夜の雨 24


24

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 東京へ向かう新幹線の中で座席へ座って窓の外を見てはいたが、目は風景を見てはいなかった。

 会ったこともない、俺を産んだというだけの女のしたことがいつでも俺に不意に投げつけられてくる。まわりの人間たちのひそひそとささやく言葉や俺を見る目つき、そしてよそよそしい態度で俺を取り巻く。あるいはあからさまな言葉を投げつけられる。

 おまえの母親は――。
 そう言う人間に年齢も性別も関係ない。言いかたは違っていても言っていることは同じだ。おまえは犯罪者の息子だ、と。
 血縁であるはずの義父でさえ俺にそう言った。おまえのせいで肩身の狭い思いをしていると。義母が俺を好くわけがない。

 思い出したくもないことを思い出しそうになって目をつぶった。眠られるわけがなかったが車両の中の人々の気配さえもがうるさい。まわりを見なくてもいいように目を閉じていた。

 野田夫人は知っているのだろうか。
 知っているような気がした。希和のことを気遣うような夫人の言葉を希和のことを気に入ったのかと思ったが、たった一度会っただけの希和のことを心配しているかのように言うのは普通じゃない。考えられるとすれば紅(こう)が言ったのだろう。紅しかいない。

 そうやって俺の首を絞めるつもりなのか。
 忌々しい。
 憎しみにかられた女は愚かで醜いものだ。俺の母親と同じだ……。






 家に帰ってきたときは、気分は最悪だった。
 家に着く前に雨に降られてしまったが、濡れたことよりも心の中の腹立たしさのほうが大きかった。希和はなにか感じたようだったが、疲れているふうを装ってその晩はやり過ごした。朝、まだ夜が明けきらないうちに目が覚めてしまったが希和はとなりで寝息をたてていた。夏の早い夜明けでだんだんと部屋の中が薄明るくなっていくなかで希和の寝顔を見ていたが、眠っている希和の顔はなにも感じていないかのように静かで表情がなかった。
 希和はまだ知らない。
 紅はそうしようと思えば希和と接触を持つこともできるだろう。しかし紅はそうはしていなかった。俺だけを追い詰めたいのか。いや、そうじゃないだろう。
 紅はまだ切り札を持っている。それは俺の実の母のことを希和が知らないということだ。いつでも希和に話すことができるということを最後の切り札にしているのだ。

 希和は知らなくていい。
 俺には親はいないも同然だ、希和が関わることはないんだと、今までもはっきりとそう言ってきた。希和が知る必要のないことだと思っていた。
 知らなくていい。知る必要はない。知らないままでいい。
 勝手だとは思っていたが、俺から話すことはできない。希和が実母のことを知ったらどうなるか俺にもわからない。希和なら受け入れてくれると思うほど俺は純粋ではない。

 希和の胸の薄いふくらみの形がパジャマの薄い生地の下から透けていた。小さな頂点がかすかに上下しているのを見ているうちに体の芯が熱くなっていた。
 希和の俺しか知らないなめらかな肌を抱きたかった。その欲望だけで目覚め切っていない希和を強引に抱いてしまい、希和が戸惑っている様子なのも感じていたが、それでも希和の体は一瞬だけ俺に現実を忘れさせてくれた。ほんの短い一瞬だったが。

 その後、希和が京都へ野田の見舞いに行くことも必要ないと言った。希和が気まずさを感じているのは明らかだったが、紅や野田夫人のいるところに希和を行かせたくない。
 翌日東京での打ち合わせでは京都で紅と一緒にいたディレクターの階堂と顔を合わせて話したことはくそ面白くもないことだったが、それは俺の仕事のことで希和には関係ないことだ。希和に仕事のことは関係ないと言ったのだから俺も仕事のことを必要以上に家には持ち込まない。
 俺がそうするように希和にも普段通りにしてもらいたかった。それはその場しのぎでしかないとわかっていたが。
 しかしその後で希和が義父のところへ挨拶には行かないのかと言うのを聞いたときは紅に対するのとは別の憤りで体が冷えた。

