夜の雨 21


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 朝食を終えてそそくさと後片付けに取りかかると、秋孝さんは電話をしなければならないと言ってすぐに書斎代りの部屋に入って行った。背の高い彼の背中がドアの中へ入って行くと思わずほっとしてしまった。
 それから洗濯機に秋孝さんのシャツを入れるときにスーツを寝室に掛けておいたことを思い出して見に行った。ハンガーに掛けてあった秋孝さんの黒いスーツはほとんど乾いているようだったが、上着の前を開いたときにほんの少しだけ昨夜の雨のような匂いが鼻の先をかすめていった。

 秋孝さんが帰って来たのに――。
 上着をまたハンガーに掛けると念のためにエアコンの除湿機能をつけておき、起きたときのままになっているベッドを整えた。朝方の、ここでの行為を思い出させるようなシーツのしわはあえて見ないようにして整えていたが、知らず知らずのうちに手が止まった。

 こうして抱かれはしたのに――。
 体を触れ合わせることはしたのに、それだけ。秋孝さんはなにも言わないし、帰ってきたらあれもこれも話したいと思っていたこともなぜか話しかけにくくて会話できないでいる。まだ明日の予定も聞いてない。

 カーテンを開くと窓の外ではいったんは止んでいた雨がまた降りだしていた。今日も一日雨になりそうだ。そして窓の外を見るともなく見ていたが、自分に弾みをつけるように振り返ると寝室を出て秋孝さんのいる部屋の前へ行った。耳を澄ますと話し声が聞こえなかったので電話はしていないだろうと思い、小さくノックした。返事が聞こえたのでドアを開けると秋孝さんが座っていた椅子を回して向き直ったところだった。
「あの……」
「なにか?」
 秋孝さんにまともに向き合われて、なぜかわたしはエプロンの端を握りしめてしまった。
「昨日のスーツはクリーニングに出したほうがいいですか。この近くにはクリーニングのお店がないので、もし明日、仕事でしたら」
「ああ、それならそのままでいいよ。乾けばそれでいい」
 秋孝さんがそう言ったところでテーブルの上の携帯電話が振動し始めた。秋孝さんがテーブルに向き直ったので部屋から出ようとしたら呼び止められた。
「希和、コーヒーを淹れてくれないか」
 それだけ言うと携帯電話を耳へ当てて英語で話し始めてしまったが、振り返っている彼の目がわたしを見ていたので返事をする代わりに頷いてドアを閉めた。

 そうか、コーヒーを淹れればいいんだ。
 秋孝さんも気に入っていた村上さんの自家焙煎のコーヒー豆も送ってもらってある。以前だってコーヒーを飲みながら話したことがあるのだから。
 村上さんの豆が急に助けてくれる神様のように思えてすぐにお湯を沸かしにかかった。ドリッパーをセットしてミルに豆を入れたところで秋孝さんが部屋から出てきた。
「こっちで飲むよ」
「あ、はい」
 こうして話しかけられれば普通に話せる。会話ができて、さっきよりは気が楽になってきた。
 ソファーの前のテーブルにコーヒーを淹れた白い粉引きのカップを置くと秋孝さんはなにも入れずに口をつけた。彼はいつもブラックだ。
「スーツはほとんど乾いていますけど、明日はお仕事ですか」
「そうか、まだ言ってなかったな」
 かちりと小さな音をたてて秋孝さんがカップをソーサーの上に置いた。
「明日は東京で仕事だ。その後は予定を入れてないが、三日ほど休めると思う」
 彼の言葉に黙って頷いた。
「だがアメリカでの野田先生の展覧会が終わる二月まではもう帰ってこられない。本来なら野田先生が六月に渡米する予定だったが、それもできずに展覧会までのスケジュールが大幅に狂っている。今回の東京での仕事も来年春からの日本国内での展覧会についての打ち合わせだ。日本ではテレビ局がバックに付いている展覧会だからいろいろと複雑だ」
「そうですか……」
 やはり予想通りというか、秋孝さんの仕事は野田先生の病気のことがあって大変なことになっているようだ。でも、来年の二月まで帰って来られないなんて……。
「あの、野田先生のご容体はいかがでしょうか。もしまたお見舞いに行くのでしたらわたしも一緒に」
 今回の帰国中に秋孝さんがお見舞いに行くのならわたしも同行したほうがいいのだろうか、せめて奥様と会うことができたら……と、秋孝さんが帰国を連絡してきたときからずっと考えていたことだった。でも最後まで言わないうちに遮られた。
「いや、その必要はない」
 必要ない?
 あまりにはっきりとした秋孝さんの言いかただった。
「野田先生のことは俺の仕事でのことだから希和が行く必要はない」
 え……。
 言いかけたが言葉が出なかった。わたしを見ている秋孝さんの視線が思いのほか厳しかった。
「希和、野田先生の夫人と会ったそうだな」

