夜の雨 20


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 たった二週間の研修でどうにかなるものではないと、わかっていたけれど。
 峰田先生のところから帰ってきてから自分なりに勉強をしていてもわからないことだらけで情けなくなる。知識も技術もまだまだで、できれば先生のところでもっともっと勉強したいと思ったけれど、とにかく今は家で織り元さんからの仕事をしながら糸の染めの勉強を続けていた。

 研修中に秋孝さんから連絡はなかった。二週間も家を空けてしまってなんとなく秋孝さんに悪いような気がしていたけれど、何事もなく帰って来られてほっとした。
「希和さん、またいらっしゃい」
 峰田先生が研修を終えて帰るわたしにそう言ってくださった。ぜひまた行きたい。でもすぐに決められなかったのはやはり秋孝さんにまだ詳しいことを話していないからということもあったし、秋孝さんの予定がわからないということもあった。野田先生の容体がとても悪いことを知ってしまったいまは秋孝さんにいつ帰ってくるかと聞くのはためらわれた。秋孝さんの仕事が大変なことになっているようで想像するだけでも怖かった。当分は帰って来られないのかもしれないと思うとため息がでた。でも、それまで遊んでいられない。峰田先生からいただいてきた糸を出して機(はた)へ掛けた。
 この糸は峰田先生の工房で染めさせてもらった糸だ。先生はご自分の工房に藍甕(あいがめ)を持っていて木綿の糸を染めさせてもらった。わたしが初めて染めた糸。といっても肝心なところは先生に教わりながら染めたものだ。薄い水色のような浅葱(あさぎ)色としっかりとした濃い藍色に染まった二色の糸で、量は多くはなかったので大きな物は無理だけど細長いストールくらいなら織れるだろう。この色なら秋孝さんに使ってもらえるだろうか。藍染のストールではスーツには合わないだろうし、ストールを好まない男の人もいる。でも、たとえ使ってもらえなくても初めてわたしが染めた糸で織っておきたかった。なにより秋孝さんに織り上がった物を見てもらいたかった。

 今では家の中はすっかり染織の道具だらけになっている。峰田先生の書かれた本を教科書にして毎日のように糸を染めた。染めに必要な用具類や材料を手に入れるために東京の染料店へも何度か行ったし、織りの仕事をもらっている織り元さんにも出向いて糸や染色について教えてもらっている。毎日朝から晩まで自分の仕事や作業に没頭して、時々食事をすることも忘れてしまうくらいだった。
 結婚しているのに、いや結婚したからこそ、こうして好きな事に打ち込めるようになるなんて、あまりに自分に都合良くいきすぎている。秋孝さんはわたしが日本に住むことも仕事をすることもすべて認めてくれている。今のわたしはなんだか信じられないくらいに恵まれていて、こんなでいいのだろうかと思うくらいだ。
 秋孝さんからは相変わらず連絡はなかったけれど、今度秋孝さんが帰ってきたらわたしの仕事のことも話したい。野田先生の奥様と会ったことも話さなければ。それに秋孝さんのご両親にまだ挨拶にも行ってないから、それも……。
 いろいろと気がかりなことはあったが、ストールが織り上がって仕上げも済んだその日に秋孝さんから帰国の連絡が入った。


