしかできなかった。玄関の灯りに照らされてはいても秋孝さんは背後の夜の暗さの中に立っているようだった。
「あんはんが希和さんの旦那はんどすか」
 玄関の外に立つ秋孝さんに怜秀先生が静かに言われると彼の視線が動いて怜秀先生を見た。
「永瀬です。夜分に申し訳ありません」
「連絡させたのが夕方やったのに、ずいぶん早う着きましたな」
 連絡という言葉に思わず先生のほうを振り返ってしまった。
「希和さん」
「は、はい」
「そこは寒いさかい部屋へお入りやす。永瀬さんもどうぞ」
「ありがとうございます」
 先生の言葉に背の高い秋孝さんはちょっと身をかがめるようにして玄関の中へ入ってきた。
「希和さん、あとの戸締りはお願いします」
 秋孝さんが中へ入ると怜秀先生はそう言って奥へ入ってしまわれた。

 玄関の中で向かい合うように秋孝さんとふたりになっても彼の顔が見られなかった。秋孝さんと目が合わせられず、うつむいて秋孝さんの黒いコートの裾を見ていた。
「希和」
 名前を呼ばれても顔をあげられなかった。
「もっと早く来るつもりだったが峰田先生に待てと言われた。先生は俺を希和と会わせていいものかどうか思いはかっていたんだろう」
 先生が……。
 知らなかった。先生はそんなこと、なにもおっしゃらなかった。
 でも先生は気がついていたに違いない。わたしが研修の仕事をしているときは頭の隅に追いやっていても秋孝さんのことは毎晩考えられずにはいられなかったことを。先生はなにも言わなかっただけで気がついていたんだ……。

「希和」
 もう一度名前を呼ばれても顔をあげられなかった。
 もう秋孝さんは日本へは帰って来ないかもしれないと思っていた。でも、ニューヨークにいると思っていた彼がここまで来たとすれば離婚の話をするためで、ほかにはないだろう。
 聞かなければ、たとえ彼が離婚のことを持ちだしても顔をあげて聞かなければと思うのに顔があげられない。自分でも情けないほどに動けなかった。

「……すまなかった」
 不意に頭上から秋孝さんの声が響いた。
「いまさら謝っても遅いかもしれないが、希和を苦しめてしまった。すまなかった」

 どうして。
 そう言いたいのに声が出ない。

 どうして、どうして謝るの。
 愛してもいないわたしに。

 ここへ来てからもずっと今まで心の中で問うていた。いくら問うても秋孝さんにしか答えられない問いだった。秋孝さんに聞かなければ、答えを聞かなければもうどうにもならないとわかっているのに、それなのに言えない。秋孝さんの答えを聞くのがなによりも怖い。
 だってわたしは……。


 秋孝さんは身じろぎもせず立っていた。待っているのだと、わたしがなにか言うのを待っているのだとわかるのに、なにもできない。
「希和」
 寒い玄関の中で秋孝さんの声が響く。大きな声で話してはいないのに彼の声は痛いように届く。
「帰ってきてくれないか」

 ……帰って?
 思ってもみない言葉だった。帰るって、と心の中で繰り返しても信じられない言葉だった。秋孝さんは離婚のことを言いに来たんじゃなくて、帰ってきて欲しいって……。それは秋孝さんの真意なの?
 
 驚いて思わず顔を上げてしまい、秋孝さんと目が合ったそのときだった。
「希和さんが戻るわけないでしょう。さっさと帰りなさい」
 鋭い声でそう言われて驚いて振り返ると階段の下のところに八重子先生が立っていた。
「希和さんがなにか言いたくても言えないようにしていたのはあなたでしょう。それを今さらのこのこやってきてなにを話せというんですか。あなたのような人には希和さんの悲しい心の内なんて、これっぽっちもわかってへんのや」
 八重子先生は怒鳴りこそしなかったが表情は怒っていた。
「あなたが野田先生の展覧会のオープニングでしたことは日本にも伝わっていました。それでも希和さんは野田先生のお葬式に行かれたんですよ。それなのにあなたは自分だけ雲隠れですか。あきれるゆうのはこのことや」
「……八重子先生!」
 思わず八重子先生を止めようとしたが、八重子先生の強い口調は止まらなかった。
「希和さんはやさしすぎます。こんな人にははっきり言うてやらんとわからへんのや」
 わたしにとっては母親くらいの年齢の八重子先生だったが、秋孝さんの顔をにらみつけたままで八重子先生は続けた。
「野田先生のことだけやありません。希和さんは多くは言おうとしないけど、あなたのお母さんのことだって希和さんはお母さんが亡くなるその日まで面倒見ていたんですよ。それをあなたは帰国もせず、希和さんをいたわることもしないなんて自分勝手にも程があります。それで希和さんに帰って来てほしいなんて、よくまあそんなことが言えますな。もうさっさとお引き取りください。希和さんは帰させません。希和さんは母が最後に教えようと思った大切な人です。希和さんはずっとここにいたらええ。私の研究所だってあります。こんな男のところに戻ることなんてあらしません」
 ひときわ鋭く言い放たれた先生の言葉が突き刺さるように聞こえたが、秋孝さんはまったく表情を変えず、八重子先生へ向き直った。
「俺のことはおっしゃるとおりです。あなたが希和を心配してくださっているのはわかります」
「そんなもっともなこと言って」
 八重子先生がなおもたたみかけたが秋孝さんは引かなかった。
「失礼だが、俺は希和と話しています。希和と話をさせてもらえませんか」
「今さらいったいなにを話すいいますの」
 八重子先生の声が大きくなった。秋孝さんの目元がぐっと険しくなったのを見て思わず八重子先生の前に出た。
「やめて、やめてください」
 わたしのことで先生と秋孝さんが言い争うなんて。そんなことをさせてしまうなんて許されない。
「わたしがちゃんと話せなかったせいで……先生、すみません」
「希和さん」
 八重子先生が半ばあきれたように言いかけた。
「すみません、先生。わたしは……」
 このままじゃわたしは前にも後にも行くことができないと、わかっているのにぐずぐずしている。もう目の逸らしようがないのに。
 秋孝さんに向き直りなんとか顔を上げた。
「わたしは……今のままでは帰れません。帰って、何事もなかったように夫婦を続けることは……できません」

 お母さんのことも、野田先生の展覧会のオープニングで秋孝さんがしたことも、なにも聞かず、なにも知らなかったことにすることはできない。
 秋孝さんはわたしがなにも言わずに待っていることを望んでいたのかもしれないけれど、だから無口なわたしを選んだのかもしれないけれど、黙って帰ってくる秋孝さんを待ち、帰ってきたら抱かれるだけの、そんな妻にはなれない。

「わたし……ずっと秋孝さんに話したいことがあったのに話せないでいました。聞いて……欲しかったんです」
 秋孝さんが聞きたくないと言ったら……あきらめるしかない。

 息を吸ってそして思い切って言った。
「亡くなった……お母さんのことです」
 ほんの少しだが彼の目の表情が変わった。拒否されるかもしれない不安が一瞬よぎったが、秋孝さんは静かな声で言った。

「聞かせてくれ」


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