夜の雨 25


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 マンハッタンにある美術館のインフォメーションコーナーにはすでに野田慎二の展覧会のポスターが展示されていた。現代美術をおもにコレクションして展示しているアメリカでも有数の美術館だ。
 館長室の扉を開けると館長のウォーレンが眼鏡越しにちらりと目を上げて無言でデスクの前の椅子を指し示した。
「アキタカ、君も知っていると思うが」
 眼鏡をはずしてウォーレンが向き直った。
「ノダの展示会に作品を出している所有者がいろいろ言ってきている。個人、企業がいくつか。このままだと作品の展示をやめると言っている」
「しかしそれでは契約違反になるはずです」
「彼らにとってはそれでも展示をやめたいのだろう。アキ、ノダが重病だということをなぜもっと早く発表しなかったんだ」
「私が発表しなくとも病気であることは知られていましたよ」
 答えたが、館長の渋い表情は変わらなかった。
「だが君はノダの病気が重いことも回復が望めないことも知っていた」
「ノダが重病だからどうだというのです。彼は死んで作品の価値が下がるような画家ではありませんよ」
「だが、それを決めるのは我々じゃない」
 それは言われなくともわかっている。現代絵画の価値は人気に大きく左右される。高値のつく画家の絵は資産や投機の対象となるのだ。
「つまり作品の持ち主たちはノダが死ぬ前に売り抜けたいということですか」
 金融商品のことを話しているかのような自分にうんざりするが、しかし野田の作品の値段は高い。展覧会への展示を蹴っての賠償や裁判にかかる金額を差し引いても売りたいということだ。しかも悪いことに野田は日本人画家だ。日本人アーティストは死後に値が下がることが多い。
「君がノダの病気のことを発表しなかったことは証券のインサイダー取引のように言われているのだよ。それに日本での展覧会を後援しているテレビ局が計画している野田の個人美術館を建てるという話、君はそれからはずれるそうじゃないか。その情報も悪い材料でしかない」
 その話は七月に日本に行ったときに東京で聞いていた。
 日本国内での展覧会のみならず野田の個人美術館を日本国内に建設する計画を持っていたほどのテレビ会社だったが、野田が重病に陥ったことでやはりテレビ会社が危機感を持ったらしい。美術館の展示の目玉には野田の新作の大作を掲げるつもりだということも聞いていたが、生命が維持されていても野田からはすでに新作の供給は望めない。新しい美術館に俺はアメリカでのキュレーターということで関わるはずだったが、その話は消えることになった。

「君が日本で名前を売るチャンスだったのに」
 ウォーレンはそう言ったが、俺は美術館の話は消えていいと思っていた。俺をドキュメンタリー番組に取り上げたこともあるテレビ局だったが、しかし東京でのテレビ局の重役や関連会社の担当者たちの揃った中のあの微妙な空気はウォーレンにはわからないだろう。表向きは平静を装いながら俺を排斥しようとしているのが見えるようだった。そんな連中の中には階堂もいた。紅といちゃついていたあの階堂だ。
 被害妄想と言いたければ言え。事実を確かめる気にもなれないが、階堂によって俺の母親のことが拡散されているのだろう。こんなふうに自分の過ちでもないことで足元を揺さぶられるといことがどんなに不愉快で腹の立つことか。もとより日本での成功など望んでいない。
「フリーランスのキュレーターは日本ではまだ一般に認識されていないのですよ」
「そうかもしれないが、君がそんなことを言うとはね」
 館長は向かい合って座っている俺をじっと見ていた。
「疲れているんじゃないのかね。顔色が冴えない」
「そんなことはありませんよ」
 館長の心配に乗る気はない。ありきたりな休息を勧められる言葉でもつまりはこの仕事から降りろと言われかねない。
「私は休む必要はありません」
 そう言って椅子から立ち上がると美術館のオフィスを後にした。

 美術館を出るとネクタイを引き抜きポケットへ押し込んで地下鉄の駅へ向かった。自分のオフィスに戻ると日本から展覧会の開催に合わせて谷本紅(こう)がニューヨークへ来るという連絡が入っていた。うんざりすることだったが、野田夫人の代わりに来るというのであれば来なくていいとは言えない。
 展覧会まであとひと月足らずというところまで来ていた。すでに展覧会の準備は最終段階に入っている。ここまでくればあとは開催を待つだけだ。野田夫人からは野田の容体は変わらず意識不明の状態が続いていると聞いていた。野田の体力がどこまでもつかで、もう回復は望めないだろう。このまま展覧会の開催を迎えるしかない。

 野田夫人が電話をしてきたその日の深夜のことだった。家に帰って眠れないままに天井を見上げていると携帯電話が震えた。希和からの電話だった。
『秋孝さん』
 希和の声は小さかった。
『お母さんが、……永瀬雅子さんが亡くなりました』

『お母さんがいた施設でお葬式をしてくださったんです。小さな……お葬式でした』
 小さな葬式というのがどういうものなのか、俺にはわからない。
「そうか」
 そう言ったが希和はしばらくなにも言わなかった。
『秋孝さん』
 希和の声がまた小さく響いた。
『どうしてお母さんのこと、話してくれなかったのですか』
「母のこと、聞いたのか」
『……はい』
 希和が電話の向こうでさらに小さな声で答えた。誰に聞いたのか知らないが、希和は知ってしまったということだ。
『わたし……、できれば秋孝さんから聞きたかった。秋孝さんが話したくない気持ちはわかりますけど、でも話してくれていたら……。秋孝さん、ひどいです……』
「話していたら希和は俺と結婚したのか」
 電話の向こうで息を飲む音が聞こえたような気がした。そのままお互いの息づかいを聞いているかのように希和はなにも言わなかった。そして俺も。
『わかりません……』
 長い沈黙の後でやっと希和の声が聞こえてきた。苦しそうな声だった。

