夜の雨 23


23  秋 孝

 目次



 ――もう希和からの返事はないかもしれない。

 仕事を終えて帰った自分の部屋で明かりもつけずに窓の外を見ていた。ニューヨークの中心からはかなり離れた町では星の見えない夜空の下で街灯や建物の灯りだけが光っている。
 日本から帰って来てからもう二か月が経っていたが、希和からは一度も電話もメールもなかった。俺からもなにも言ってない。今までは俺からなにか連絡すれば希和は必ず返事をくれた。しかし今はもう返事はないかもしれない。あんなふうに希和の心を思いやらなかった後では。

 疲れを感じて目頭を押さえた。野田慎二の展覧会を二か月後に控えて思うように仕事が進まなくなっている。野田慎二が倒れてから今日まで予定は大幅に狂い、何度も変更と調整を繰り返すはめになった。日本にあった野田の作品の到着が遅れたのも痛かった。野田自身が選んだ作品だが、その選考作業をしていたのが二月の狭心症の手術を受けた頃だ。俺には言わなかったが野田の体調は思わしくなかったのだろう。狭心症の手術で予定は遅れたがそれは大きな影響はないはずだった。ところがその後に野田は倒れ、野田夫妻が六月に渡米するはずだったのもむろんできなくなった。もはや展覧会は目前だ。





 夫人だけでもオープニングセレモニーに、というのはスポンサーである日本のテレビ局サイドからの提案だった。長年アメリカにもアトリエを持ち創作活動をしてきた野田にはアメリカに知己が多い。夫人がオープニングセレモニーにいれば取材的にも絵になるのだろう。しかし野田の容体が良くなることは難しく、夫人も渡米はしないと言っていることは聞いていた。もともと七月に帰国するつもりはなかったが、前回の帰国が慌ただしいものだったし、展覧会が終わるまで帰ることはできないので後がきつくなることは覚悟のうえで日本へ帰ることにした。

 関西空港から京都へ向かい野田を見舞ったが、意識のない野田と話ができるわけもなくしばらく病室で見守った後で夫人と話すことしかできなかった。
「では、やはり渡米していただくのは無理ですか」
「ごめんなさいね、永瀬さん」
 ベンチソファーの並べられた見舞客用の談話コーナーで話をした夫人は疲れの色が窺えるものの声はしっかりしていた。
「オープニングセレモニーに出られないのは申し訳なく思いますが、やはり主人のそばから離れることはできません」
 そう言われてしまえばなにも言えない。野田が若い頃から二人三脚のように歩んできた夫人の言葉に黙って頷くしかなかった。
「永瀬さんにはご迷惑ばかりかけてしまって本当に申し訳なく思っています。アメリカへはすぐにお帰りになるの?」
「東京での用を済ませて二、三日したら帰るつもりです。なにかありましたら」
「いえ、そうではないのよ」
 そう言った夫人の顔が心なしか明るくなったように見えた。
「奥様も待っておられると思うわ。お忙しいでしょうけど奥様の元にも帰ってあげて。大人しいけれどしっかりした奥様ね」
 希和を知っているような口ぶりに驚いて夫人を見た。
「知人のところで偶然お会いしたんですよ。奥様は気がつかなかったようでしたけど、わたしのほうからお聞きしたらやっぱりそうで。びっくりしたわ」
「そうですか」
 冷淡に言ったつもりはなかったが、夫人にはそう聞こえたのかもしれない。
「主人も永瀬さんの奥様に会いたいって何度も言っていたんですよ、ほんとうに。一度、奥様に京都に来てもらいたいってお願いするのは……無理でしょうか」
「申し訳ありませんが、それは」
 断ったが、さらに考えるように野田夫人は言った。
「永瀬さんはオープニングセレモニーには奥様はお連れにならないのよね」
「はい。それがなにか」
 希和をセレモニーに同伴するなど、そんなつもりは最初からなかった。野田夫人がなぜそんなことを言いだしたのかもわからなかった。