「昨日、ここへ帰ってくる前に京都へ寄って見舞ってきた。そのときに夫人がそう言っていた。どうして希和が夫人と会うんだ?」
 ……わたし、まだ話してなかった。
 仕事のことも詳しくは話してなかったし、峰田先生のところで野田先生の奥様に会ったこともまだ話してなかった。奥様のことは秋孝さんの仕事に関係あることだから、ちゃんと言っておかなければならないことなのに。

「先に……話してなくてごめんなさい。わたしが仕事の勉強で教わっている先生の工房が滋賀県にあって、奥様とはそちらでお目にかかりました」
「先生?」
 訝しげに秋孝さんの目が細められた。
「峰田怜秀先生という先生で……、先生は女性の染織家で、あの、ご年配のかたで……」
 わたしを見る秋孝さんの視線が厳しく感じられてうまく話せない。でも話さなければと、野田先生の奥様が峰田先生の一番弟子だったので先生のお宅で偶然引き合わされたのだとやっと話すことができた。

「そうか。だがさっきも言ったが、野田先生のことは俺の仕事でのことだから希和が見舞いに行く必要はない」
 秋孝さんの仕事に首を突っ込むつもりなんてない。だけどわたしもお見舞いに行ったほうがいいのなら……。ああ、秋孝さんになんと言ったらいいのだろう。
「でも奥様に失礼にならないかと……」
「希和は俺の仕事には関係ない。何度言わせるんだ」
 秋孝さんの語気が強まってびくっとしてしまった。わたしを見る秋孝さんの目が怒っている……。
「すみません、余計なこと言って……」
 そうは言ったものの、涙がにじんできそうになってソファーから立つとキッチンへ逃げた。大きな塊が胸の中につかえているようで、コーヒーのドリッパーを片付ける手が震えたがなんとか涙を抑えた。

 ……どうして。
 どうして、秋孝さんが怒っているのか。
 わかっているのに、わからない。
 わかっているのに……。







 その日は秋孝さんもそれ以上は話をせず、書斎代りの部屋でパソコンに向かって仕事をしているようだった。食事の時間には部屋から出てきてくれたが、食事中もほとんど会話はなかった。
 夕食を済ませて秋孝さんがお風呂に入り、その後でわたしも入った。お風呂でひとりになって秋孝さんがいるときには出せなかったため息が出た。ため息しか出ない。

 野田先生の奥様と会ったことを言ってなかったことはわたしが悪かった。秋孝さんがプライベートなことに立ち入られることを好まないことは以前から感じていたのに、野田先生の奥様からわたしのことを聞かされることになってしまったら……。秋孝さんがどこか不機嫌そうだったのはそのせいかもしれない。
 でも野田先生のお見舞いのことはしゃしゃり出るつもりで言ったことではないのに。それなのに秋孝さんを怒らせてしまった。

 お湯の中にぽとりとしずくがひとつ落ちた。
 秋孝さんが帰ってきたらいろいろ話したいと思っていたのに、今はもうその気持ちがしぼんで小さくなってしまった。
 待っていたのに……。



 お風呂からあがって寝室へ行くと灯りはもう消されていた。様子を窺って秋孝さんがもう眠っているとわかって正直言ってほっとした。
 同じベッドに横になりながら目を閉じても眠れそうになく、暗くて見えない天井を見上げていた。まだ雨が降っている。

「希和」
 不意に声がした。
 秋孝さん、眠ってなかったんだ……。
「まだ気にしているのか」

 ……気にしている。
 でもなにを気にしているのか今のわたしには上手く言えない。いいえ、と答えることしかできなかった。


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