夜の雨 31


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 初めて会ったその人は六十五歳と聞いていた年齢よりもはるかに高齢に見えた。髪はほとんど白く、やせた体をベッドに横たえていた。
「雅子さん、雅子さん、お見舞いのかたが来てくれたよ」
 お母さんの同僚だという小山さんという人が声をかけるとその人の目がうっすらと開いた。なにかを探しているように目を動かしたが、わたしのことが見えているかどうかわからない。
「お母さん」
 なんと呼べばいいのか迷ったが、でもこう呼ぶしかない。
「希和です。秋孝さんの……家内です」
 ゆっくり話しかけるとおかあさんの視線がわたしを捉えた。
「秋孝の……」
 小さな声で聞きとりにくかったが、こちらの言うことが聞こえているのだということに少し安心した。が、同時に話すのもつらそうなお母さんの様子に病気が重いのだとわかった。
「トキさん、嫌だって言ったのに……」
 トキさんというのは小山さんのことで、お母さんはわたしに連絡してほしくなかったと言っているようだった。トキさんは困ったような顔をしてわたしを見たが、わたしはお母さんのほうへ顔を近づけて少し声を大きくした。
「小山さんからお話、聞きました。大丈夫、安心してくださいね」
 元気になってくださいとは言えなかった。もう手遅れなのだと聞くまでもなくお母さんの病状はとても悪く見えた。
 わたしの言ったことが聞こえたのかお母さんは目を閉じてしまったので小山さんに促されていったん病室を出た。

「わたしたちね、高齢者の介護施設で働いているんですよ」
 病院の廊下で小山さんはぽつぽつと話しだした。
「小規模なグループホームでわたしたちもお年寄りといっしょに生活しながら支援やお世話をしていて……あ、グループホームってわかります?」
 小山さんの言葉にうなずいた。高齢者が何人かで共同で生活しながら介護を受けるというもので、わたしの祖父や祖母は介護施設のお世話にはならなかったが、そういう施設があるということは知っていた。
「介護士さんなんですね」
「ええ。もう十年くらいですかね、そこで働くようになって。住み込みでお互い身寄りがないから最後はお互いに世話していこうねって約束していたんですよ。わたしのほうが持病があるし先にいっちゃうかなと思っていたけど、でも雅子さんの具合が悪くなって……」
 そういう小山さんは六十歳くらいだろうか、かなり太っていてちょっと足が悪いようだった。
「雅子さん、病気がわかってから一度手術をしたんですよ。その後仕事にも復帰できたんだけどまた具合が悪くなってしまって、だけど病院へ行かず、ずいぶんつらそうだった。とうとう仕事もできなくなってしまったのに入院は嫌だって頑として受け付けなくて。しばらくはわたしが身の回りの世話をしていたんだけど……、あの、ごめんなさいね」
 小山さんは身を縮めるようにして謝った。
「連絡なんてしちゃって。雅子さん、いろいろと訳ありみたいで身寄りがないって言ってたけど、市の福祉課の人が調べたらお兄さんが東京にいたそうで……でも、あなたは、その、お嫁さんだし」

 そのことは連絡してくれた福祉課の人から聞いていた。小山さんがグループホームに来ているケアマネジャーさんと市の福祉課の人に相談してくれて、お母さんを生活保護にするということでお兄さんに連絡したけれど、秋孝さんのお義父さんは一切関係ない、用があるなら息子のほうに連絡しろと言ったそうだ。
「生活保護を受けるためには3親等以内の親類のかたに扶養照会をさせていただくことになっているのです。通常は書面でお知らせするのですが、お兄さんは息子さんのほうに連絡するようにと言われたので……あの、永瀬雅子さんのことはご存知でしょうか」
 お義父さんから回されたと聞くと知らないとは言えず、はい、と答えると福祉課の人はほっとしたようだった。
「いろいろとご事情はおありでしょうけど、もう永瀬さんはかなり病気が悪くなっているので、早急に一度こちらに出向いていただけないでしょうか」
 福祉課の人にそう言われて、ともかく確認のために福祉課を訪ねたのだった。

「あの、言いにくいんだけど」
 小山さんは困ったように目を伏せた。
「雅子さんが入院するのを嫌がったのは病院の支払いができないからなんだよ。前に手術を受けたときにもかなりお金がかかってね。でも、もうそんなこと言ってられないから入院させたけど、雅子さんのお兄さんって人にも援助を断られてしまったし」
 お義父さんには悪いが、やっぱりそうなんだ……と思ってしまった。
「手術する前だと思ったけど、一度だけ息子さんの家に電話したみたいだよ。そこのところもわかってあげてよ。ほんとはこんなこと言っちゃいけないんだろうけど。ね、頼みます」
 えっ、電話。……お母さんから?
 思い当たることはひとつしかない。結婚してまもなく携帯ではなく家の電話にかかってきたことがあった。わたしは東京のお義母さんからだと思っていたけれど、秋孝さんの家族からの電話はあの一度だけだ。そのことを話した秋孝さんからは話も聞かず拒否されてそれ以上言えなくなってしまったけれど、秋孝さんもお義母さんからだと思っていたはずだ。