 希和はなにも言わず俺の帰りを待っていればいい。
 なにも言うな。なにも知らなくていい。
 静かに俺を待っていて欲しかった……。



 灯りもつけずにいた部屋の中のデスクの上は雑然としていた。片付ける気も起きない。奥の部屋へ行ってベッドへごろりと横になった。
 なにもかもが上手くいかない。そう感じるのは俺が未熟だからか。この程度で音をあげるわけにはいかない。
 考えているうちにうとうとしていたらしい。ズボンのポケットに入れたままにしておいた携帯電話の震えにはっと目が覚めた。

 Kiwa。
 携帯電話の表示に一瞬意味がわからなかった。暗かったせいかもしれない。いや、希和はもう連絡してくることはないかもしれないと思っていたからだ。
「もしもし」
『あの……希和です』
 遠慮がちな希和の声は日本とニューヨークとの距離そのもののようにくぐもって聞こえた。
『すみません、お仕事中ではないですよね』
「ああ、家にいる」
『そうですか。あの、秋孝さん』
 言いかけたものの希和はためらっていた。それがわかっていたが、黙って希和が話しだすのを待った。
『七月に……秋孝さんが帰られた後で福祉事務所のかたから電話があったんです。あの、秋孝さんのお母さんのことで』

 母。
 そのひと言だけで全身が凍りついた。

 こちらの沈黙に希和もなにか感じているのだろう。なにか言いかけて言葉にならなかったが、すぐに意を決したように話しだした。
『そのかたがおっしゃるにはお母さんが病気で入院しているということでした。かなり具合がお悪くて、でもお母さんの身寄りの人に連絡を取ろうにもわからなくて、いろいろ調べてここへ連絡してきたそうです。あの、東京のお義父(とう)さんのところにも連絡したそうですが、面会を断られたそうです』
 自分の女房にもそうするのか、義父は。もっともあの人ならやりかねない。
「それならば希和はなにもしなくていい。義父(ちち)の家のことだ。そう言えばいい」
『あの、違うんです』
 違う? なにが違うんだ。
『お母さんというのは東京のお母さんではなくて、……永瀬雅子さんです』

 永瀬雅子。
 それは俺を産んだ実の母の名だった。




『秋孝さんが忙しいのはわかっているつもりです。お母さんのことも……でも』
 希和の声が空しく響く。
 なにも言わない俺に希和の声はどんどん小さくなっていったが、それでも話すのをやめなかった。
『お母さん、とても具合が悪いそうなんです。もうあとどのくらいもつのか……。秋孝さんに勝手だと思われるかもしれないけど、わたし……お見舞いに行って来たんです。ごめんなさい』

『一日だけでもいいんです。帰って来てください。お忙しいでしょうけど、でも前に野田先生のお見舞いで帰国したときのように帰ってきてもらうわけにはいきませんか』
 希和の言葉に含まれた言外の意味は、あのとき野田の見舞いのために帰れたのだから忙しくても帰ることは不可能ではないはずだと言いたいのだろう。母に会うために帰って来てほしいということだ。
『お願いします。でないとお母さんは、もう……』
「帰れない」
 たとえ希和になんと思われようと帰れない。いや、帰りたくない。母になど会いたくない。妻子ある男とのあいだに俺を産み、認知さえしなかった男と心中を図ったあげく自分だけ生き残っていた女だ。俺がその後にどうなるかなんて考えていなかった女だ。そんな女のためにどうして帰らなければならないんだ。俺が今までどんな思いをして生きてきたのか知らないんだろう。
 感情が爆発しそうになったが相手は希和だ。ぎりぎりのところでなんとか感情を押さえ込んだ。

『あの……』
 おずおずとした希和の声にもすぐには答えられなかった。
『どうしても……?』
「帰れない」
 仕事の忙しさを理由にする気もない。帰らない。

 痛いような沈黙が続いた。
『わかりました……』
 なにがわかったというのか。
 それを希和には聞けなかったが、やがて通話が切れた。

 


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