 七月の中旬に帰国するという秋孝さんからの連絡はメールだった。帰宅の日にちと夕方には家に着くと書かれたシンプルな連絡だったが、それはいつもの秋孝さんだったからべつに気にならなかった。梅雨(つゆ)はまだ明けずお天気の悪い日が続いていたけれど秋孝さんが帰って来る日までに食品や日用品の買い物も済ませておき、染めの作業もいったん休みにして出しっぱなしだった道具類も片づけた。機(はた)は片づけることはできないけれど、あまり散らかったところは見せたくない。
 秋孝さんが帰って来るその日、昼過ぎまでは晴れていたのに午後になって急に曇ってきた。梅雨だから晴れが続かないのかと空を見上げると、もう雨が降り出しそうな気配だった。車で迎えに行くから駅に着いたら連絡くださいとメールを送った途端にざあっと雨の降ってくる音が聞こえた。
「わ、降ってきた」
 窓の外を見ると庭の草木の葉が雨に叩かれて揺れている。秋孝さんから連絡がきたらいつでも迎えに行かれるように仕度をしていると玄関でチャイムが鳴った。
「あ、秋孝さん!」
「ただいま」
 わたしからのメールは間に合わなかったらしい。玄関に入ってきた彼の黒いスーツの上着が肩から胸にかけてかなり濡れていた。靴を脱ごうと屈んだ彼の髪から水がぽたぽたと玄関の床に落ちていく。
「タオルを持ってきますから」
「いや、いい」
 言いながら体を起こした秋孝さんの顔に言葉が出なかった。濡れた髪が額にかかり翳った下で目が光っている。まるでなにかを睨むようなきつい目の光に体がすくむようだった。けれどもそれは一瞬のことで、濡れた髪をかき上げながら上着を脱いだ秋孝さんからさっきの表情は消えていた。
「風呂は使えるか?」
「あ、はい。シャワーなら」
「じゃあシャワーを浴びるから着替えを持ってきてくれないか」
 わたしが脱いだ上着を受け取ると秋孝さんはリビングへ行き、そこでシャツを脱ぎ始めた。シャツの前を開きカフスのボタンをはずしていく秋孝さんの素肌の胸が見えて思わず目を逸らしてしまったが、秋孝さんは上半身裸になると脱衣所へ入っていった。
 浴室の中からシャワーを使う音がし始めたので着替えの服を脱衣所に置き、玄関へ戻って秋孝さんの濡れた靴と持ってきたキャリーバッグを拭いてからバッグはリビングへ置いた。そうしているあいだも雨は音をたてて降っていて、上着を掛けるハンガーを取りに寝室へ行くと叩きつけるように降る雨の音が大きくなっていた。
「すごい雨……」
「そうだな」
 ひとり言で言ったのに答える声に驚いて振り返ると開けてあった寝室のドアから秋孝さんがタオルで髪を拭きながら入ってきた。髪を拭き終わるとベッドに腰をおろしてふうっと大きな息をついた。
「大変でしたね。お帰りなさい」
 ハンガーを取り出しながらそう言ったが、秋孝さんはなにか考えているように黙ったままで答えなかった。口数は少ないものの、話しかけてもなにも答えないと言うことは今までなかったように思う。
「あの……」
「少し寝かせてくれ。しばらくしたら起きるから」
 そう言って秋孝さんは半袖の白いTシャツとイージーパンツのまま、ごろりとベッドへ横になってしまった。
 なんとなく不機嫌そうな感じで夕食はなにがいいか聞こうと思っていたのに聞けなかった。でも、考えたら時差もあるし、なにより秋孝さんは疲れているようだった。さっきの玄関でわたしを見たきつい目つき、あれもきっと疲れていたせいかもしれない。秋孝さんが帰ってきたからといってひとりで嬉しがっていたらいけない、と思いながら音をたてないように寝室のドアを閉めた。

 激しく降っていた雨はさすがに弱まったけれど雨は降り続いていた。秋孝さんが起きてきたら夕食を食べられるように準備はしておいたが、あれから秋孝さんは起きてこない。かといって無理に起こすのも悪かったので夕食はひとりで簡単に済ませ、お風呂に入ってから寝室へ行くと秋孝さんはまだ眠っていた。まだ明日の予定を聞いていなかったが、少なくとも朝まではこのままでいいだろう。彼を起こさないようにそっとベッドに体を滑りこませて横になったが、秋孝さんがとなりに眠っているという、いつもとは違う状況にわたしのほうがなかなか寝付けなかった。
 帰ってきたときの秋孝さんのなんとなく不機嫌そうな様子はなんだったのだろう。やはり野田先生のことが大変なことになっているのだろうか。
 思いあたることは他にはなかったが、せめて帰ってきたときくらいはゆっくり休んでもらいたかった。仕事のことはわたしが口出しすることではないだろうが。
 寝返りを打つこともできずじっとベッドの中で雨の音を聞いていたが、しばらくして雨の音がしなくなった頃、やっと眠ることができた。

