夜の雨 22


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 翌日、秋孝さんは東京へ出かけて行った。帰りは遅くなるから夕食は要らないと言われて、彼の出掛けた後はもう昼食も食べる気がしなかった。
 今夜、秋孝さんが帰ってきたら翌日から三日間は休みだ。以前ならば三日の休みなんてあっという間だと感じただろうが、今のわたしにはとても長く思える。掃除機をかけながら気がつくとつい考え込んでしまっていてちっとも家事がはかどらなかった。こんなときはなにをやっても上手くいかない。

 夜になって帰ってきた秋孝さんは別段変わったところはなかった。お帰りなさいと言ったわたしにただいまと答えてくれた。
「東京は暑かったでしょう。ビールありますけど飲みますか」
「ビールか。ありがとう、飲むよ」
 シャワーを浴びてすぐに出てきた秋孝さんに缶ビールとグラスを出すと自分で注いで飲んでいた。
「希和も飲むか」
 なにかつまむ物をと思って冷蔵庫を開けていたら秋孝さんが声をかけてきた。今までふたりで一緒に飲んだことはなかった。
「いえ、わたしはいいです」
 飲めないわけではなかったが、飲みたくはなかった。
 わたしは飲まなかったが、それを気にするでもなく秋孝さんは淡々とした感じでビールを飲んでいた。彼の表情だけ見ているとなんのこだわりもなく思えた。
「ウィスキーのほうがよかったですか」
「いや、これでいいよ。ありがとう」
 おつまみのチーズを出すと秋孝さんがそう言ったが、向かいに座れとは言わなかったのでキッチンへ戻って片づけをした。ゆっくりと片づけをしながらキッチンのカウンター越しに彼と話したのは当たりさわりのないお天気やわたしの乗っている車のことだった。
「じゃあ俺は先に寝るよ」
 ビールを飲み終わるとあっさりとそう言って秋孝さんが立ち上がった。わたしが小さな声でお休みなさいと言うと、おやすみと言いながら寝室へ入って行く彼の声が聞こえた。その後、片づけにかこつけて寝室へ行くのをぐずぐずと先延ばしにしてからやっと行くと秋孝さんはすでに眠っていた。

 なにも気にしなければいいということだろうか。

 ベッドに横になりながら、となりで眠る秋孝さんを意識しながら考えていた。
 普段通りにしていれば、昨日のことはなかったことのように秋孝さんも口にしなかった。
 わたしも口下手だからなにかを言おうとしても意識しすぎてかえって上手く言えないから、このままなんとなく黙っていればいいのかもしれない。
 秋孝さんがなにも言わないのは無言でそうするようにわたしに伝えているのだろうか……。





 からりと晴れ上がった空は真夏の空の色だった。梅雨明けかもしれない。
 今日から休みに入った秋孝さんは朝食が済むとリビングで本を読んでいた。洗濯などの家事を済ませてから今まで作ったことのないアイスコーヒーを作った。きっと秋孝さんはアイスコーヒーでもブラックだ。氷を入れた冷たいコーヒーを出すとありがとうと言って飲んでいた。
 午後には夕飯の食材を買いに行くことにして昼のニュース番組を見ていた秋孝さんに声をかけた。
「買い物に行ってきますね」
「ああ、気をつけて」
「はい」
 普通に返事をして自分の車へ乗った。車で20分ほどのところにある地元の農産品の直売店へ行って新鮮な野菜やハムやソーセージなどの加工品、それからプラムや桃などの果物をいろいろ見て買い、帰りにはパン屋さんにも寄ってきた。時間はかかってしまったけれど家のことは気にせずにゆっくりと買い物をした。
 家についていくつもの布バッグやビニール袋を持って入ると秋孝さんが玄関まで出てきた。
「ただいま帰りました」
「おかえり。持とうか」
 そう言ってわたしの持っていた袋を全部持ってキッチンへ運んでくれた。
「沢山買ってきたんだな」
「野菜とハムと地元のお漬物とお蕎麦とパンに、それから桃とプラムも。お夕飯のときに食べようと思って。秋孝さん、桃とプラムとどちらがいいですか」
「どっちでもいいよ」
 リビングに戻って行く秋孝さんの後ろ姿は昼寝をしていたのか、首にかかった髪の毛のところに
くせがついていた。半袖のTシャツと薄手のスウェットのズボンで、まるで休日の学生のような気楽な姿だった。

 こんなふうに何事もなかったように会話をして、わたしの作った食事を食べて一日が終わっていく。明日も、明後日も同じように何気なく過ごし、そして彼を送り出すことができるだろう。わたしがなにか言ったりしなければいいだけ。気まずくなることもない。そしてまた彼が帰って来るのを待てばいいのだ。

 ――でも。
 それでも言わなければならないことがある。
 言わないほうが楽だとわかっていても。





 夕飯を終えたすぐ後だった。
 秋孝さんはソファーでわたしの淹れたお茶を飲んでいた。
「秋孝さん」
 切った桃の皿を秋孝さんの前のテーブルへ置きながらそう言うと秋孝さんが顔を上げてわたしを見た。
 上手くなんて言えない。それでも。

「お義父(とう)さんへの挨拶は、……いつ行きますか」
 立ったままのわたしを見ていた秋孝さんの眉がかすかにひそめられたようだった。じっとわたしを見ている。それだけなのに、なぜか胸が締めつけられるように苦しくなってしまう。どうして……。
「秋孝さん」
「まだそんなことを考えていたのか」
 そんな、こと……?
 でも約束したのに。わたしに約束してくれたのに。
 それなのにまるでつまらないことのような言いかただった。

「でも……」
 言いかけて黙ったわたしを秋孝さんが静かすぎる目で見ていた。秋孝さんのじっとわたしを見る目に圧されて、頭の中で渦巻いている言葉が出てこない。
「行ったほうがいいと思います」
 小さな声でやっと言うと秋孝さんがすっと視線をはずした。まだお茶の残っているお湯呑を元へ戻すと立ち上がった。
「俺は行く気はない。それだけだ」
 それだけ言うと書斎の部屋へ入っていった秋孝さんにどうしていいかわからずテーブルに置いた桃の皿を茫然と見るばかりだった。

 その夜に眠れたのかどうか自分でもよく覚えていない。同じベッドで眠れそうもなかったが秋孝さんは先に眠っていて、いや、眠ったふりをしていたのだろうか。わたしはひたすら体を固くしているうちにようやくうとうとしたのかもしれない。気がついたときには夜が明けていて部屋も明るくなっていた。秋孝さんはすでに起きた後で書斎の部屋で仕事をしていた。
 その日も秋孝さんは一日家で過ごし、特に変わりもなかった。なにか用があればわたしに話しかけてきたが、それが何気ない会話でもわたしは返事をするだけでほとんど話せなかった。
 そして夕方になり、明日はアメリカへ帰ると言われた。わかっていたことなので黙って頷くと秋孝さんは書斎の部屋で荷物をまとめていた。

 翌日、「行って来る」と言ってドアを開けた秋孝さんに、わたしは行ってらっしゃいと言わなければならないのに言えないままだった。そんなわたしを秋孝さんはやはり冷静な目で見ていたが、すぐにドアが閉められた。
 家の外を秋孝さんが歩いていく気配を聞きながらぺたりと玄関の床へ座りこんでしまった。涙も出ず、秋孝さんが行ってしまったと、ただそれだけを考え続けていた。


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