「ではわたしからの招待ということではだめかしら」
「招待、妻をですか」
「わたしの代わりと言ってはなんだけど、永瀬さんの奥様にセレモニーに出ていただけたらと思ったものだから」
「しかし……」
 なぜ夫人が希和に対してそこまで言うのか理由がわからなかったが、もっともな理由を言って断わるしかない。
「そうおっしゃっていただけるのはありがたいですが、野田先生の展覧会です。しかも先生の病状が良くない今、先生も奥様も出席できないのに私の妻が出るわけにはいきません」
「……そう、永瀬さんがそうお考えなら。でも永瀬さん、永瀬さんが仕事とプライベートを切り離していることはわかっていますが、きっと奥様は寂しい思いをしていると思いますよ。芯の強そうな奥様だけど、きっとね」
「それは」
 言いかけたところで廊下の向こうから谷本紅(こう)がこちらを見ているのに気がついた。オープンスペースの談話コーナーで話すことではなかった。
「ご助言ありがとうございます。しかし妻もアメリカへ行くつもりはないと思います。では私はこれから東京へ向かいますのでこれで失礼します」
 形だけの礼を言って立ち上がった。

 紅の姿は見えなくなっていたが会う気はさらさらなかったのでエレベーターホールへ向かったが、エレベーターホールの手前にある階段への入口を通り過ぎるときにひそひそと人の声がした。見るつもりもなかったが階段の上の踊り場にいる白いブラウスに真っ直ぐな黒髪に気がついた。あれは紅だ。紅が男とさも親密な様子で体を寄せ合って話をしていた。
 こんなところで、と思ったが俺には関係ないことだ。通り過ぎようとしたそのとき、紅の腰を抱くようにしていた男の手が動いて同時に男の顔が見えた。目が合い、あきらかに男が俺に気がついたのに視線を逸らして紅から離れると階段の上へ行き見えなくなった。
「べつにかまわないでしょ」
 男の姿を目で追っているあいだに階段を降りてきて俺のすぐ近くでそう言った紅を眉をひそめて見た。男を見続けていたのは紅といちゃついていたからではない。階段で抱き合おうがなにをしようがそれは俺の知ったことではない。
「階堂(かいどう)だったな」
「そうよ」
 男の名を言うと紅がわざとらしく笑った。野田の日本での展覧会を仕切っているテレビ局の企画担当のディレクターだ。何度も会ったことがあるのに俺に気付いていながら逃げた。
「階堂さんも先生のお見舞いに来ていたのよ」
 紅の紅い唇が聞いてもいないことをしゃべる。じゃあなぜ階堂は逃げた。紅といちゃついていたくらいなんの不都合もないだろうに。
 エレベーターの扉が開き黙って乗ると紅も扉の中へ体を滑り込ませてきた。箱の中にはふたりきりだ。
「妬いてるわけないか」
 くすりと笑いながら紅が言った。
「いいのよ。わたしだってそれくらいわかる。階堂さん、いい人よ。でもさすがに抜け目ないわね。あなたのこと、いろいろ聞かれちゃった」
 狭い空間の中で紅を見た。
「話したわよ、わたしたちのこと全部。それからわたしの知っているあなたのことも全部」

 一階に着いたエレベーターに多くの人が乗ってこなければ紅を引きずり出していただろう。エレベーターから出た俺の前を列をなした大勢の見舞客たちが乗り込んでいくなかで紅は降りようとはしなかった。たちまち一杯になったエレベーターの中で紅は奥の壁際で見舞客たち越しに俺を睨んでいた。

 故意か。
 紅が話したというのは俺と関係があったことだけではない。紅は俺の母親のことを知っている。俺の実の母親が過去に罪を犯したことを話したということか……。


   目次     前頁 / 次頁

Copyright(c) 2014 Minari Shizuhara all rights reserved.