 目覚まし時計のアラームに目を開けると、ベッドが少し揺れてアラームの音が止んだ。秋孝さんが腕を伸ばして止めてくれたのだとすぐにはわからなかった。頭の中がぼうっとしていた。
「す……、すみません」
 アラームを止めてもらって。
 言いながら起き上がろうとしたが、起き上がれなかった。秋孝さんが肘をついてわたしの上に覆いかぶさっていた。
「え……」
 まだ頭の中がはっきりしていなくて、どうしてそうなっているのか理解できなかった。秋孝さんの手がすっと動くとパジャマの胸元から中へ入ってきてはっとした。ゆったりした薄いパジャマの中で彼の手は容易に胸の先端へ届いていた。
「あっ……」
 出かかった声が唇で塞がれた。割られた唇に舌が差し込まれて、吸い上げられるように何度も動きながら離してくれない。封じられるように執拗に続けられるキスになにかを言いたくてもできない。
 いつのまにか彼の体が両足のあいだに入っていた。体重で押さえられているわけではないのに足を閉じることも起き上がることもできない。上半身を起こした秋孝さんがわたしを見おろしていた。
「いいか」
 その意味がわからなかったわけではなかった。それなのになにも答えられなかった。もう部屋の中も明るくなっていて秋孝さんの顔も良く見えたが彼の黒い目は翳っていて昨日、玄関で見た目ほどきつくはなかったが、だからといって楽しそうな目でもなかった。その目を固まったように茫然と見返すばかりのわたしに秋孝さんはふっとかすかに唇だけで笑ったようだった。どうしてそんなふうに笑うのか、わからなかった。秋孝さんがなにを考えているのかも。



 ……いつも不思議だった。
 やせぎすで美人でもないわたしを秋孝さんはどうして求めてくれるのかと。
 体だってそれほど魅力があるとは思えない。自分のことだからよくわかる。でも、彼が求めてくれるのなら応えたい。いつもそう思ってきたつもりだった。

 こんなときでも秋孝さんは避妊具を忘れなかった。そのことが心に引っかかったが、いつもよりゆっくりと押し開かれて体の奥深くに押しつけられる感覚はむしろこれまで感じたどれよりも強いものだった。秋孝さんの昂ぶりで突かれるたびに恥ずかしげもなく足が開いてしまうのに、それなのに上り詰められない。最後のところで足踏みしているようなじれったさにむしろ体が動かない。そんなわたしに気がついたのか秋孝さんがつっと繋がっているところに指を這わせた。敏感になっている突起を押され、押しつける動きに合わせて何度も滑るようにこすられて否応なしに体が反応していく。いきたいのか、いきたくないのかわからないのに秋孝さんは止むことなくわたしを押し上げていった。すべてをわかっているように動く秋孝さんに、もう、もう、体がいうことをきかない。体を揺らされながら目をつぶり、声が出てしまわないように耐えることしかできなかった……。






 急いで朝食のしたくをするあいだ、秋孝さんは座って新聞を読んでいた。何事もなかったように新聞を読む秋孝さんは無表情といっていいほどの平明さだった。わたしにはまだ抱かれていたときの感覚が残っているように感じられるのに秋孝さんの平然とした落ち着きぶりはいったいなんだろう。
 ほとんど会話のない食事だったが、秋孝さんは不機嫌そうでもなく、かといって上機嫌というわけでもなく朝食を食べていた。いつもと変わらないといえばそうなのだが、わたしは話しかけられなかった。
 今までもかなり強引に抱かれたことはあったのに、今朝は一方的に抱かれたような気がして心も体もついていけないような気がしていた。それにいろいろ話したい事があったのに、まだなにも話せていなかった。


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