 なんてことだろう。改めて聞いてそうだったのかと後悔した。家に電話してきてくれたときに気がついていたら、なんとかしていたら、今のように手遅れにはならなかったかもしれない。そう思うとたまらなかった。だってあの電話があったのはもう一年以上も前のことだ。

「お母さん」
 もう一度ベッドのところに戻るとベッドの脇にある椅子へ座った。そのほうがお母さんからわたしが見えやすそうだったから。
「以前に電話してくださったんですね。すぐに来られなくて、すみませんでした」
 お母さんがかすかに首を振った。
「……電話して、ごめんなさいね……」
 お母さんの点滴をしてないほうの手が謝るように上げられたので、思い切ってその手を取って両手でそっと包みこんだ。

 すぐに秋孝さんに電話しよう。なんとか帰ってきて欲しいと。
 野田先生の展覧会が迫っていて秋孝さんが忙しいこともわかるし、なにより秋孝さんがお母さんのことを良く思ってないことも感じていたけれど、もうお母さんに残された時間は少ない。
 そう思って電話したのに……。






 旧式のストーブの上に乗せられたヤカンからお湯の沸くときのかすかな音が聞こえていた。玄関から上がったところにある応接間にはストーブがつけられていたが、たぶん怜秀先生がつけておいてくださったのだろう。先生のお宅を夜遅く使わせてもらうのは気が引けたが、真冬の夜の玄関は底冷えがして寒かった。応接間に入ったときのあたたかさは玄関の寒さで冷え切っていた体には正直ほっとした。

「そうか」
 わたしが黙りこんでしまうとそれまでじっとストーブの炎を見ていた秋孝さんがぽつりと言った。コートを脱ぐことなく座卓から少し離れて座っている秋孝さんの姿は畳の部屋の中で黒っぽく見えていた。
「それで希和が払ってくれたのか。あの病院の領収書は」
「そう……です」
「俺が帰らないと言ったからか」
 秋孝さんが顔を向けてわたしを見たが、玄関とは違い明るい部屋の中で彼の目にまともに見られると心臓をぎゅっとつかまれるような気がした。
「それは……、わたしがそうしたいと思ってしたことだから、だからいいんです」

 本当にそうしたかった。
 あの時、病院のベッドに横たわるお母さんを見て、このままなにもせずに帰ってしまうことはできなかった。
 お母さんはわたしがお世話しよう。病院代はわたしのお金で払えばいい。秋孝さんが帰って来ても来なくても、わたしがしたくてしたことだと思えばいい。幼い頃に両親を亡くして親代わりだった祖父母を看取ってきたわたしには死期の迫っている人を見捨てるようなことはできない。

「……秋孝さんが帰って来ないこと、お母さんにすぐには言えませんでした。わたしが言いだせないでいたら、お母さんのほうから秋孝とは会わないからと言われました。秋孝に会う資格なんてわたしにはない、わたしは罪を犯したのだからって……」
 ぴくりと秋孝さんの右手が動いたが、すぐにそれを押し隠すようにこぶしが握られた。
「母は」
 そう言った声は恐ろしく静かだったが、彼の表情は険しかった。
「母はなんと言ったんだ。自分の犯した罪をどういうふうに言ったんだ」
「それは……」
 お母さんが話してくれたことをそのまま秋孝さんに言っていいものかどうかわからなかった。一瞬の迷いで言葉が続かなかったわたしに秋孝さんが急に振り向いた。
「妻も子もいる男とのあいだに俺を産んで、その男が認知もしない男だったから一緒に死のうとした。相手も心中するつもりだったのならまだしも、拒まれて殺してしまった。その男を殺してしまったんだ」

「そして俺を道連れに死のうとして……できなかった。それから俺は叔父の養子にされたんだ」
 止める間もなく言いきると、秋孝さんはふいと顔をそらしてしまった。
 自分の口から言いたくはないことだったろうに。それとも他人に言われることはもっと許せなかったのだろうか。
 彼の視線はじっとストーブの炎にそそがれたままで動かなかった。