 希和、おまえもか。
 おまえも俺が犯罪者の息子だと蔑むのか。

 俺の無言に急に希和の声が響いた。
『でもわたし、秋孝さんが帰って来てくれるって心のどこかで信じていたんです。帰って来て欲しかった。今更言ってもどうにもなりませんけど』
 どうにもならない。そう、もうどうにもならないのかもしれない。
『お母さん、かわいそうです。ずっとひとりで……罪を償ってきたのに、亡くなるときもひとりで、秋孝さんにとっては親じゃないかもしれないけど……でも、でも……』

 かわいそう。
 人間なら誰でもそう思うのだろうか。希和は人間だからそう思うのだろう。だが、俺に人らしい心はないのかもしれない。希和が母に同情しているのもきっと普通のことなのかもしれない。そう思いたかったが、出てきた言葉は気持ちとは裏腹なものだった。
「離婚にならいつでも応じる。希和のしたいようにしてくれ」
 一瞬、電話の向こうでなにかの物音が聞こえた。なにかが壊れるような音だった。
『そんな、そんなことを聞きたいんじゃないんです!』
 初めて聞く希和の強い言いかただった。声が震えていて、きっと泣いているのだろう。
 済まなかったと言うこともできずに希和が切るよりも前に電話を切った。




 野田の展覧会の開催日、オープニングを控えて人が集まり始めていた。野田が病床にあるためにセレモニーは簡素に行うことになっていたが、プレス関係者はすでにかなり多く来ていた。招待客などももうすぐ来るだろう。
 美術館のオフィスの部屋から出てセレモニー会場へゆっくりと向かった。正面入り口から入ったところにあるホールから見上げると野田の代表作である「森林」のシリーズ作がひとつずつずらされて展示され、二階の展示スペースの奥まで続いていた。作品の展示が「森林」に見えるようにした、今回の展示での最も主要な作品の数々だった。見る者を森の中へ迷い込ませることができるか、否か。
 それらをホール下から見上げながら密かに息を吐いた。ようやく、というしかない。長い準備期間と野田の病気を考えればここまでこられた達成感を感じても良さそうなものだったが、俺自身の気持ちは盛り上がってはいなかった。開催の直前まで妙な疲れを感じる毎日だったが、それでもつとめて平静にいつも通り仕事をしていた。ここまでくればあとは開催だけだとは思ってもなにか問題が出てくる気がして落ちつかなかった。こんなことは自分でも初めてだった。
 しかしそれも今日で終わるだろう。展覧会が開催されればあとは予定通り進む。そう信じるしかないのだ。

「お久しぶり。あら、新しいスーツ? 良く似合っている。すてきね」
 不意に日本語で話しかけられて振り向くと案の定そこには紅(こう)がいた。
「わたしが来ていること、知っていたんでしょ。食事に誘ってくれると思っていたのに電話もくれないんだから。冷たい人」
 紅が展覧会のオープニングに合わせてすでに三日前にニューヨークに来ていることも知っていたが、会うのは願い下げだった。
「どうして俺があんたを食事に誘わなければならないんだ」
「なにか都合の悪いことでも?」
 紅がむっとした表情をしたのも一瞬のことで異様に明るい声で答えた。
「わたしと食事をするくらい仕事のうちでしょ。もしかして奥さんに遠慮しているの。まさか、あなたがねえ」
 紅の若い女らしくないきんきんした声が神経に響く。
「話している時間がない。むこうへ行ってくれないか」
 すでにホールの一角にはカメラマンたちがカメラを構えていた。その中には日本のテレビ局のカメラもあった。客たちも集まって来ていた。
「余裕なしって感じ。あなたらしくもない」
 展示場の前へ向かって歩き始めたが、紅は一緒に行こうとした。
「あんたは向こうだ」
「なあに。エスコートしてくれないの」
 エスコートを求めるなど、らしくもないのはおまえのほうだと言いたかったが開催時間が刻一刻と近づいている状態だった。美術館の館長が俺のほうを見て待っているのが見えた。
「奥さん、来てないんでしょう? こんなときに来ないなんて」
 うるさい。
 紅は紅い唇で話すのをやめない。
『ナガセ! いよいよ開催だな』
『ようこそ』
 知り合いの新聞社の男から声をかけられて歩きながら短く答えたが紅は話し続けていた。
「奥さん、来ないの? 来ないのね。それとも人前に出せない奥さんなの」
 うるさい。

 腹の底に黒い怒りが広がっていく。紅が希和のことを言うことにむしょうに苛立つ。紅が俺を苛立たせることが目的だとわかっていても、希和のことを口にするたびに自分でもわけのわからない怒りが込み上げてくる。いままでは誰かに希和のことを言われても自分の気持ちが動くことはなかったのに。
 紅に希和のことを触れられたくはない。それなのに紅の赤い唇が希和を貶めている。希和を……。

「希和を侮辱するな」
「侮辱なんてとんでもない。あなたと結婚するなんてたいしたものだと思っているのよ。立派な奥さんね。野田先生の奥様にも気に入られたそうだし。でもなにも知らないって怖いわね」
 うるさい。
「他人の夫婦のことに口を挟むな」
「なによ、もっともなこと言って。あなたこそ人前になんか立てない……」
 紅の言葉が途切れた。そむけるように逸らされた横顔にばらりと髪がかかり同時に紅の悲鳴が上がった。

 俺の手が紅の頬を張っていた。
 多くの客がすでに集まっている中で。いくつものカメラの構えられている、その前で――。


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