「秋孝さん」
 彼の心の中の荒立ちがわからないわけじゃない。でも言わなくては。お母さんのために。
「お母さんは秋孝さんに恨まれてもしかたがないと、すべては自分の罪だと言ってました。法律のうえでの罪は償えても秋孝さんへの罪は償えないって……」
 そう言ったときのお母さんの声を忘れられない。
「そう言ったお母さんをどうして見捨てられますか。お母さんはずっと働いて秋孝さんの養育費を送っていたそうです。秋孝さんが成人してもずっと。それしかできることはなかったと言って、ご自分はなにも持たないでずっとひとりで。秋孝さんには一生会わないつもりで」

「養育費……?」
 急に顔を上げて秋孝さんが言った。
「お母さんは……、亡くなる半年前まで送金していたそうです」
「そんなことは聞いていない……」
 絞り出すような秋孝さんの声に体が震えた。やはり彼は知らなかったんだ。
「どこへ……誰宛てに送金していたんだ……」
 わたしを見る秋孝さんの目が苦しい。できれば言いたくないけれど、でも彼も察している。
「東京のお義父さんのところへです……」
 なんとか答えると秋孝さんは握り締めた手を額に当ててしまった。

 静かすぎる部屋の中で時間だけが過ぎていく。
 手を当てたままの彼の顔は見えず、動かない秋孝さんの黒いコートの肩先をじっと見ていることしかできなかった。こんな秋孝さんは今まで見たことがない。
「秋孝さん……」
 涙が落ちそうで、でも必死でこらえて声を出した。
「お母さん、わたしには最後まで秋孝さんに会いたいとは言いませんでした。一度だけ電話をしてしまったことをお母さんはとても悔いていました。あの一度だけだったと。そして秋孝さんとは会わないと言ったその言葉を貫いて……亡くなってしまいました」
 どうかわかってほしい。
「でも、お母さん、会いたかったはずです。ひと目会うこともせずにいたのは秋孝さんのことを思っていたからで……」
 秋孝さんは顔を上げなかった。
「お母さんが亡くなってから……最後までお母さんが持っていた物の中に写真が一枚ありました。小さな男の子の写真で、名前もなにも書いてなかったけれど……秋孝さんでした。お母さん、手離してしまってからもずっと秋孝さんのことを思っていたんです」
 それでも秋孝さんとは会わないと言った言葉をお母さんは最後まで貫いた。同情や憐みを求めない、ある意味なによりも自分に厳しく、そして強い人だったと思う。その強さゆえにお母さんは罪を犯してしまったのかもしれないけれど……。

 悲しい。
 秋孝さんを思っていたのに、その気持ちすら伝えることがなかったお母さんが悲しい。

「わたしは……秋孝さんに帰ってきて欲しかった。お母さんのために、そしてわたしのために帰って来て欲しかった……」
 わたしもずっと秋孝さんに言えなかった。
「わたし、秋孝さんが好きでした。結婚する何年も前から。クラフト市の村上さんを訪ねてきた秋孝さんを初めて見たときからずっと……好きでした。強くて、わたしにはないものを持っている秋孝さんにあこがれていました。でも、わたしは好きだという気持ちを言葉にすることも、態度で表すこともできなかった。突然結婚を申し込まれて結婚してしまったけれど、秋孝さんは少なくともわたしのことを好いてくれたんだと……思えました。離れて暮らしていても少しずつ夫婦になっていけたらいいなって思っていました……」
 ゆっくりと秋孝さんの手が顔から離れていった。
 彼を見ながらぼろぼろと頬から涙が落ちていく。
 
「わたしのために帰ってきて欲しかった……。好きなら、わたしのことが好きなら帰ってきてくれるんじゃないかって……」
 あのときのわたしは世間知らずの子どものようにそう思っていた。
 だけど秋孝さんは帰って来なかった。
「……秋孝さんが野田先生の展覧会で女の人をたたいたって聞いて、その女性となにかあったんじゃないかって……、秋孝さんはその女の人と……って思わずにいられなかった」
 あなたが好きなのに。
「どうしてわたしと結婚したんですか。どうして帰って来てくれなかったんですか。待っていたのに。どうして言ってくれないんですか。あの女性をたたいたわけを。あの女性となにがあったのか。わたし、ずっと聞けなかった……」

 支離滅裂に出てくる本音を止められなかった。いままで考えないようにして必死で心にふたをして出せなかった本音が涙とともにこぼれ落ちていく。みっともない嫉妬もいっしょに。泣き顔を見られたくなくて手で隠しても肩が震えてしまうのが止められない。

「すまなかった……」
 声とともに秋孝さんの手が顔に当てられた。
「俺は希和がなにも言わないほうがいいと思っていた。希和ならなにも言えないだろうと思っていた」
 その言葉にびくりと体が動きそうになったが、秋孝さんの手はわたしを押さえていた。
「俺は……希和には知られたくなかった。母のことも、あの女のことも、希和に知られることを恐れていたんだ。だから希和をなにも言えないようにしていたんだ」

「あの女とは結婚する前に体の関係があったのは事実だ。シャツに口紅をつけたのもあの女だ。あの女は俺からの評価が欲しかっただけで、それがかなわないとわかると母のことを持ちだしたんだ。感情を逆なでされて、俺を嵌めるつもりでそうしているのだとわかっていたのに抑えが効かなくなってしまった」
 秋孝さんはわたしの顔をあげさせないで胸に抱いていた。押しつけられた胸から秋孝さんの声が低く聞こえてくる。
「あの女をたたいてしまったのは自分の弱さを認めたくなかったからだ。そして野田先生の葬儀からも逃げた」
 彼の腕に力が入った。
「それでいて希和にはなにも言って欲しくないと思っていた。親のいない希和なら黙って待っていてくれるんじゃないかと思っていた。いまとなっては都合のいい言い訳だが……」

 ずきりと胸の芯が痛んだ。
 親のいないわたしなら……。

「希和が帰れないと言うのもしかたがない。このままで帰って来られるわけがないな……」

 だんだんと小さくなっていく秋孝さんの声を聞いていた。
 泣いているのはわたしだろうか。それとも。
 ストーブの炎が燃えるかすかな音だけが聞こえる……。







「遅くに来て悪かった。峰田先生にも迷惑をかけてしまった」
 玄関を出る前に秋孝さんが奥に向かって頭を下げたが、それが怜秀先生と八重子先生に向かって頭を下げたのだとわかった。
 玄関の戸を開ける音がいつもより大きく響いて聞こえて、外へ出ると凍る寒さの中で暗い山々の上に星がひとつ光っていた。

「ここでいい。寒いから」
 門のところで秋孝さんが立ち止って振り返った。わずかな光しか届かない中でわたしを見おろす目は黒く翳っていたが、わたしを見ていた。
「お母さんのこと、話してしまって……ごめんなさい」
 自分で話しておきながら、そう言うことしかできなかった。
 理由はどうあれ彼の心の傷に手を突っ込んでしまうようなことをしてしまった。
「いや……、希和はそうやって俺に謝ってくれるのか」
 秋孝さんの声は静かだった。彼はちょっと黙ってから静かに続けた。

「さっき、どうして俺が希和と結婚したのかと言っていたな」
「あ、はい……」
 取り乱して支離滅裂に言ってしまったが、ずっと心にあった疑問だった。
「希和が俺のことを好きだと気がついても違和感を感じなかった」
 不意に言われた秋孝さんの言葉にどきりと心臓が波打ったが、秋孝さんの息は静かに白く吐き出されていく。
「何度目かに顔を合わせたときに希和が俺のことを好きなのだと気がついたが、希和が近くにいても違和感がなかった。俺は人から好意を寄せられることがあっても、それはほとんど何らかの代償を求めてくる好意だった。アーティストたちは俺に絵を見て欲しい、評価して欲しい。仕事の上司にしても常に成果を求められる。俺への好意とはそういうものだった。だが、希和は違った」
 秋孝さんの白い息がいったん途切れた。
「俺を見ても話しかけようともしなかった。村上といっしょにそばにいてもさりげなく離れていく。離れているのに遠くから俺を見ていた。なにか言ってくるかと思ったが、希和はいっこうになにも言ってこなかった。言うつもりがなかったんだろう」
 その通りだった。
 秋孝さんをただ好きでいられたらいいと思っていた。あの頃は告白するなんて思ってもいなかった。
「だが、希和は俺を好きだった。なにも言わず、なんの代償も求めずに」
 そう言った秋孝さんの目は無表情なほど平静で、頷くこともできずに彼を見上げているわたしを見ていた。
「俺は、人には純粋な好意というものがあるということを知らなかったんだ」



 しばらくの間、わたしたちは向きあって立っていた。なにも言わず、言う言葉も見つからずに。やがて寒さにわたしの体が震えた。
「希和」
 凍りそうな夜気の中で秋孝さんの息だけがまた白く落ちていく。
「すぐでなくていい。ここでの研修が終わったら帰って来てくれないか。軽井沢の家で待っている」

 ……え?
「家で……ですか? アメリカには」
「いや、もうアメリカには戻らない」
 えっ、戻らない?
 思わず聞き返してしまったが、秋孝さんの目はわたしを見つめていた。わたしの視線を逃さないかのようにじっと見ながら。
「希和が好きだ」
 秋孝さんの腕が伸びてきて抱きしめられた。あ、と思った次の瞬間にはもう彼の腕は離れていた。
「待っている」
 そう言ってわたしの答えも聞かず秋孝さんが歩いて行く。やがて暗い闇に彼の姿が見えなくなる。見えなくなってやっとそれがわたしの求めていた言葉だと悟った。

 待っている――と。


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